私の地域スポーツクラブ原風景

 総合型地域スポーツクラブ研究所 所長の上杉健太(@kenta_u2)です。これまでおよそ19年間、地域スポーツクラブのマネジメントをやってきて、総合型地域スポーツクラブでは7年間、マネジャー、テニス・コーディネーショントレーニング・学習・レクリエーションスポーツの指導、講演・執筆活動を行ってきました。

 今日は、『私の地域スポーツクラブ原風景』というテーマでお話したいと思います。なぜ私が、地域スポーツクラブ文化の定着に多くの時間とパワーを費やそうと思ったのか。そのあたりの思い出話です(笑)

フットサルクラブROONEYSが楽しすぎた

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 私は、大学1年生(19歳)の春に『フットサルクラブROONEYS』というフットサルクラブを設立しました。拠点は私の地元(出身地)である東京都三鷹市。高校や大学の友人を集めて立ち上げました。

 なぜ大学でスポーツをやらなかったかというと、中学時代の『野球部の廃部』、『大学受験失敗による浪人』、この2つの経験から、「学校でスポーツをやっていると、確実に終わりが来る」ということを学んでいたからです。
 大学でスポーツをしていたら、卒業する4年後にはまたスポーツ環境を変えなければならない。その道を選択する気には私にはなれなかったんですね。また失うと分かっているなら、失わないで済む方法を採用しようと思っていました。受験勉強に励んでいた浪人時代からそれだけは決めていました。

 フットサルクラブROONEYSは、20歳前後のメンバーだけでスタートした為、基本的にはその周辺の世代で構成されたクラブでした。幅がある時でも、私の世代を中心に前後10歳程度でした。
 また、フットサルしかやっていなかったので、『単一種目・単一世代』のクラブということになります。スポーツビジネス界で”短命に終わる”と言われている形のクラブですね。実際にそうなりました。

 ROONEYSは当初の狙い通り、私たちの世代が大学を卒業しても変わらずに続きました。私が長野県喬木村へ移住して総合型地域スポーツクラブのマネジメントを始める為にリーダーを交代しても、2年間ほど新体制で運営されました。その後は自然消滅したようです。私がリーダーを務めていたのが10年間なので、12年間ほど続いたことになりますね。

 短命に終わってしまったROONEYSですが、その分、濃い楽しさがそこにはありました。毎週の練習をして、その後飲みに行って、若い頃は朝まで飲み明かしたりカラオケで歌ったりもしましたね。草トーナメントなどに出場して戦術について言い合ったり、時には喧嘩をしたり。山へキャンプをしに行ったり、何回かメンバーで旅行に行ったりもしました。年越しはいつもROONEYSのメンバーとでしたね。

 ROONEYSの楽しさの本質は、『気晴らし』だったと思います。大学や会社、人によっては家族から離れた所で、ただひたすら楽しむ。日常とは切り離された世界。ただROONEYSの場合、家族を巻き込む人が多かったです。彼女や奥さんを練習や飲み会によく連れてきて、彼女さん同士・奥さん同士が友達になったりしていました。それはとても素敵な光景でした。

 私はROONEYSの活動が生きがいでした。本当に楽しかった。フットサルも楽しかったし、それ以外もとにかく楽しかった。しかし、その活動にも徐々に陰りが出てきたんです。それは、『単一世代クラブ』特有の問題だと思います。

・メンバーそれぞれが会社で主力を担うような年齢に同時になり、仕事が忙しいという理由で参加率が一気に下がる。
・結婚や出産、持ち家の購入などの人生のイベントが一斉に重なり、退会や参加率の低下が一気にやって来る。

これらの問題は、どのクラブ・団体にもあるものです。でも、単一世代でやっているクラブだと、それが一気に来るというのが特徴です。

 ROONEYSの場合、中心メンバーの世代が何かと人生イベントが多い30歳前後の時に、設立者であり10年間リーダーを務めた人間がいなくなったので、一気に消滅に向かっていってしまったというわけです。

 ROONEYSは残念ながらなくなってしまいましたが、私にとっては素晴らしい経験でした。私が総合型地域スポーツクラブのマネジメントを始めて、幸せな地域スポーツクラブの姿を想像する時、思い浮かべてきたのはいつもROONEYSのみんなの事です。これが私の地域スポーツクラブの原風景です。

地域スポーツクラブの効能

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 フットサルクラブROONEYSの運営をしていて、私が感じてきた地域スポーツクラブの効能についてお話したいと思います。
 とにかく私は、「これこそが日本には必要だ」と思っていました。会社や学校という場所にとらわれすぎて、自分の幸福を追求できない社会の姿が私には見えていて、必要なのはそことは切り離された地域スポーツクラブだと思うようになったんです。(スポーツを採用するのは私が好きだからです)
地域スポーツクラブが社会にもたらす効能としては以下のようにまとめられるかなと思います。

・学校や会社、家族からの『逃げ場』ができる
 =心身の回復の場として機能する。「また明日から頑張ろう!」

・学校や会社、家族とは違う繋がり(コミュニティ)ができる
 =新たな幸せの場所になる。「ここが私の居場所!」

 段々と私の関心は『日本人の幸福度』にいくようになり、経済的な豊かさと幸福度がどうやらリンクし切っていない現実に気づき、当時(2013年頃)の日本に必要なのはもはや経済的な成長よりも、地域スポーツクラブのような幸せになれる場だと考えるようになっていったんです。

総合型地域スポーツクラブで勝負する

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 ROONEYSをやっていた時の私のジレンマは、いくら地域スポーツクラブが必要だと思ったところで、平日は会社へ行って仕事をして、週末にROONEYSの活動をしているくらいでは、それ以上前へは進めないということでした。
 さらに、20代も後半に入るとありがたいことに会社から任せられる仕事の量や質が上がり、”定時上がり・有給休暇消化率100%キャラ”を完全に作り上げていた当時の私も、休日出勤をする日などが出てきて、ROONEYSの活動が滞りだしたんです。少なくともそれ以上の発展が描けなくなった。

「どうしても仕事に時間を取られる」

それが20代後半の私が気づいた超当たり前の事実でした。これは、いくら定時上がりをしていても変わらない事実です。人生における仕事の時間が多すぎる。ワーク・ライフ・バランスなどと言ったところで、ライフ(生きがい)に費やす時間はどうせ少ない。

 だったら地域スポーツクラブを仕事にするしかない。それが私の出した答えで、さらに社会を幸せにしにいくのであれば、フットサルに限定するのはどうかと思い至り、「総合型地域スポーツクラブだ」となったわけです。

 その時にちょうど長野県喬木村が、地域おこし協力隊として総合型地域スポーツクラブのマネジメント人材を募集していたのは素敵な偶然でした。

「総合型地域スポーツクラブのマネジメントで生きてみるか」

地域スポーツクラブを社会に根付かせて幸福度を上げる。人生の多くの時間を使わざるを得ない”仕事”としてそれをやる。そして、より多くの人をターゲットにできて、社会インフラとして相応しそうな総合型地域スポーツクラブでこれらを実現する。これが私の30歳の決断でした。

自分も幸せ

 新卒で入社した会社はとてもいい会社だったので、そこのお給料と比べると年収は一度は1/3くらいになりました。ただ私の幸福度は高いです。子ども2人でき、息子とは喬木村では一緒にクラブ活動をしていました。幸福度はうなぎ上りです。たぶん私の選択と行動は間違っていなくて、このまま突っ走って大丈夫だと思っています。

 2020年で喬木村での挑戦は一区切りをつけ、2021年から埼玉県富士見市で新たなクラブ設立に挑戦することにしました。私には総合型地域スポーツクラブ関連で言うと2人の偉大な恩師がいて、その2人ともが富士見市に関わっていたことがきっかけです。とはいえ、ほぼゼロベース。今はかなりドキドキしています。求められて行った喬木村とは違い、富士見市の場合は、言ってしまえば”呼ばれてないのにジャジャジャジャン状態”なので(笑)

 ハードルはかなり高いとは思っています。でも、総合型地域スポーツクラブという形で地域スポーツクラブ文化を確立し、幸福度の高い社会を実現するという目的さえぶれなければ、たぶん大丈夫だと思っています。

 めちゃくちゃ頑張ります!自分と家族と社会の幸せの為に!


 というわけで今日は、『私の地域スポーツクラブ原風景』というテーマで思い出話をさせていただきました。
今回もお読みいただきありがとうございました!
ではまた!

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総合型地域スポーツクラブや筆者の挑戦のリアルな実態を曝け出しています。自ら体を張って行ってきた挑戦のプロセスや結果です! 総合型地域スポーツクラブをはじめ、地域スポーツクラブの運営や指導をしているかた、これからクラブを設立しようとしているかた、特に、スポーツをより多くの人に楽しんでもらいたいと思っているかたにぜひお読みいただきたいです!

総合型地域スポーツクラブのマネジメントをしている著者が、東京から長野県喬木村(人口6000人)へ移住して悪戦苦闘した軌跡や、総合型地域スポ…

総合型地域スポーツのマネジメントを仕事としています。定期購読マガジンでは、総合型地域スポーツのマネジメントに関して突っ込んだ内容を毎日配信しています。ぜひご覧ください!https://note.com/kenta_manager/m/mf43d909efdb5