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長編小説:屋根裏部屋のドラマチック③

 テストは滞りなく終わった。帰りのホームルームの時間中、サユリは、ボーっとた表情で窓の外を眺めていた。ハート形の雲がぽかりと浮かんでいる。生まれて初めてのテストは、彼女にとっては簡単すぎた。サユリは、市の図書館の書籍から、大学の学習過程に迫る難易度の知識を身につけていたのだ。彼女は、50分間あるテスト時間のうち、30分は寝ていた。それでも、三回は見直していた。ふーっと彼女はため息をつく。先生が何やら業務連絡を話していたが、サユリはまるで聞いていなかった。彼女は虚無感に襲われていたのだった。私、いったい何しているんだろう。彼女のため息は窓を抜けて、空までふわふわと浮かんでいった。
「サユリさん!」
 先生の鋭く呼ぶ声が突然聞こえた。サユリは反射的に背筋を伸ばして、「ハイ!」と返事をした。
「自己紹介の時間をあげます」先生はにこりと笑って言った。サユリはその言葉に少々の興奮を覚えた。願ってもない提案だった。正当な権利でもって、自分のことを紹介できる機会が与えられたのだ。このクラスで、友達を作るのには、最高のチャンスと言える。
 サユリは勢いよく立ち上がった。
「サ、サ……サユリです……」
 かすれた声。彼女は人前で喋ることの難しさに気づいた。彼女は知っていた。心理学における効果的なプレゼンテーションの技術を。第二次世界大戦において活躍したヒトラーの人心掌握術を。しかしそれは所詮、それは全て知識の建前に過ぎないのだった。知っていることとできることとの間には大きな隔たりがある。彼女はそれについても知っていた――が、彼女がこれまで、そのような実践知を披露する相手に恵まれなかったのだ。
 後が続かない。現状、サユリは今、名前を言っただけだ。私の名前なんて、入学の時点で知っているに決まっている。彼女は震える肩を一生懸命抑えながらあたりを見た。皆が彼女に注目していた。入学から一度も来ず、テストのときに初めて颯爽と現れた銀髪の女の子に、クラスメートの皆は興味津々だった。彼女はいったい何者なのか。どういう人間なのか。実は、クラスメートのあいだでは、サユリに関してとある噂が流れていた。実際には、ハマが口を滑らせていたことだったが――その噂が、更に拍車をかけて彼女に注目を集めていた。
「あ……あの……」
 サユリは、やっとのことで声を出した。とたんに、彼女は恥ずかしい気持ちが喉元にこみ上げてきた。自己紹介すら満足にできないなんて、私ってなんてバカなのかしら。これならやっぱり、屋根裏部屋に引きこもっていればよかったと彼女は思った。引きこもって、お菓子でも食べて、寝て、走って、だらしなく暮らしていれば良かったんだわ。人前に出て、動けなくなるくらいなら――そう考える彼女の眦に涙が一つ零れ落ちた。喋りたい。なんでもいいから、自分を紹介したい。
 と、そのとき、一人の生徒が手を上げた。先生が「ダニエルくん」と名指した。ダニエルと呼ばれた男の子が立ち上がる。短い髪をワックスでツンツンと固めている好青年だ。サユリは、自分よりも一回り年上だろうと予測した。
「サユリさんは、今回のテスト、どうでしたか?」
 ダニエルはまっすぐサユリの方を向いて言った。一つ一つの言葉がしっかりと粒になっていて、聞き取りやすかった。今度はサユリが返事する番である。皆の視線が、銀髪の女の子に一斉に向いた。
 しかし、やはりサユリは声を出せなかった。
 すると、教室の扉をノックする音がした。軽快なリズム。先生はツカツカと歩いて、扉を開ける。すると、扉から聞き慣れた声が飛び出してきた。ハマだ。「やっほーい!」と彼女は快活な声を上げた。その声は、サユリの脳髄の奥に、優しく撫でるように響いた。緊迫して今にもズレそうだった断層が、ふっと緩んだような感覚を覚える。サユリは、安心してため息をついた。ここぞと言うときにいつも私を助けてくれるのは、ハマだった。彼女にとってそれは、屈辱以外の何ものではなかったが、しかし、身体は嘘をつけなかった。彼女は心の底から、その間の抜けた、「やっほーい!」に感謝していたのだった。
「先生、頼まれた品を持ってきました」ハマは、ふっふっふと意味深な笑いを浮かべて、先生に数枚の紙を渡した。先生はありがとうと言って、ハマの頭を撫でた。いわゆるセクハラじゃないかとサユリは思ったが、ハマは予想に反して、キャーッと声を上げた。そうか、ハマでもあんな声を上げる瞬間があるのか。サユリは、自分の知らないハマの一面を見た気がして、少しだけ複雑な気持ちになった。
 それからハマはこちらを向いて、「サユリちゃーん! 元気にやってる? んじゃ、放課後学食で待ってるね!」と言って、扉を閉めた。廊下に、バタバタと大きな足音が響いていたから、きっと走って去っていったのだろうとサユリは思った。不揃いな足音が何ともハマらしい――サユリはそう考えて、人知れず小さく笑った。
「それで――」先生が場を引き締めるような声で言った。「みんなも気になっているでしょう?」
 先生が意味ありげに言うと、生徒たちは口々にありますと声を上げた。一斉に教室が様々な声で盛り上がる。サユリは起立したまま。今の状況に戸惑っていた。いったい、何が気になっている? というか、私は放置?
 サユリが座ろうか、座らないか迷っていると、先生はサユリに向かってサムズアップした。ますます、サユリは頭が混乱した。なにかを褒められた――いや、いったい何を? サユリが困惑していると、先生は紙をばっと音の鳴るくらいに勢いよく広げて言った。
「ここに、サユリさんの、今回の定期テストの点数があります!」
 え!?
 瞬間、サユリの顔が燃え上がるように赤くなった。
「先生、なんでもう点数出てるんですか!?」
 一人の生徒が、ざわめきに紛れて大声で言った。すると、先生は不敵な笑みを浮かべた。
「ふっふっふ、C棟の先生に頼んで、最優先で採点してもらったんです。サユリさんの解答だって言ったら、二つ返事でオーケーしてくれました。有能でしょ? ユーノー?」
 先生が言うと、生徒が口々に「有能!」と叫んだ。それから、「早く教えて」という声もだんだんと盛り上がってきた。
 サユリは左右を交互に見て、その騒ぎにただ困惑していた。なんで? 私の点数なんか何が楽しいの?
 先生はもったいぶって言った。
「あー、ええと、これは一教科ずつ読み上げた方がよさそうですねえ」
「先生、早くしてよお」
「まあ、待ちなさい」先生はニヤリと笑って言った。先生がこんなことをしていいのかとサユリに疑念が沸いた。しかし、ここは魔法学校。自分の知らないモラルが、この学校では規範になっている可能性がある。サユリは固唾を飲んで、その結果が明かされるのを待った。
 先生は深呼吸をしてから、周りを見た。それから、一声で一気に読み上げた。
「ひゃくてんひゃくてんひゃくてんひゃくてんひゃくてんオール満点ごひゃくてん!」
 その瞬間、生徒たちが立ち上がってわあと叫んだ。ガタガタと椅子が床をこする音があたりいっぱいに響いた。一人がサユリにハイタッチを求めた。サユリが反射的に手を顔の前に出すと、その生徒は勢いよくバシーンと手を叩いた。また、ある生徒はサユリの後ろから抱き着いた。サユリは思わず、回された腕を摑んだ。腕は予想に反して、随分とすべすべとしていた。これが女の肌か――とサユリは思った。自分のより、幾分かきめが細かいのに驚いた。
 誰かが、「やっぱり魔法だあ!」と叫んだ。するともう一人がそれに答えるように、「サユリさんの魔法、すごい!」と言った。サユリは自分の名前を耳にして、疑念が頭の中を埋め尽くした。魔法? 私が? 無論、彼女は魔法など使った覚えはなかった。簡単な問題にただ答えだたけ。でも、この驚かれようはいったい? もしかして、簡単じゃなかったのかもしれないと彼女は少し自分の能力を顧みた。考えてみれば、図書館の本を読み尽くすなんてことは普通、あり得ないんじゃないか。彼女が読んだ、本好きのどのエッセイにも、そんなことは書かれていなかった。
 サユリは再び放置されて戸惑っていると、先生が小さな声で彼女を呼んだ。サユリはそそくさと忍び寄って、「はい」と返事した。
「どう?〈主人公〉になった気分は?」先生は言った。
「悪くはないですけれど――良くもないです」
「そうですか」先生はフッと笑うとサユリにテスト用紙を返した。全ての解答に、花丸がついていた。
「先生はいったい何者なんですか?」
 サユリがそう言うと、先生は大げさに笑った。
「普通の先生ですよお!」そう言ってから、しきりに笑い声をあげる。しばらく笑った後、冷静になって、「まあ、あなたが知りたいことは、自分で調べなさいね」
 そう言って先生は教室を去った。クラスメートたちも騒ぎ疲れて、各々の机で談笑していた。一人がサユリに、「先生は?」と聞いた。サユリは、口を大きく開いて、「か、帰った……」と答えた。先ほどよりもずっとしっかりした声が出たことに自分で驚いた。「し、知りたいことは、じ、自分で調べろって……」
「相変わらず、ミステリアスだよね、先生」誰かが言った。すると、生徒は一斉に立ち上がり、帰り支度を始めた。サユリも、席に戻って帰り支度を始めた。筆記用具を手持ちバッグに詰めている間、彼女はハマの声を思い出していた。そういえばさっき「学食で待ってるね」とか言っていたっけ。しかし、彼女は次の瞬間、手汗が噴き出した。
 サユリは、学食の場所を知らなかったのだった。

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