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250円弁当とわせ弁

近所に250円弁当の店がある。店名はまだない。

いやあるのだろうが、「250円弁当!」とデカデカと書かれた文字の主張の強さのせいで、私の記憶からはすっぽりと抜け落ちている。250円ということで「にこまる弁当」とも称されるらしいので、ここでは「にこまる弁当」としておく。

「にこまる」とは随分幸せそうな響きだが、美辞麗句で人を騙すのが悪党の常套手段である。「美しい日本」はどちらかというと「鬱苦しい日本」であろう。

いくらデフレ経済が極まった日本とはいえ、チキンカツ弁当や生姜焼き弁当が250円というのはにわかに信じがたい。コンビニで買えば、その2倍はする。本当に鳥や豚を使っているのかも怪しい。

私の中の東京アラートが鳴っている。「密です!」
今こそソーシャルディスタンスを保つとき。その店に私が近づくことはなかった。

その日私は疲れていた。朝から原稿作業のためにパソコンと一日中睨み合っていたためだ。もはや自炊をする気力も残っていないし、外食する気分でもない。私はとりあえず気晴らしもかねて商店街に繰り出した。

そこで目に入ったのが例の「にこまる弁当」である。
思考力が低下していた私は好奇心に負け、フラフラと店内に入っていった。

店員は一人。奥で一心不乱に何かを揚げている。何を揚げているのかは怖いのでよく見なかった。犬や猫かもしれぬ。在留中国人がひそかに捕獲した野良猫を横流ししているのだ......。そんな妄想を振り切って、私は商品棚に目を移した。

店員が立っている床の汚さだけが印象に残った。

展示されている食品は全体的に揚げ物が多く、棚が茶色い。
ポテトサラダからカキフライまで揃った商品の価格は98円、150円、250円、どれも驚くほど安くボリューミーだ。

いったいどんなからくりでこの価格で提供できるのか。冷静に考えると怖いが、その日の私はとにかく疲れていた。「ええい、ままよ!買ってしまえ」。国籍不明の店員から250円のチキンカツ丼と98円の回鍋肉を買って、私は帰路についた。

「巧ノ助2号」と名付けた電子レンジに弁当を放り込み、3分間待つ。3分という時間は何かをするには短く、待つには長い。永遠を感じさせる3分間をボーッと過ごした後、私は速やかに箸を手にとった。腹が減っていたのだ。

味は残念ながらというか予想通りあまり良くはない。肉と油の質の低さが見事に表れている。食にこだわりのある人なら卒倒するであろう。

しかし、私は不思議な感慨を覚えていた。私はこの味を知っている。そうだ「わせ弁」だ!

「わせだの弁当屋」通称「わせ弁」は早大生のソウルフードである。金はないのに、食欲は旺盛な貧乏学生の腹を満たすべく、肉をぎちぎちに詰め込んだ茶色い弁当を激安価格で提供している、早稲田の良心であり、両親である。

真の早大生になるために必要な二つの儀式。そのひとつがわせ弁を食うことだ(もうひとつは高田馬場のロータリーで円陣を組んで「紺碧の空」を歌うことである)。この二つの通過儀礼を経て、早大生は「シン・早大生」になる。

ちなみに早大生の間では「中退一流、留年二流、卒業三流」という言葉がある。

早稲田は数多くの著名人を輩出しているが、なかでも一流と呼ばれる人たちの多くが「早稲田中退」なのである。

中退:タモリ、大橋巨泉、永六輔、小室哲哉、広末涼子、堺雅人。
留年:村上春樹(7年かかって卒業している。彼がノーベル文学賞をなかなか獲れない理由はここにあるのかもしれない。潔く中退していたらあるいは......)、羽生結弦(現在8年生!である。おそらく中退するので一流に格上げされるのは間違いないであろう)。

いかがであろうか。私はきら星のごとく輝く先輩たちの名前を見せて、目をキラキラした新入生たちに囁きたい。

真面目に大学に通うのはやめたまえ。単位のことは忘れ、青春を思う存分謳歌した後に、きっぱり中退するのがよろしかろう。

ちなみに私は一年留年しているが、実は5年生の時が最も実りの多い一年だった。もしもあと3年在籍して中退の道を選んでいたならば、今頃はとてつもない大作家になっていたかもしれぬ。デタッチメントからコミットメントへ。壁と卵なら卵の側に立つ人間だ。

余談が過ぎた。

2020年5月、にこまる弁当を食べたことによって、私の精神的テンションは2006年の早大生レベルに戻っていた。

「冷酷!残忍!」だった頃の私は「カミソリ杉本」の名で恐れられたという(知らんけど)。

以来、私は栄光と挫折の青春時代を呼び起こす作用を持つ「にこまる弁当」の虜になった。すえた臭いのする油でさえ、「あの頃に食べた味だ」と懐かしい。

250円の弁当はお財布には優しいが、体には悪いであろう。
しかし、私は今日も懐かしの味を求めて、にこまる弁当に足を運ぶ。

このデモーニッシュな誘惑を断ち切るには、黒髪の乙女が作る愛のこもった手料理しかないであろう。

誰か私に愛をもしくは金をくれ。

来年の健康診断が恐ろしい、そんな初夏である。

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