長編小説: トパーズ色の海で

 ぼくが小説を書く意味? なんでそんなこと聞く?
 そんなの、楽しいから――以外にないでしょ。他に思いつく? 思いついたら、むしろ教えて欲しいわ。君自身の小説には興味ないけれど、その姿勢は興味わくかな。まあ、少しだけね。
 でさ、そういうのって結果が重要なわけじゃないじゃん。意味を聞くっていうのはさ――なんていうか、自分がどんな小説を書くのか、あるいは書いたのかってことにフォーカスしすぎている気がするんだよね。じゃなくて、大事なのはどのように小説を書くのか――じゃない? 一流の小説家はみんな、そうやって書いてる。ああ、うん。そう、ぼく、分かるんだよね。その小説を読んでいると、その人の書いている姿が頭に思い浮かんでくるっていうかさあ、まあ要するに、ぼくって結構変人なんだよね。でね――話が逸れちゃったな――、一流の小説家は、自分がどんな作品を書いているのか、いちいち気にしちゃあいないんだよ。分かるかなあ、あの人たちはさ、小説を書いているとき、自分自身が小説になっちゃってるっていうか。――難しい? まあ、仕方ないよ。ぼくも、自分で言っていること、意味わかんないなって思ってるから。
 だからさ、ぼくは絶対に自分の作品を振り返らない。推敲もしない。ありのままに書かれたものが――ぼくだから。だから読む人には、誤字や脱字も愛してほしい。これが、作家・安西夏衛なんだなって思ってほしい。そういう態度が、ぼくの読者たる証だと思う。
 ふふ――なんだか、小説書きたくなってきたな。こういう話をするとなんか書きたくなっちゃうんだよね。それも、小説家の性なんだと思う。思想は語るな、滲ませろ。それがぼくの自分で考えた座右の銘だ。ああ、忘れてた、録音終わり。ぼくが考えた、最近のトレイニングメニュウだ。こうやって誰かと喋る練習をすることで、小説に、ぼく自身の独特なフロウを盛り込めるようになるんじゃないかと思っている。
 窓を見ると、本の隙間から微かに西陽が差し込んできているのが分かった。もうすぐ、マザーが帰ってくる頃だ。ぼくは少し伸びをしてから、階段を上がった。マザーは絶対にぼくの小説室には入ってこない。ぼくが、執筆の邪魔をされるのを一番嫌がっているということを知っているからだ。ぼくは以前、小学生の時に、マザーに拳でわからせてやった。ぼくのパンチが彼女の頬を掠めると、彼女はぼくを獣を見るような目線で見返してきた。ぼくはその瞬間、うちから溢れ出る恍惚を止められずにいた。それからマザーは、ぼくが小説室で執筆している間はなにもしてこない――というのが恒例になっていた。
 さてと――ぼくは自分の小説室の扉の前に立つ。深呼吸をしてから、ひざまづき、額をついた。小説室の神様、今日もぼくに小説をお書かせください。しばらく首を垂れた後、立ち上がり、アルコール消毒液で手のひらを念入りに消毒してから、慎重にドアノブを回した。カチャリ――と軽快な金属音が鳴る。開くと、薄暗い部屋の中に、つけっぱなしにして置いたデスクトップパソコンが、ファンを室内に響かせ必死に自身を冷やしていた。
 ぼくは目を瞑り、本棚の中から手探りでダンベルを引っ張り出した。重さは5キロ。平生から体育会系には全く興味のないぼくにとっては十分な重さだった。ぼくはそれを左手に持ち、上下に往復させながら、暗記していた『論語』の一節を復唱した。――之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず。――ぼくの好きな言葉だ。楽しんでやることこそ至高――この言葉に出会ったとき、ぼくは今までこのことを言いたかったのだという気持ちになった。ぼくは初めて孔子という人間を認める気になった。こいつはすごい――そう思った。ダンベルを動かしていた左手がだんだん痺れてくる。ぼくは気づけば、額に汗をかいていた。パソコンのファンの音がさっきよりも増している。復唱をやめ、精神を統一してから、ぼくはゲーミングチェアに腰かけ、ワープロを打ち始めた――

「マザー、ぼくはいつからあなたのご飯を食べているんだ?」
「え? あんた何言ってんの?」
 マザーが首を傾げながら、副菜やおかずを次々とテーブルに運ぶ。ぼくは知らず知らずのうちにそれを口へ運んでゆく。マザーのご飯はおいしくもまずくもない。言ってしまえば平凡だ――だが一方で、それがいい、と思う。平凡を愛する気持ちこそ、小説家には大切だと思う。トマトやレタス、きゅうりがヴィネガーソースと絡んで、程よい刺激を生んでいる。
「っていうかさ――」いつのまにか配膳を終えたマザーがぼくの向かい側に座っていた。「その、マザーっていうのいい加減やめてくれない?」
「あなたは母でもお母さんでもましてやママでさえない。マザーだ」
「だったら」マザーは縦肘をついて、まっすぐぼくを見た。「もっときれいに発音なさい。カタカナ英語は偏差値に毒よ。ほら、ザのときに舌を歯で挟んで」
「マザー、あなたはいつから偏差値の奴隷になったんだ?」
「冗談に決まってるでしょ。あなたは立派な小説家になるんだから、偏差値なんて関係ないもんね?」
「ふん、バカが」ぼくは立ち上がり、テーブルの上の食器を片付け、シンクに溜まっていた二人分の洗い物をスポンジで擦り始めた。食洗機にすべてを放り込むと、ぼくは昨日からヨーグルトに漬けておいたドライフルーツを取り出し、ガラス皿に盛り付け、マザーの前に運んだ。マザーは「デザート、楽しみにしていたんだわ」と幸せそうな顔で喜んだ。ぼくも食べようと、自分の分を盛り付けて元の席に座ると、マザーは笑顔で「小説、進んでるの?」と聞いてきた。ぼくはふんと鼻を鳴らし、「進む――というのは奇妙な質問だな」と答えた。するとマザーは、
「進むって比喩が気に入らないことは分かるけど、世間には既に同じようなメタファーがたくさん普及しているじゃない。ページを進める。学習を進める。人生を進める。分からないとは言わせないわ。だってあなたは、「進む」がすでに奇妙な概念だってことを――知っていたんだから」
 マザーは、哲学者だった。

 帰りのホームルーム、教師が低俗なことを喋っていた。
「お前らは、高校最初の夏休み、ちゃんと勉強したか? してないんだろうな。分かるぞ、お前らからぷんぷんバカの匂いがする。バカの匂いはプールに浮かぶ夏蜜柑の香りだって相場が決まっているんだ」
「おお、夏蜜柑の香り――」生徒から、感嘆の吐息が漏れる。
「ったく、マジで夏休み、勉強に使わずに最高に楽しんじまったあんぽんたん野郎は、せっかくの記憶のひとひらを空想に留めるだけじゃなくてよ、雄弁なるパピルスにそっと刻み込んでおくんだなこのバカどもが!」
 そういって教師は扉から退出し、生徒たちは忽ちノートを広げ、何事かを書き込み始めた。うちのクラスはどうしてか、日記の提出率が100%だという噂を聞いたことがある。奇妙なことに、口が悪いのとは裏腹に、あの教師は全校内を含めても人気が圧倒的に高い。
 ぼくはもう日記を書いていたので、さっさと帰ろうと立ち上がった。すると、後ろの席に座っていた春美が声をかけてきた。
「夏衛! 日記はもういいの?」
「ふん、あの先公に言われんでも、とっくに書いていたわ」
 肩を摑もうと伸ばされた春美の腕を振り払い、ぼくは教室を出た。後から、春美が走って追いかけてきた。
「待ってよお、ねえ、今日は一緒に文芸部に行かない? 私、どうしてもいかないといけない用事があって」
「なんだよ。ぼくは今日、家で書きたいんだ」
「ふうん、そんなに早くマザーに会いたいんだ」
「はあ!?」ぼくの声が廊下に響く。慌てて咳払いをした後、「そんなわけあるか。ぼくはマザーなんか嫌いだ」
「いいよねえ、夏衛のお母さんって。喋ると楽しいし、料理も上手だし、美人だし――おまけに大学の准教授なんでしょ? もう完璧じゃん」
「ふ、ふん。ぼくはマザーなんか嫌いだ」
「そして息子は成績優秀で家事洗濯が全てこなせるいい子ちゃんときている」春美はにやにやしてこちらを見ていた。「この親にしてこの子ありっていうのは、きっと本来こういうことを言うんだろうねえ」春美は吹き出した。「ダメなのは小説家を目指してることだけだね! ギャハハ」
「クソが! この外道! ちきしょう、行ってやるよ文芸部に! クソめちきしょう、このバカが!」
「ありがとう!」
 そう言って春美は教室に引き返し、荷物を取りに行った。ぼくは待たずに別棟にある文芸部の部室へ、早歩きで向かったのだった。

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