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長大な伝記を読むことの効用

中村真一郎『頼山陽とその時代』抜き書き。
「山陽の伝記は幾多の突飛な行状に満ちている」ことは、先に森鴎外『伊沢蘭軒』からその一端を紹介した。「それが一方で山陽の人格に対する非難ともなり、又、逆に崇拝者たちによる様々の奇抜な弁護的解釈を惹きおこしてもいる」のだが、『頼山陽とその時代』の著者は、「彼の悪名高い放蕩も、乱暴な新婚生活も、また不可解な脱藩も、神経症との関係で眺めてみれば、極めて自然に解釈がつくだろうと私は直感した」ばかりか、「私は突然に、頼山陽が私にとって身近かな人間になるのを感じた」というのである。

というのも、著者はその当時、「かなりひどい神経障害を病み、それから脱するために、気分を息(やす)めながら同時に、意識の統一を計らなければならなかった」のだが、「『長大な作品』に精神を釘付けするのが、実際に治療的効果もある」と医者の勧めもあった。そんなとき、著者を「最も長く引きとめ、そして堪能させてくれたのは、好尚木崎愛吉の厖大な『頼山陽全伝』であった」ばかりではない。そこで「私は突然に私の関心を異様なまでに惹きつける事実に遭遇した。それは山陽の『鬱症』という病気の発生である」というのだ。「それから先は、私は私自身の症状と、その間の精神状態、また、そうした精神状態のなかでとらざるを得なくなる、非常識な行動などの経験を絶えず傍らに意識しながら、山陽の個々の行動について注意深く辿って行った」というから、まったく神経症を知らない読者にもかなり説得力をもつに違いない。

ちなみに、本書のような「長大な作品」に取り組むのは、最近の長く重苦しい巣ごもりを強いられるコロナ禍のなかで、「気分を息めながら同時に、意識の統一」をはかるというか、意識をいたずらに“冬眠”させず、心地よい緊張感を持続させるのにおススメかもしれない。

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