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“楽しみ”と“面倒”は紙一重。

コロナ禍は続くも、社会は、世の中は、まわり出した。
一進一退がありつつも、昨年後半からは、特にそんな実感が大きい。
いや、もはやコロナ禍が続いているのかどうか。
移動や経済活動は確実にのびているだろうが、よく考えればコロナ禍以降の様式も残る。
慣れとは怖いものだ、などとふと考えている。

恒例の行事や習慣など、停止・停滞してしまったものも多かろう。
それらも徐々に戻って来ている。

暮らしの変容は時にジワジワと、時に急激に訪れる。
パンデミックは、否応にもその両方を実感させられるものだった。

「祭(いのり)のまち」をまちづくりのテーマに掲げる日光の門前町。
年間を通して祭が非常に多い地域性(これは「日光の社寺」との関係性ももちろん、山々、地域コミュニティの中での独自の小さな祭禮も含む)と、信仰が「集まってくる」地域性を指してこのようなテーマにしている。

その“祭”もコロナ禍で中止や形態を変えての催行も余儀なくされた。
伝統も我慢のしどころ、あるいは、それぞれパンデミックをどういなしたか、という感じだろうか。

暮らしの変容は不思議で、恐ろしいもの。
年間の恒例行事や伝統であっても、中止や形が変わったことで、それまでの見方や感じ方も変わってくる。
(やり方を忘れつつある、というとちと正直過ぎようか…)

これらの祭、特に付祭りや奉仕などは、

「昔は楽しみだった」
「楽しみがそれに限られていた」

なんて話も先輩方からよく聞かされてきた。


社会の変容、暮らしの変容、コミュニティの変容。
もちろん、個人の置かれている状況や気分、その揺らぎにもよるだろうが、環境の変化というのは一言で表せない意味をもつ。

毎年のルーティンも一度停止すると、リスタートには大きな負荷がかかる。
コロナ禍によって、また、様々な課題を突きつけられた。

大切であるはずものを、楽しめるか、それとも面倒と捉えるか。
まさに紙一重だろう。いや、表裏一体と言うべきなのかもしれない。

あまりにも正直に書き過ぎているような気もするが、そんなところだろう。

良い春になることを願って。

※またもや半年ぶりの門前日誌への投稿で面目無い。

●「祭」について、門前日誌内では、若者がこんな風に書いてくれていました。↙︎

●そんな自分の半年前の記事↙︎

NPO法人日光門前まちづくりnote部 | 岡井 健(世話人)

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