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山笠の創始者は東大寺の大勧進職!?

 福岡の七月は、山笠という呼び名で知られる「博多祇園山笠」の熱気に包まれる。

 この「博多祇園山笠」は、その名前の通り、祇園祭の一つで、博多の総鎮守である櫛田神社に「山笠」と呼ばれる作り山を奉納する神事である。

 そもそも祇園祭は神仏習合の祭りで、祇園という名称も祇園精舎に由来する。祇園祭といえば、京都の祇園祭がその代表格であるが、明治の神仏分離令によって神道と仏教とが分けられる前までは祇園御霊会ぎおんごりょうえという名称であった。

 この御霊ごりょうとは、無実の罪などで政界で恨み死にした人たちの魂で、疫病などの天災はこの恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。御霊会というのは、これらの恨み死にした人々の魂や疫神などを慰撫いぶするための法会で、863年(貞観5年)に神泉苑で初めて御霊会が行われた。この時も疫病が流行っており、それを鎮めるために行われた。しかし、その後も疫病の流行が続いたため、継続的に牛頭天王を祀り、御霊会を行なって疫病退散・無病息災を祈念した。

 東大寺では1270年以上もの間、一度も途絶えることなく毎年続けられてきた法会、修二会(お水取り)では、神名帳が読み上げられ、全国各地から神々を招くが、神名帳の最後の段では御霊も読み上げられる。神名帳の最後の段で御霊が呼ばれるのは「疫病退散」の意味が込められているからである。この修二会が始まった奈良時代も天然痘が流行していた。また当時は、こういった疫病だけでなく、地震や旱魃なども起きていたため、それらを鎮め、天下泰平、風雨順次、五穀豊穣、万民快楽などを祈った。ここに御霊信仰が結びついたのであろう。

 博多祇園山笠も祇園祭の一つであるため、当然ながら、御霊信仰がもととなったもので、1241年(仁治2年)、疫病が流行していた博多で、承天寺の住職であった円爾えんに上人が博多の町人に担がれた施餓鬼棚の上に乗り、祈祷水(甘露水)を撒きながら疫病退散を祈祷したのが山笠の始まりとされる。

 では、なぜ施餓鬼棚の上に乗り、祈祷水(甘露水)を撒きながら疫病退散を祈祷したのかについて、考察していく。

 そもそも施餓鬼とは、餓鬼道で苦しむ衆生に食事等を施して供養するというもので、日本では七月十五日(東京では新暦、西日本では旧暦で行われる場合が多い)に盂蘭盆(お盆)として施餓鬼供養を行う。これは、『仏説盂蘭盆経』に記されている目連尊者のエピソードの影響であろう。このお盆には祖霊以外の、いわゆる無縁仏や供養されない精霊も訪れるため、戸外に施餓鬼棚(精霊棚)を設けて、その無縁仏らにも施すという習俗がある。これも御霊信仰に通じるものがあり、中世以降は戦乱や災害、飢饉等で非業の死を遂げた死者供養として盛大に行われるようにもなった。

こういった御霊信仰と施餓鬼の習俗が結びつき、疫病をおさめるために、施餓鬼棚に乗り、祈祷水を撒いて町を清めるというのがおこなわれたのであろう。今日では、この時を山笠の歴史の始まりとしている。

 これを行った承天寺の円爾上人について少し紹介したい。円爾上人は、18歳の時に東大寺で受戒し、その後、長楽寺の栄朝や鎌倉の寿福寺の行勇に師事して臨済禅を学び、宋に留学した。帰国してからは、博多の承天寺を開山したのち、上洛して東福寺を開山するなど活躍した。また東大寺の10代目の大勧進職だいかんじんしきも務めた僧侶である。

 櫛田神社のお祭りである「博多祇園山笠」が、承天寺前をコースとし、各舁き山が櫛田神社のみならず承天寺にも奉納するのはこうした歴史的経緯があるためだ。

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