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小島政二郎の小説「芥川龍之介」の人間描出

「とうとう書いたわね、私が待っていた小説を――」
「あなたのこれまでの生涯の傑作よ」
思い切って書いた小島政二郎の小説「芥川龍之介」の載った『小説新潮』(1960年12月号、『鴎外荷風万太郎』所収)が出たとき、いわば「随筆小説」を書けと励ましてくれた若い恋人は、そう言って褒めてくれた、と小島政二郎は『眼中の人 その二』(『新潮』1967年6月号)に明かしている。

この「芥川龍之介」などを「作家論、回想記などという名称より、まだしも実名小説という未熟な呼び名の方が妥当するかもしれない」とする平野謙は、と言うのも「つねに著者と芥川龍之介との生きた交渉を媒介することによって、芥川龍之介の人間性格をうかびあがらせようとしているからである。人間と人間との生きた交渉を通じて、そこに人間性格を描出しようとする作業は、やはり小説的とよぶのがいちばん妥当だろう」(『小島政二郎全集』第三巻「解説」)と評している。

たしかに「著者と芥川龍之介との生きた交渉」が、まさに随筆ふうの文体で人間的に描出されて飽きさせない。なによりも「芥川さんの面会日は実に楽しかった。新聞雑誌の人が来る、出版社の人が来る、友だちが来る、その中には、谷崎潤一郎や久米正雄、菊池寛、江口渙」、さらには「久保田万太郎、室生犀星、萩原朔太郎、佐藤春夫など」も現われた。「我鬼窟」、のちに「澄江堂」という額の掛かった書斎で、「芥川さんは一人でこれらの客の相手をして、それぞれ話題を変えてみんなに満足を与えて帰す努力は大変なことだったろう」と、下町生まれの芥川の人間性を浮き彫りにしている。

佐々木茂索や瀧井孝作は作品を、芥川に読んでもらっていたし、「私たち常連だけになると、芥川さんは気を許して、和漢洋にわたる該博な面白い話を聞かしてくれた」という。ベートーヴェンの話、レンブラントの話、ストリンドベルヒのこと、その頃は誰も知らなかった『聊斎志異』の話、『今昔物語』をはじめ日本の古典の話、ゲーテの話、ニーチェの話、英米仏独の文学の話など、世界中のことが話題にのぼり、「文壇のゴシップに一座がにぎわったりもした」と回想する。じつに充実していて楽しそうである。

小島がバルザックを読もうと志して、まだ日本語訳がないので、英訳版を読むほかなくて、どの版がいいのか、芥川に尋ねたときのエピソードは胸を打たずにおかない。「エヴェリマンス・ライブラリーに十三冊ある。あれがいいだろう」と教えてくれたばかりか、「君が七冊目の第一ページを読み始めたら、ちょいと僕に声を掛けてくれないか」「そうしたら僕はその日から第一冊目を読み始めるから――。そうして君が十三冊目を読み終る日に、僕も十三冊目を読み終って見せる」と挑発された。

「一寸の虫にも五分の魂」である。いくつかの退屈な長編には骨を折りながらも、「十三冊目を読み上げた時、私は初めて芥川さんの親切が分って涙ぐんだ。もしああいう侮辱的な挑戦がなかったら、私は途中でバルザックの持っている退屈さに参って投げ出していたろう。‥‥ただ私にバルザックを読み通させようという親切心があっただけなのだ。成長途上にある若い作家にとって、一人の偉大な作家の作品を全部読み通すことが、どんなにいい影響を与えるかということを彼は十分に知っていたから、私にそういういい機会を作ってやろうとしてくれたのに違いない」と、尊敬する先輩への感謝を噛みしめるのである。

芥川は漱石と鷗外をどう見ていたか。「夏目先生はアグラを掻いた膝の上に僕らを上がらせてくれるからなあ」「鷗外は絶対にアグラを掻いて見せてくれない。いつ行っても、いい葉巻を吸っている。箱から一本つまみ出すと、バタンと蓋をして膝の横に置く。先生が一本つまみ出す時に、どうぞ僕にも一本と言えたら垣が取れると思うんだが、どうぞというスキがない」と語りながら、芥川は「漱石をなつかしんでいた」のである。だが、芥川の「文章、作風は、どっちかというと、鷗外の方に近かった」と小島は見ている。

心に響く箇所をこういう調子で抜き出していると、とどまるところを知らず際限がない。以下略として、たぐいまれな傑作文学を生み出した人間・芥川龍之介の人間的魅力は尽きるところがない。

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