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芥川龍之介の「竜」は昇ったのか

芥川龍之介「竜」は、『宇治拾遺物語』巻第十一「六 蔵人得業猿澤池ノ龍ノ事」から材をとった短編である。

宇治の大納言隆国の前で、「奈良に蔵人得業恵印と申しまして、途方もなく鼻の大きい法師が一人おりました」と、陶器造の翁は今は昔の物語を語り始める。大鼻の蔵人得業恵印法師は、鼻蔵、鼻蔵と笑いものにする奈良の僧俗を笑い返してやろうという魂胆で、猿沢の池のほとりへ「三月三日この池より竜昇らんずるなり」と悪戯書きした建札を立てた。

興福寺の参詣に来た婆さんや、早立ちの女旅人、同じ坊に住む法師などがこの建札を目にしてから、猿沢の池の竜の噂は、一日二日のうちに奈良の町中にひろがり、ついには摂津の国桜井の叔母の尼が、竜の昇天を見物したいとやって来るまでになった。つまり、播磨、山城、近江、丹波あたりまで、「思いもよらず四方の国々で何万人とも知れない人間を瞞す事になってしまった」のである。噂の伝播は今も昔も早いようで、今風に言えば、噂がSNSで一気に日本中に拡散したようなものか。

いよいよ「竜の天上する三月三日」になると、今日という今日を待ち兼ねていた見物は、「奈良の町は申すに及ばず、河内、和泉、摂津、播磨、山城、近江、丹波の国々から押し寄せて」来た。「見渡す限り西も東も一面の人の海」となったほどだから、もしかすると、竜の昇天は本当に起きるのかも知れない、と鼻蔵もついつい思わないではなかったーーというまでは『宇治拾遺物語』にあり、その後の出来事は芥川の独創である。

芥川の「竜」では、それから「天を傾けてまっ白にどっと雨が降り出し」、のみならず「神鳴も急に凄じく鳴りはためいて、絶えず稲妻が梭(おさ)のように飛びちがう」のだが、「それが一度鍵の手に群る雲を引っ裂いて、余る勢に池の水を柱の如く捲き起した」のである。その刹那、「その水煙と雲との間に、金色の爪を閃かせて一文字に空へ登って行く十丈あまりの黒竜が、朦朧として」、鼻蔵の目に映るのである。しかも、「後で世間の評判を聞きますと、その日そこに居合せた老若男女は、大抵皆雲の中に黒竜の天へ昇る姿を見たと申す事でございました」と言うのである。

とすれば、まるでSNSの世界を連想させるではないか。嘘のうわさがネットで伝播するうちに、あたかも本当の話として世界中に拡散し、幻像が共有される世界を、芥川はどこかで予感したのだろうか。

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