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安倍さんとそのバロックなウェストミンスター型政治

安倍政治の本質
先週の木曜で、奇しくもちょうどフランスの隣の国の君主が亡くなった日だが、安倍さんが暗殺されて二か月になる。反社会的宗教団体との関係どころか癒着がとんでもないレヴェルまで至っていたことがその間テレビや週刊誌で明らかになり、またそれを受けて、当初は歯切れが悪かった岸田首相もその団体との関係を断つと宣言。暗殺が一つの時代を終わらせるが如くオリンピックの汚職など安倍政権時代にできた膿が吹き出してきているようである。

ところがそんな流れに馬耳東風でオリンピックのスポンサーからある出版社を排除しようと強権を働いた森喜朗の胸像を作ろうという動きもあるという。これはまさしく安倍さんの国葬が議論なし―弔問外交ができるからなどととってつけたようなことで国民の承諾を得るプロセスなしで、その費用が最低16億円掛かり、取り仕切るのがあの桜の会の会場担当者であるにもかかわらず―で決まってしまったことと同じことで、あたかも内輪での評価が外における評価と一緒だという思い込みを逡巡なく押し通し、異論を無視することが相変わらず行われようとしているのを見せつけられ、これこそが安倍政治の本質だったのではないか、と政権は二年前に終わっているのに改めてまたやるせない思いがよみがえった。

敷衍すれば、その本質とは官房とか参与とかもっともらしい呼び名で同好の人たちを集め、その人たちだけで自分のやりたいことに賛同する人たちだけのために活動し、自分たちの政治に異議を唱える他の人たちを自分たちが機嫌のいいときは無視し、そうでないほとんどのときは「こんな人たち」と首相自身が本来代表しなければならない日本国民をあたかも敵のように悪し様に罵り、自らの政策、行動をみんなに分かってもらう努力を蔑ろにするものであった。

もちろんそれがなぜ悪い、という疑問が出るだろう。強権的に政令を乱発したかつてのトランプさんみたいに人々の権利を取り上げているわけではなく、そもそも政権はちゃんと選挙で多数として選ばれて握っているのだから文句があるならば選挙で勝てという反論は容易に想像がつくし、シュミットを持ち出すもなく政治は友/敵に分断されるのであって、礼に欠く場合はあっても政治家は自分に反対する人たちにお世辞など言う必要はないのかもしれない。

少数派を尊重しなければならないという民主主義の原則は小学校から習い、みんな当たり前のことと思っているが、さて、じゃあ具体的にどうすればいいのってことに関してはそれほど自明ではない。そのため結局少数派の尊重とは道徳の一徳目のようになってしまって、尊重しないことは人非人のように非難されるか、あるいは非難されたほうはしばしばそれが現実政治だとのたまい居直る。

ウェストミンスター型政治
ところで政治は多数派によって行われるというのは珍しい発想ではなく、近年ウェストミンスター型と我邦でもてはやされているそれである。首相の周りに権限を集中させ、国際紛争や天災など多角的かつ迅速に対処しなければいけないことに煩瑣な手続きを通らずして素早く対応できるとされている政治の形である。ウェストミンスター型政治と言われているところから分かるようにこれはイギリスにおいて発達した形である。ただイギリスにおいては、もちろん多数派が自分たちの政治を行うのだが、だからといって少数派が黙っているわけではない。議会において議論は活発になされ、しばしば激論になり、それを取りなすのが議長の技量の見せどころでもある。最近ではJohn Berkowの名采配ぶりが注目された。日本においてももちろんそれなりに議論は行われるが、安倍政権においてしばしば野党―すなわち少数派―が議論の場である国会開会要求しても憲法違反を犯してまでも安倍さんは開かないことがあり、岸田内閣になったいまでも続いている。

けだし権力が集中するウェストミンスター型政治が独裁に陥らないための条件とは1)国会ではもちろん巷でも議論が活発に行われ、それがメディアなどを通してわかりやすい形で国民に伝わり、政治的争点を収斂させるのが必要で、さらに政府そして政権政党が国民から期待されるまっとうさを保っているかが再びメディアによって有権者に伝わっていること、2)情報の透明性とまで言わないが政治が他人事ではなく自分たちのものなんだと国民が政治を身近に感じ、そのうえで政権交代が頻繁に行われることなのではないか。

そのいい例がボリス・ジョンソン政権である。ポピュリスト的人気を集めた彼だが、コロナ禍の中、好き勝手やっていたことが発覚し相当数の閣僚が辞任し、内閣が維持できなくなり、辞任に追い込まれた。これは選挙による政権交代ではないが、少なくとも不祥事と思われることが起きたら、それに対して議論が行われ、それがメディアを通して国民に伝わりそれに対して引責行為が伴われ、政権が交代する。つまり多数派であっても、不祥事、約束した政策不履行、あるいは強権的性格が露骨な場合、それが議論の場に上がり、批判され、その結果責任をとり、やめなければいけない場合にはやめる、という前提に立っているのがウェストミンスター型政治なのである。

安倍さんの蹉跌と復活
さて安倍さん。おそらく安倍さんは多数派による多数派のためのウェストミンスター型政治を皮肉にも本場イギリスのボリス・ジョンソンより理解し、多数派維持のために最大限の努力をし続けた政治家であった。しかしそれはもともとあった資質ではなく、一年も政権をもたすことができなかった第一次政権で苦渋を嘗めた経験を反省し、学習した結果なのだと思う。

彼が政治家として使命と抱いていたのは―池田のように国民を豊かにすることではなく、佐藤のように厳しいアメリカの要求を受け流しながら第二次世界大戦で犠牲になった失われた国土(沖縄)の返還をライフワークとしたわけではなく、そしてもちろん角栄のようにないがしろにされていた地方の再生や老後の不安を解消しようとしたわけではなく―それは憲法改正、ひいてはその九条の改正であった。彼には正直言ってそれしか頭になかった。第二次世界大戦後の日本国憲法が啓蒙思想の究極の理念であるカントの永遠平和の希求の結実であるかもしれないという世界史的意義など全く斟酌せず、アメリカの意向が強く反映した成立過程に拘泥し、「みっともない」と唾棄し、その改正に専心したのであった。

その「みっともない」憲法を改め美しい国にすることしか念頭になく政権に望んだのが小泉さんから首相の座を受け継いだ2006年の第一次政権だ。ところがこの美しい政治的課題は格差社会ということが言われ始め生活に不安を覚える人々の琴線に触れることはなかった。さらに前年の郵政民営化造反者の復党に対する彼の優柔不断からくる政局の取り扱いの稚拙さ、年金の記録漏れと次から次へと問題が政権を襲うが、安倍さんは自身が抱く国家イメージの美化にしか興味がなく、これら喫緊の問題には手をこまねいていたため空気が読めないKY総理として蔑まれ、持病が深刻化したのが主たる原因だが、政権は維持出来ず辞任に追い込まれた。

きっとこのあとであろう、まさしく雌伏をしている間、捲土重来を狙っていたこの時期に安倍晋三が初めて努力というものを知ったのは。子供の頃お手伝いさんの久保うめさんに宿題をやってもらい、全く勉強せず、家庭教師だった平沢勝栄―2000年頃自民党のイメージのソフト化の一役を買ってバラエティー番組に出まくっていた元警察官僚の政治家―をてこずらせ、その後も全て岸・安陪の後ろ盾でゆるく生きてきたお坊ちゃん。志半ばで政権から降りざるをえなく一敗地に塗れた彼はいってみれば素晴らしいコネを使って推薦入学したのにそれが取り消され、不本意に浪人せざるを得なくなってしまった状況に陥ってしまったが、その後周りの人たちの叱咤激励により『傾向と対策』をばっちりと行い、2000年代の後半から2011年までは終った人と思われていたにもかかわらず、2012年にみごとにカンバックしたのであった。

カンバックは先ほど周りの人たちに叱咤激励されて、と言ったが、具体的には経産省の官僚の誘いで高尾山ハイキングでオーヴァーホールし英気を養い、地元山口県の知事の応援などを受け、そして最も忠義のある菅義偉の冷静な分析に勇気づけられ総裁選を勝ち、その勢いで2012年の12月16日の衆議院選挙で圧勝する。安倍さんはその後二度と同じ轍を踏まないため、政治生命をかけたといってもいい憲法改正を世論を分断し政局を不安定にするリスクがあるがゆえ前面に出さず、とにかく政権の安定を追求したのであった。というのもこれも友達すなわちお坊ちゃん政治家の盟友麻生太郎が「政権の安定は選挙に勝ち続けること」、と忠言したことを安倍さんは金科玉条として忠実に実行し、選挙に勝ち続け―おそらくカミソリ岸、実直な父安倍晋太郎に比べ唯一優れていたのは選挙の機を見る眼であり、それによって思わず彼らよりずっと充実した政治家になったのでは?―、政権を維持したのである。その結果今までにないほど安定した政権に成長した。アベノミクスを皮きりに、一億総活躍社会の提唱、消費税増税実施時期の巧妙な駆け引き、パフォーマンス―「ウラジーミル!君と僕は同じ未来を見ている」―としてのロシアとの領土交渉やインドのモディ首相と職務を超える友好が象徴する外交、そして何よりもオリンピック。このように手を変え品を変え、国民に仕事ぶりを見せつけ、その結果国民は彼の政党を選挙で選び続け、麻生さんのアドヴァイスを十分過ぎるほど守り、その結果憲政史上最長の安定政権を安倍さんは維持することになったのであった。

バロックなウェストミンスター型政治
もちろん安倍さんの政権が長期に至ったのは単にその維持のため次々と派手に政策を打ち出し、国民に仕事をしているのを見せ続けたからだけではなかった。幸運にも制度的にも大いに助けられたのであった。折しも90年代から始まったいわゆる政治改革では手始めに1994年に小選挙区制が導入され、同じ党から複数の候補を立てず一本化すため党本部すなわち首相の権限が強くなり派閥の割拠によるかつての疑似的な分権体制が崩れ、また2014年にそれまでは省内の昇進が官僚の間で決まっていたのに対して幹部人事を掌握することになる内閣人事局が成立し、その結果首相の意向を反映した官僚の人事遂行が可能となったが、それを待つことなく内閣官房の拡張・強化(例えば防衛省にではなく内閣官房に安全保障局を、財務省や経産省にではなく内閣府に経済財政諮問会議を設置)をすることと相まって、城山三郎の『官僚たちの夏』が描く優秀な人員を能力によって登用し、出世させるメリット·システムが終わりを告げ、そのかわり新たに官邸官僚という事実上の猟官制(スポイルズ·システム)が誕生し、彼らが首相の意を酌み、それまでの大蔵省(財務省)を頂点とする(表向きは)政治に中立的な官僚体制の上を跋扈することによってさらに首相の権限が強化されていったのだ。

父晋太郎譲りのしぶとさなのか先ほどの受験生の比喩でいえばまるで浪人生が改心して勉強家になったようなものなのか、安倍首相は政権安定の努力を怠らなかった。第一次政権の時に頻繁に行っていたメディアへの問い合わせと言う名の干渉だけではなくその幹部を―保守系、リベラル系分け隔てなく―寿司、しゃぶしゃぶなどで積極的にもてなし懐柔し、応援団のような文化人を擁し、彼らに自身のファンクラブの会報みたいな岩盤極右雑誌で讃えてもらい、バラエティ番組に出演し、そのお礼なのか、芸能人を桜を見る会などに呼び厚遇し味方につけた。菅義偉、世耕弘成、加藤勝信という政治家やまた主に経産省出身の官僚らで忠義をみせる人たちを重宝し、彼らの協力の下たぶん一人では打ち出すことは不可能であった多彩な政策を実行し、ますます権限は与党というよりは首相に集中し政権安定化に大いに貢献したことは言うまでもないでしょう。

生殺与奪権を政治家は選挙において、官僚は出世において握られ、さらにメディア全体を―全体というところが安倍さんの巧いところだが―懐柔して、安倍さんの万全な体制ができあがったのだ。ではこのようなところで果たして自由な議論というものが可能であるのであろうか。

彼がモデルとしている祖父岸信介は保守というより優秀な自分が指導していくという極めて国家主義的性格が強い政治家であった。その彼を尊敬する安倍さんが、彼自身に権力が集中した時に彼に対する批判を許す自由の言論の場を許容することを期待するのは難しい。なにしろ反対する人を「こんな人たち」と罵る人なのだ。(日本にはさらに「長幼の序」なんてのが―中国以来だけど―あり、力ある者に対する意見というのがしづらくなる)

かくして選挙に勝ち続けた安倍さんは日本の政治家が―自民党だけではなく小沢一郎も―希求した多数派による多数派に対してのウェストミンスター型政治を実現させたのであった。ただしそれが独裁に陥らない条件が軽んじられた、すなわち自由な批判的な議論がないがしろにされ政権交代を著しく困難にしたたいびつな、つまりバロックなウェストミンスター型政治であった。

例えば2014年、憲法の改正にもかかわる集団的自衛権の概念の拡張を本来なら国会はもちろん国民の参加を促してでもで議論しなければならないのに大臣だけの閣議で決定をし、さらにそれを受けての次の年の安保法整備においても自らの党が呼んだ専門家であったにもかかわらず、その専門家が国会の憲法調査会で集団的自衛権の拡張が違憲だと意見し、また国民的反対運動もそれなりにあったにもかかわらず法案を通過させる国会では議論せず、テレビのバラエティー番組で安倍さん自身が、隣の家が火事になったら自分ちに火が移らないため火消しに行くのは当たり前という国際関係、歴史的立場を無視した幼稚なアナロジーで言いくるめ、しまいには尊敬する祖父の顰に倣ったのか、60年安保を思わせるような強行採決で押し切ったのであった。

もちろん報道の自由は侵害され、その国際比較ではG7の国で最低に落ちてしまった。

それだけではなく政権が長期化し緊張が緩んだのか、様々な不祥事―森友、加計問題はもちろん、親しい部下である河井夫婦、甘利明、片山さつきらの不祥事が発覚しても、それまでは汚職が頻出するが発覚すればそれなりの処分が下されていた自民党であったが安倍さんは不問に付した。これはそれこそボリス・ジョンソンの不埒な振る舞いに抗議して閣僚が辞任して抗議したイギリス保守党と対照的で、安倍さんのもとでの自民党には―よしんば他派閥の勢力低下を狙うという不純な動機であっても―不祥事に抗議するということはなくなり、もちろん報道陣の追求も編集局長以上の人たちは寿司やしゃぶしゃぶで懐柔されているので甘いものであった。様々なところに口出しをして行政という公の最高責任者である首相の妻としての影響力で行政・司法の手続きを曲げてきた昭恵は私人として閣議決定されため参考人召喚無し、というまことにけったいな決定が下された。

これは議会の多数派が絶大な力をもち、さらにそれを安定化させようと議会における議論を疎かにしたという通常の意味での政治の平面だけの話だけではなく、議会の外の議論が自由で活発におこなれるはずの言論空間にいる文化人、メディアを政権の影響力で懐柔してその空間を翼賛とまでとは言わないが少なくとも批判を行わせないものに変質させてしまったことを意味する。

批判は争点を生み政権を不安定にする。またそのような批判を摘む行為は手間がかかり、下手をすると強権的に映り悪印象を与える。したがってそのようなリスクを避け、そもそも批判という行為自体が悪で、調子をそぐ景気悪いものとみなして、政権が作った流れに乗った発言か、あるいは全く政治的でない趣味や笑いの発言で言論空間を満たすように言論の質を変質させること。これこそが安倍さんが政権の座に復帰して以来第一次政権の時「お友達内閣」や「KY総理」、と好き勝手な批判を許してたことを反省して、心を砕いてきたことなのだ。

その結果見事に安倍さんは多数派による多数派のための政治を実践したのだが、それを安定化させるようと腐心したために、批判を受け止め、言論で答えていくという民主主義的行為ではなく、むしろ批判を、集中した力によって完全に封じ込める強権ではないが、柔らかい形で批判は他人を悪くいうことであるとして言論空間から追放したのであった(美しい国の実現?)。確かにウェストミンスター型政治の完成を見たが、それは民主主義的契機に欠けるバロック(いびつ)なものなのだ。

お話しはところでそこで終わらない。少数派と共に時間をかけて合意形成をしていく政治と違って、本来ウェストミンスター型政治はその手間を省き多数派の勢力優勢によって意思決定をして「スピード感」をもって物事にあたっていくものであったはずだ。ところが八年にわたる安倍政権でマリオに扮したリオデジャネイロの閉会式やまだ就任せず大統領選に当選しただけのトランプさんのところに外交儀典に反して馳せ参じたぐらいしか―あっ、準強姦罪の逮捕状を素早く握りつぶさせたこともあった!―「スピード感」をもってあたったことを思い出すことが出来ず、むしろこの八年でジリ貧化した人々の生活、政権のスキャンダルへの緩慢な対応、そして決定的なのはコロナへの無策とも言える後手後手に回る対策しか浮かび上がらず、安倍政治とはそのスピード感は「感」でしかなく言葉の真の意味でスピードが無い、それでいて政権維持のからくりは繰り返す、張りぼてのウェストミンスター型政治ではなかったのか、と思わざるを得ない。

安倍さんのレガシー、憲法改正とその頓挫
ところでなんで彼はこうまでして政権の維持にこれまでこだわったのか。彼の政治的使命は日本を美しい国として取り戻すこと、それはあの「みっともない」憲法を改正することであった。なので政権安定はあくまでもその手段であり、そのため様々に繰り出される政策はそれ自体が目的ではなく目先を変える意匠でしかありえず、国民のことを第一に考えていないような場合がしばしばみられた―たとえば過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査PT座長でかつてあった彼はしれっと女性活躍推進法を打ち出す。男女共同参画を目指すこの法律は経済政策であってジェンダー平等を狙ったものではない、と弁護する向きもあるが、当事者の女性はそんな説明で納得するのであろうか。そのちぐはぐさはいぶかられ、所詮アジェンダ·セッティングという横文字で言う政局用の言い訳のようにしか見えない。あれだけ、第二次世界大戦の日本人の振る舞いに対するアジア諸国の批判に強気だったのに、戦後70年のスピーチでは村山談話を踏襲しその過去をあっさり反省した。これも結局、2013年の終わりに靖国に行って、アメリカのオバマ大統領に東アジアの安全保障の歩調を乱す戦略のなさをなたしなめられ、アメリカの支持が無くなることを恐れた対応であった(もちろん我をはらず、柔軟に対応したことは評価できます)。

勢力優勢で押し切る単純な多数決におさまらず必ず争点となるはずであろう憲法改正には議論の場において侃侃諤諤と意見を戦わし個人の熟慮が必要である。ところが安倍さんはその議論の場を憲法改正の必要から政権安定化させるため矮小化させたため、それは不可能となってしまった。かといって向う見ずに勢力優勢で押し切ることも不可能であることは第二次政権の巧妙な舵取りを通して学び取った安倍さんは痛いほどわかっていたはずである。

さらに憲法改正の準備として集団的自衛権という新しい解釈及びそれをもとに安全保障の法整備をしたが、それは結果的に現行憲法のもとでも充分に国際安全保障に貢献できることを図らずも可能にしてしまった。安倍さんは皮肉にも護憲という政治的レガシーを残したとうそぶくのは悪乗りし過ぎだろうか。とまれ「理性の狡知」と言われるが如く、暗殺は彼を悲劇の宰相と政治的に祭り上げるいい機会であったのに、図らずも彼の政権の暗部はもちろん彼が尊敬する祖父岸信介がもたらした反社会的宗教団体に操られていた戦後政治の闇が露呈される契機になったように、彼の憲法改正へのけなげな努力は逆説的に改正への機運を遠ざけてしまった。

安倍さんは政治家に求められるカリスマ性、胆力、明察において劣るが、粘り強さ、他人が協力したくなる穏和さという華麗な一族出身にしては地味な特質を有し、それと共に政治改革の流れに見事に乗って戦後から冷戦終了の頃まで行われていた派閥間勢力均衡及び野党との合意を探る政治を過去のものにしてウェストミンスター型政治を実現し、多彩な政治を見せることに成功した。しかしそれは健全な民主主義として機能する条件の自由な議論の場とそれに付随する政権交代の可能性の犠牲の上にできたものであり、しかも多彩な政策はしばしば見せかけであったため張りぼてでしかなかった。バロックな張りぼてウェストミンスター型政治。その二重の欺瞞を粉々にしてしまったのが山上徹也君が放った凶弾ではなかったのか。

素直な子供は王様は裸だと叫び、力を持った人(王様)に媚びへつらい真実を見ない大人に反省を促す。翻って人生を台無しにされたあまり若くない男は自国を取り戻すとうそぶいていた(元)首相を殺し、実は他国由来の反社会的団体の傀儡だと暴いたが、大人たちは砕け散った欺騙の瓦礫の上で真実を求める言葉を再び―敢えて再びと言おう―紡ぐことができるのであろうか。


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