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盆の周辺〜行事なのかイベントなのか〜

「行事」と「イベント」。
同じだろうか。ふと思うことがしばしばあった。

ぎょうじ【行事】
儀式化して、または一定の計画のもとに、日を決めて行う事柄・催し。 
「年中―」

イベント
「event」とは、起こる出来事事柄特定の場所や時間行われる催し物競技などを指す言葉である。また、結果影響重要な事象状況を表すこともある。具体的には、スポーツ大会各種目、コンサート展示会結婚式地震などが「event」の範疇含まれる

雑な拾い方になるが、ザッとこんな感じ。
現代においては「イベント」が「行事」を包含して、多用されているような印象が強い。(あくまで主観である)
そんな中で行事の解説に「儀式化して」とあるのが、ポイントになってこようと思う。
ウィキペディアの「イベント」には、次のようにある。

現代日本において「イベント」といった場合には、運動会文化祭などのような大規模な学校行事花見誕生日パーティーなど個人的な行事、阪神甲子園球場高校野球大会、オリンピック、あるいはサッカーワールドカップのようなスポーツの大会、地方公共団体地域社会が行う祭り万国博覧会などの国家的な行事、などを指すことが一般的である。また、販売促進のために行われる歌手タレント声優作家漫画家らの握手会やサイン会などの催し物を指すこともある。

Wikipedia

さすが、なるほど。
やはり、「イベント」が「行事」を包含しているのだと思う。

そんな中で前述の行事の解説の冒頭に「儀式化して」とあるのが、ポイントになってこようと思う。

儀式【ぎしき】
① 法やしきたりなどにのっとったきまり。 また、日常の立ち居振舞の作法。
② 公事、神事、祭事、仏事または凶賀の礼式などの作法。

多くの場合、「行事」という言葉から受ける印象で強いのは、どちらかといえばこの「儀式」の解説にある事柄のようなものではないだろうか。

なぜ、こんなことを書いているのか。
7月に京都で祇園祭の前祭を観てきた。
そして、盆の各行事も終わったところだ。
7月末〜盆にかけては様々な「行事」や「イベント」が毎年行われる。


行事と呼ばれるもの(祭礼も含む)が、変わらず続いている風景に大小の感動があるのだが、一方で時代の変化の大きさも感じる。

「まちのテーマパーク化」
とか
「人のオブジェクト化」
などと私はしばしば書いてきた。

イベントという言葉に包含されていく「行事」も、少なからず、いや、多分にこれらと関係があるように思う。

新しいことを計画・実行するときは、既存の何かが消えたり変化したり、その他のものに影響を与えることが多い。
気をつけたいのが、そこだ。
既存のもの、長く積み重ねてきたものの扱い、区切り。
この辺が粗雑なケースが目に付く。
文脈の継ぎ方、活かし方の重要性についても私は度々述べている。

次々と新たに生み出される熱狂に押し流されることなく(もちろんそれを否定しない)、淡々と“決まって”行われる行事や祭礼の素晴らしさは、どこにあるのか。よく考えたいものだが、それは見えにくく、あるいは感じにくくなっているだけであって実はそこここにある。

移ろい揺らぐ日常の中で、気づきを大切にしつつ、変わっていく準備をして、変わらぬものへの愛も向けたい。
大袈裟に言うと、それがまちづくりの作法の一つだろうと思う。

盆過ぎの疲れた頭でそんなことをぼんやり考えている。



ああ、そういえば今年の夏はこのヒゲダンの新曲が本当に沁みたのでありました。
懐かしさ、儚さと、それらを大切にしながら前進すること。大事なのは両輪なのだな。

「B-Side Blues」Official髭男dism


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