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murmuring note no.17(新型コロナウイルスをめぐる権力の見事な操作)

新型コロナウイルス感染症対策で、私が抱く最大の疑問は次の通り。
人的ならびに物的医療資源をパンクから守るために検査を絞ったと言うなら理解できる。しかし、感染疑いの人間の数が、現在の医療体制で処理できないほど大きいと判明した時点で、医療崩壊は起きているのだ。それが、イタリアやニューヨークのように事実として現れるか、日本のように検査数で誤魔化すかは、国の方針によって分かれる。ところが医療崩壊という文言が独り歩きし、検査逃れの呪文のごとくに使われた。しかも、それに明確に反論する人間はいなかったのである。
上述から予想がつくと思うが、権力(政府)の巧みなやり口は、こうだ。新型コロナの感染者数の客観的なデータ(実数値)は、元よりネグレクトしている。最終的に、疫学的に病原体を駆除できればよい。ついでに、新型コロナショックを利用して反対勢力や不必要な層を追放することを狙う(こちらのほうが主目的かもしれない)。
検査に必要な資源が貧弱なので医療機関で扱いたくない軽症、無症状の患者は切り捨てる。切り捨てられたサイレントキャリアーが、市中で他人にウイルスを伝播し拡散する。このように検査の粗い網の目から漏れ出した彼ら(検査にかかる新型コロナウイルス感染の重症者は多くない)が、感染爆発の震源となる。だが、彼らにまったく責任はない。彼らを取り締まらず野放しにした権力が悪いのだ。
新型コロナウイルスは、誰もが感染するというアナーキーな触れ込みで来襲したが、差別的だった。社会のヒエラルキーの最下層から冒していったのだ。だが、そのように弱者から順番に犠牲(直接的な感染拡大と間接的な経済貧窮)にするのは、生来の平等主義者であるコロナの本意ではない。社会の防波堤を最底辺から積み上げて階層構造を築いてきた権力が、こうした緊急事態に備えて編み出した作戦の結果である。
権力はコロナ危機に乗じて、なんとホッブスの自然状態である適者生存の弱肉強食世界を作り上げようとしている。新型コロナ禍が、その仕上げの大喜利シーンなのだ。ならば、自滅をスゴスゴと受容する前に、我々は行動を起こそうではないか。なにができるのか? 蹶起あるのみ。権力に向けてコロナウイルスをたっぷり含んだ大くしゃみをぶっ放すことだ。
とはいえ欺瞞は、権力が安泰なポジションをキープしながら、権力に属さない人間(とくに反対派や前進に足手まといとなる弱者や下層民)を弱肉強食の坩堝に投げ入れることである。これは公平な生存競争ではない。それは、既存の権力の生き残りを前提に、それに奉仕する忠実な奴隷を選択し掬い上げるレースなのだ。ホッブスの言うリバイアサンも実はそうした出来レースの一種だったが、権力を正当化するための思考実験としてのリバイアサンは、適者生存の参加者にとっては、堪えがたい地獄である。
ならば感染の実態くらいは、ちゃんとデータを示した上で説得してくれと率直に思うのだ。そして、できればそれで市民を納得させてくれとも。不安に付き纏われたままでは、不確実なデータに踊らされて、感染者数が少ないから緊急事態を解除してもよい、逆に検査数が少ないから背後に未確認感染者が沢山いるかもしれない、と両方の気持ちに揺れ動く。
それは、どのロジックにも対応できる狡猾なデータ操作である。権力者は心得ている。伊達に戦後政治を牛耳ってきた曲者ではない。その彼らの作った体制を覆すことは、望み薄かもしれない。
新型コロナウイルスの検査データは、このように間違いなく意図的に提供されている。これを突破口に徹底的に批判しないマスコミはだらしない(共犯者だから?)が、この方針を定めたのは感染の専門家ではない。彼らはデータの収集とデータに基づく解析を施して警告を発するが、どのデータを使うかを決定するのは管理する立場の官僚と、その背後に控える政府である。

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