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murmuring note no.11.5(新型コロナ騒動のなか、もう一度表現の自由を問う)

この記事は、一か月弱ほど前の日付(正確には3月21日)で下書きに残してあったのですが、現在でも有効と考えno.11.5として投稿しました。

東京でオーバーシュートが起こらないのが、不思議だ。政府は、このまま行けばオーバーシュートが起きることを予想しているだろう。が、医療対策費をけちっているのか、新型コロナの検査を渋るとはよほど予算がない? オリンピックの費用に使いすぎたのか? しかも、それが中止となれば損失は取り返しようもなくデカい。彼らの失政(オリンピックとコロナのパンデミックは結果責任である)は、厳しく糾弾されるべきである。
だが、現在の東京は世界で一番安全そうだ。こんなにユルい防疫が効を奏したのか?
東京の街中に出て、この平穏さが危険だと感じる(冒頭の写真、参照)。ドイツでもニューヨークでも、オーバーシュートが起きる直前は、ありふれた日常生活が送られていた(写真は、ニューヨーク)。

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かつて、平和と安全は日本の売りものだった。おかげで住民はのんびりと生活し、不安を抱くことがなかった。素朴で従順で能天気な性格が、広く国民性として定着するまでに平穏だったのだ。
この一見平和な生活環境が人工的に作られたものであることは、日本の外部と内部の間を行来していれば、自ずと気づく。それはアメリカの核の傘の下、高度管理社会が捏造した現実である。生活のあらゆる局面を制限し、特定の秩序の枠内に国民を押し込める非暴力的支配システム。抵抗できないよう心を武装解除された人民を生み出す巧妙な罠が至る所(学校、マスメディア、会社)に仕掛けられている。国民はツアー旅行のように、すべてあなた任せで安楽で心地よいこの真綿でくるまれた楽園のような世界のなかに微睡む。もはや抵抗も逃走も思い付かない飼い慣らされた動物に自分たちがなっていることに気づく者はいない。
アートは、この状況を気づかせ、それから逃走し抵抗することを教えるのだが、アート作品を展示する空間(つまり美術館)が、率先して高度管理システムの一部となり、観賞者を反省どころか身動きすらできない状態に閉じ込める。その最前線に配備されているのが、管理機構の末端のか弱き監視員である。外国のように監視員がだらだら仕事をするか、人手不足で展示スペースに誰もいないことはなく、観賞者に自由を許す隙を作らせない表層の平静さを維持するこの緻密なシステムは、美術館の入場者に観賞のふりをさせて、けっして作品の持つ不穏な体制転覆的パワーを吸収させないように監視している。そのためには、観賞の仕方以前に、展覧会の事前検閲や変更強制すら辞さない。とにかく作品の危険な毒はあらかじめ抜いておけというわけだ。
だからアーティストは、表現の自由を叫ぶ前に、体制が怖れ禁止される内容を自分の作品が有しているかどうかを胸に手を当て自問すべきである。そうでないと、表現の自由を訴えて闘う言葉が虚しく響くだけである。形式のみのアートは、手なずけられて牙を抜かれた内容ともども、反動以上に反動的なのだ。

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