盆の周辺〜行事なのかイベントなのか〜
「行事」と「イベント」。
同じだろうか。ふと思うことがしばしばあった。
雑な拾い方になるが、ザッとこんな感じ。
現代においては「イベント」が「行事」を包含して、多用されているような印象が強い。(あくまで主観である)
そんな中で行事の解説に「儀式化して」とあるのが、ポイントになってこようと思う。
ウィキペディアの「イベント」には、次のようにある。
さすが、なるほど。
やはり、「イベント」が「行事」を包含しているのだと思う。
そんな中で前述の行事の解説の冒頭に「儀式化して」とあるのが、ポイントになってこようと思う。
多くの場合、「行事」という言葉から受ける印象で強いのは、どちらかといえばこの「儀式」の解説にある事柄のようなものではないだろうか。
なぜ、こんなことを書いているのか。
7月に京都で祇園祭の前祭を観てきた。
そして、盆の各行事も終わったところだ。
7月末〜盆にかけては様々な「行事」や「イベント」が毎年行われる。
行事と呼ばれるもの(祭礼も含む)が、変わらず続いている風景に大小の感動があるのだが、一方で時代の変化の大きさも感じる。
「まちのテーマパーク化」
とか
「人のオブジェクト化」
などと私はしばしば書いてきた。
イベントという言葉に包含されていく「行事」も、少なからず、いや、多分にこれらと関係があるように思う。
新しいことを計画・実行するときは、既存の何かが消えたり変化したり、その他のものに影響を与えることが多い。
気をつけたいのが、そこだ。
既存のもの、長く積み重ねてきたものの扱い、区切り。
この辺が粗雑なケースが目に付く。
文脈の継ぎ方、活かし方の重要性についても私は度々述べている。
次々と新たに生み出される熱狂に押し流されることなく(もちろんそれを否定しない)、淡々と“決まって”行われる行事や祭礼の素晴らしさは、どこにあるのか。よく考えたいものだが、それは見えにくく、あるいは感じにくくなっているだけであって実はそこここにある。
移ろい揺らぐ日常の中で、気づきを大切にしつつ、変わっていく準備をして、変わらぬものへの愛も向けたい。
大袈裟に言うと、それがまちづくりの作法の一つだろうと思う。
盆過ぎの疲れた頭でそんなことをぼんやり考えている。
ああ、そういえば今年の夏はこのヒゲダンの新曲が本当に沁みたのでありました。
懐かしさ、儚さと、それらを大切にしながら前進すること。大事なのは両輪なのだな。
「B-Side Blues」Official髭男dism
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