見出し画像

小説と物語の間ー小島政二郎『長篇小説 芥川龍之介』を読む

小島政二郎『長篇小説 芥川龍之介』(講談社文芸文庫)は、著者の最晩年の作品である。鎌倉書房の婦人雑誌「マダム」に連載され、読売新聞社から刊行されたことに、まったく気づかなかった。その頃、週刊誌の取材・編集に追いまくられていたとはいえ、我ながらお粗末というか、ほぞを噛むばかりである。

長編小説と銘打っているだけに、小島の心に残る人間・芥川が活写された評伝的小説である。とはいえ、先の『眼中の人』とは打って変わって、「彼には小説家に必要な『生活』がなかった」と、芥川の痛いところを抉り出して容赦するところがない。「よく読んで見ると、『鼻』にしても、禅智内供の生活が少しも書かれていない。だから内供がやっと辿り着いた平和な心境も、内供の生活心理ではない。あれは、芥川の理屈だ。内供の生活、生活心理が書かれていなければ、小説ではない。物語に過ぎない」と断を下すのである。

さらに、「物語なら、どんな面白いことでも、どんな不思議なことでも、どんな不可能に近いことでも、書ける。しかし、小説はどんな事でも書けるとは云えない。生活、生活心理が書かれていなければならないからである」と言い、「物語よりも、小説の方がむずかしいし、小説の方が一段か二段か、いや数段上の、数段高い存在だと私は思っている」と力説する。そして、「芥川ほどの秀才が、大事な時に、小説と物語の区別を弁える機会を逸したのである」と、繰り返し惜しんでやまない。

芥川の絡みで言及される漱石、鴎外、志賀直哉、あるいは何かと引き合いに出される谷崎潤一郎や菊池寛などのエピソードも、さすがに生半でないものがあり、芥川のことをいつの間にか忘れかねないほど興味深い。菊池の計画した「小学生全集」をめぐって、芥川が菊池と気まずくなった出来事も、一つの典型的エピソードである。というのも、50冊だか100冊の「児童文庫」を企画していたアルスという出版社の計画を、早耳で聞き込んだ人物から勧められた菊池は、「小学生全集」を文芸春秋社で計画し、芥川に二人で監輯する承諾を求めた。

芥川はアルスの計画を知らないで承諾したのだが、日ならずしてそれを知った。その頃、「文芸春秋社は隆々としていたが、アルスはそれ程ではなかった」ばかりか、「芥川は最初の短編集『羅生門』をアルスから出版して貰っていた」のである。芥川は「余り揮わないアルスに打撃を与えたくなかった」こともあり、菊池に「それはよくないよ。『小学生全集』はよすべきだ」と意見した。しかし、「菊池は、無二の親友の忠告にも従わなかった」のである。今も隆々たる文芸春秋社のルーツにある何かを垣間見る思いがした。

「芥川さん、昔はあなたの崇拝家だった小島も、年を取って八十四にもなると、こんな生意気なことを云うようになりました。私の直言を許して下さい」と辞を低くしながら、じつは森鴎外、志賀直哉と対比して、芥川の文章をまな板に上げ、小島流文章論を披瀝する。例えば鴎外の「安井夫人」を長々と書き写して、その「古典的な美しさを味読していただきたい」と言い、これこそ「描写的な文章だ」と褒め称える。それに比して芥川の「或日の大石内蔵助」を例に、これは「文章であって、描写になっていない」とすこぶる手厳しい。

さらには、「鷗外は『文章を書いている』。志賀は『もっと文章を書いていない』。この区別は、小説家にはすぐ分る」というご託宣である。小島の解説によれば、鴎外の「文章には『格』というものがあるから、それを重んじずにはいられなかった」。一方、志賀は「文章を書くと云っても、『格』なんか大事にしていない。彼の大事にしているのは、『格』ではなくて、実感だ。……格に嵌まった文章を書いていた日には、こんな面白い文章は書けない」と激賞するのである。

だから、芥川が「志賀に近付こうとしたのは、彼の一生の誤りだった」と「直言」するのだが、それは八十四歳の老境を迎えた、かつての「崇拝家」の無い物ねだりではないか。

芥川の告別式のあと、谷崎潤一郎、里見弴、久保田万太郎、水上滝太郎、佐佐木茂索らと、ある洋食屋でひと休みしたとき、「みんな彼を小説家として余り買っていないこと」を知った。「現在の私と違って」とわざわざ前置きしたうえで、「自分と見解の違い過ぎるのにビックリした」と言うのである。ということは、芥川を小説家として評価しないのは小島一人ではないと、虎の威を借りているかのように見えないか。本書が刊行された頃に読んで、直に著者に問うことが出来ていたらと、今さらながら悔しさを嚙みしめるばかりである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?