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「英雄の器」に仮託した芥川龍之介の作法

芥川竜之介作『蜜柑・尾生の信 他十八篇』(岩波文庫)に所収の「英雄の器」はごく短い作品である。

烏江のほとりに追いつめて、西楚の覇王・項羽を打ち破った漢の幕営は勝戦の喜びに湧いていた。項羽の首をとった漢の大将・呂馬通が「何しろ項羽と云う男は、英雄の器じゃないですな。」と言うと、「そうかね。」と皮肉な微笑を唇に漂わせて劉邦は問い返した。呂馬通の見るところ、楚の軍はわずか二十八騎しかなく、雲霞のような漢の大軍と戦っても勝ち目はない。烏江の亭長はわざわざ出迎えて、江東へ渡そうと言うのだから、もし項羽に英雄の器があれば、江東に引き揚げて捲土重来を期すのではないか、と弁じるのである。

「すると英雄の器と云うのは、勘定に明いと云う事かね。」と、劉邦に質されても、呂馬通はひるまなかった。項羽は今日の戦の前に二十八人の部下を前に、「項羽を亡(ほろぼ)すものは天だ。人力の不足ではない。その証拠には、これだけの軍勢で、必ず漢の軍を三度破って見せる」と言ったそうだが、実際には九度も戦って勝っているのだから、呂馬通に言わせれば、「それが卑怯だと思うのですな……一切を天命でごま化そうとする――それがいかんですな。」と得意そうである。

一同が軽い頷きを交わすなかで、劉邦は「一種の感動を、眼の中に現した」ばかりか、「そうかね、項羽はそんな事を云ったかね。」と質す。英雄というものは「天命を知っても尚、戦うものだろうと思うのですが。」と呂馬通が応ずるのに、なかば独り言のように、「だから、英雄の器だったのさ。」と答えるのである。

「英雄の器」の典拠は『通俗漢楚軍談』巻之十二(夢梅軒章峯・望京南徽庵)であるが、そこには項羽の何が、どのように描写されているのか、じかに確かめたいと思った。「英雄の器」は、そう思わせる何かをもっているようである。国立国会図書館のデジタル版『通俗漢楚軍談』がインターネット公開されているのはとてもありがたい。以下、引用はカタカナ表記をひらがな表記にあらため、句読点を付した。

楚歌を歌う漢軍の四面のかこみを切り抜けた夜、項羽は夢のなかに天命を予感する。
「漸く夜半のころに至て忽ち一輪の紅日大江の面に浮び出たるを、漢王五色の雲に乗て馳来り、彼日輪を懐の中に抱て去んとす。項王これを見て急に衣を褰(かかげ)て水を渡り、追付て日輪を奪ひ取んとするを、漢王雲の中より一足に蹴落し、了(つい)に日輪を抱て西方へ飛去しが、其跡に祥光隠々として異香紛々たり。項羽忽然として打驚たるに、一場の夢なりしかば、大に嘆息し、天命在ること有り強ふ可らずと云ける」

その明け方、四方八面から漢軍に攻められ、烏江まで馬を走らせるが、「漢の兵重々疊々(ちょうちょうじょうじょう)として野に満山に漫れ」る形勢を見て、項羽は覚悟を決め、士卒に向かって呼びかける。
「今此の如くに困(くるしめ)らるるは是わが勇力なきにあらず。天の我を亡(ほろぼ)せるなり。今日われ死戦を決せん。若(もし)三たび戦て之に勝ば汝等明に天の我を亡て其勇なきにあらざることを知べし」
わずかに二十八騎の手勢を四手に分けて討って出る。「漢の大軍と九たび戦て大将九人士卒千余人を討取」ったほどの項王の戦いぶりに、士卒たちは皆「天神なり」と拝伏した。

烏江の北の岸にたどり着くと、烏江の亭長が一艘の舟を用意して待ち受け、項王に進言する。
「江東は少(すこしき)なりと云ども、地方千里あり。陛下彼(かしこ)に至て勢を集玉はば尚数十万に及ん。早々に御渡ありて必ず大事を誤玉ふな。況や此處に臣が此舟より外には一艘もなし。漢の兵たとひ追來るも争(いかで)か江を渡ることを得ん」
だが、項王は「天すでに我を亡せり。たとひ江を渡るとも了(つい)に免こと能じ」と長嘆するのである。

そして、押し寄せる漢軍に、項王は命のかぎり立ち向かい、漢の大将呂馬通を目にすると、「今この首を汝に與るぞ。早く漢王に上て万戸侯に封ぜられ、千金の恩賞を受よ」と叫び、「つひに剣抜いて自ら刎(くびは)ねて失せにけり」という最期をとげる。すなわち、天命を感じてから自刎するまでの叙述は尽くされるが、その後、劉邦と呂馬通の間に交わされる“英雄の器”をめぐる談義は見当たらない。それは項羽に仮託した芥川の作法であったのだろうか。

項羽と劉邦といえば、司馬遼太郎『項羽と劉邦』を見逃がすことは出来ないが、項羽の最期をどう描いているのか。「楚人の大王としての項羽は自分の命運の尽きたことを知った」とき、「敵を殺傷することによって自分は漢に敗けたのではなく天によってほろぼされるのだということをあくまでも実証しておきたかった」と見るところまでは、『通俗漢楚軍談』の描写と同じである。

烏江の亭長について、「この男ならば、自分のやったことと、やろうとした志をながく世間に伝えてくれるだろう」、すなわち「こういう男をさがすためにここまで南下してきたともいえる」と、司馬遼太郎は一歩踏み込んだ解釈を示している。「英雄」とはそれほどまでに後世に伝えられることを顧慮するものなのか、凡人の想像の及ぶところではない。

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