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赤の他人だとしても

「2019年12月28日08時28分 人身事故のため、不通区間が生じております 」

一昨日、小田急線の向ヶ丘遊園駅で朝の8時頃に人身事故が起きたことを、朝起きた寝床のなかで見ていたツイッターで知った。

「朝からやめて頂きたいですな」「勘弁してくれ」「予定に間に合わない」。人身事故の詳細はわからなかったが、いつものことながら、ツイッター上にはそんな呟きがあふれていた。そしていつものように、僕の心の中ではもやもやが広がっていた。

ある人がこんなようなツイートをしていた

「人が死んだという事実を前に、迷惑とかそういうことを言えてしまうことが怖い。そんな社会だから自殺したくなるんだよ」

こんなような、と書いたのは、今この人のアカウントは鍵がかけられており、その呟きを見返すことができないからだ。

このツイートは、たくさんのリツイートやいいねがつくとともに、多くのリプライが付いていた。その中身は賛否両論だったが、心なしか、「迷惑と思うのは当然だろう」とか「死に場所を選べ」とか「死ぬなら迷惑をかけるな」といったようなコメントが多く、たくさんのいいねをもらっていたように思う。

ツイートした本人は、否定的な意見や乱暴なものいいのリプライに対して、誠実に自分の考えを説明しながらも、他人に考えを押し付けるようなツイートは間違いでしたと謝っていた。そして、そうしたリプのやりとりに嫌気がさしたのか、アカウントに鍵をかけてこれまでのやりとりの一切を他人から遮断してしまった。これが議論と呼べるかわからないが、匿名で顔の見えないネット環境が、意見の異なるものに対してかくも鋭利で排他的にさせるのだとしたら、それこそ私たちの中から他者に対する想像力を奪っていっているのではないかと感じる。

リプライの中で第三者同士のこんなやりとりがあった。

「1人に対して何万人にも影響して、迷惑かかってんだぞ。その迷惑をして、死んだ1人に同情するのより、影響を受けた、何万人に同情する何がおかしい? 死ねば、迷惑行為をしてもいいの?」
「死んだ1人か、迷惑を被った何万人かということではなくて、死を選択した人に対して、迷惑という感情だけではなくて、全く知らない人だとしても、なぜその人がそういう選択をしてしまったのかという想像力を失いたくないのです」
「想像で勝手に同情してんなよ。ほんとアホだな。同情するなら、なぜ自殺したか明確な理由を知ってからにしろ」

果たして、自殺した人たちの明確な理由がわかることはあるのだろうかと、このコメントを見ていて思った。人身事故とひとくくりにされることの詳細が明かされることはほとんどない。自殺であったとしても、電車を利用する人たちにとっては、いつもの人身事故でしかない。そこから自殺した人の背景や何かが報道されることなんて恐らくほとんどないだろうしできないだろう。このコメントの通りであるとすれば、自殺した人に対して想像したり同情することなんて一生ないだろう。

でも、と思う。そんな冷たい社会でいいのかなと。赤の他人だとしても、同じ人間だということを忘れたくない。私とあなたの間に隔絶する何かがあるわけではなく、すべて地続きなのだと。環境が違えば、私はあなたになっていたかもしれないし、あなたは私になっていたかもしれない。そんな想像力こそが社会を豊かにすると信じたい。

もうすぐ2019年が終わる。



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