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長編小説:屋根裏部屋のドラマチック⑤

「――着きましたよ」
 ミーハが指さした先に、一際大きい、コンクリートの建物があった。ミーハによれば、ここがハマがいると思しき食堂だった。サユリはくたびれていた。スチューデント・プラザからの道中もほとんど喋らず、黙々と歩いていた。ミーハの方では、そんな彼女に少し、親しみを抱いていた。きっと彼女は不器用なのだ。不器用な人間に、邪悪な人はいないというのが、彼の持論だった。ミーハは運動不足のサユリに歩調を合わせ、ゆっくりと歩いた。
「なんだか、な、長かった気がするわ……」
「この学校、広いですからね」
「た、助かったわ。あなたがいなければ、私、詰んでた」
 そう言って、サユリは軽いお辞儀をした。ミーハはいえいえと手を振ってにこりと笑う。なるほど、コミュニケーションとはこういうことかとサユリは思った。人に親切にしてもらうと、そのメリット以上にどうしてか心が温かい。心理学の教科書に、親切心はコミュニティにおける幸福量の総量をあげると書いてあったが、まさにその通りだ。サユリは生まれて初めての幸福の味を噛み締め、学食に勇んだ。
「ぼくはここで失礼しますね」と、ミーハは立ち止まっていった。
「え、どうして?」とサユリ。「い、一緒に来てよ」
「ええ! だって、邪魔じゃないですか?」
「ど、どうして邪魔なの? ほら、こ、こ、ここまで連れてきたお礼がしたいから。きっとね、き、きっとハマが、あ、あなたの分までお金を、だ、出してくれるわ」どもりながらも、サユリは一息で喋った。
「どうしてハマさんが出すんですか!?」
「え? だ、だって、わ、私の分はいつもハマが、だ、出してくれるから」
「君たち一体どんな関係なんです?」ミーハはドン引きした。
「それに、あ、あなたがきてくれると、た、助かるの。あの子の失敗でいったいどれだけ私たちが、く、苦労したか。二人でハマを責めることが、で、できるわ」
「奢ってもらった口で非難とか、モラルはありますか?」
 サユリはそれに答えず、ミーハの腕を掴んで引っ張った。まあ、無料ご飯が食べられるならいいかとミーハは観念して、引かれるがままについていった。

***

 食堂のホールに入ると、サユリはこれまでにないくらいの感動を身体に感じていた。
 まず、サユリはその屋根の高さに驚いていた。手をどれだけ伸ばしても、脚立をいくつ重ねても決して届きそうにない天井を見て、サユリは叫びたい気持ちになっていた。図書館を徘徊するだけの生活を送っていた彼女は、これだけ高い屋根を一度も見たことがなかった。この高さなら、いったい図書館の本棚をいくつ積めるだろうか。海外の大きな国立図書館を写真で見たことがあった彼女は、この食堂の壁と重ねた。中央に螺旋階段をおけばきっと、素晴らしい図書館になるに違いないと思った。
 加えて吹き抜けの屋根を支える、複雑に絡み合った柱たち。あの全ての柱の一本一本に〈意味〉があるのだと考えると、建物とは途方もない哲学書のようだとサユリは実感した。概念が生み出す構造には飽きたサユリだったが、あれが具現化しているとなると話は違う。テクスチャのように美しい柱のハーモニーの一つ一つを、彼女は今すぐ解きほぐしたい衝動に駆られた。
 いつまでも上ばかり見て呻き声をあげていたサユリの肩を、ミーハは軽く叩いた。「ほら、ハマさんを探しますよ」と彼は言った。しかし、サユリの心は、ハマに向かなかった。台所と思しき場所で、大きな釜をひたすらかき混ぜている女性たち。ガヤガヤと騒がしい生徒たちの喧騒。意味もなくカラフルなテーブルと椅子。しかし、一際彼女の目を引いたのは、未だに長い列を作っている食券機だった。
「ミーハ、あれはなに?」サユリは興味深げに、列を指さした。
「ああ、あそこで注文するんです。今日はテスト後で余計に混んでいますね」
「わ、わわ私も並んでいいの!?」
「その前にハマさんを――」
「ハマなんてあとあと! 一緒に並びましょ」
「ちょ、ちょっと!」
 サユリはミーハの制止も聞かず、列の一番後ろに並んだ。列の一部になることで、サユリはますます興奮した。私も、この巨大なシステムの一部になれたんだわ。鞭のようにしなやかに伸びる、この食券機の列に、私は有機的に繋がったのよ!
 しばらくして、サユリの番は目前に迫っていた。サユリは続いて、尺取り虫の新陳代謝について考えていた。古いものは棄てられ、新しい細胞が生み出されてゆく。長い長い尺取り虫はそうやって、サユリたちを前へ前へと押し出していったのだ。また一人、食券機の前から消えた。サユリはどんどん、古きものとして押し出される。ふと、彼女は昔読んだエッセイを思い出した。様々なエッセイや自己啓発本がレジャー施設について触れるたびに、列に並ぶことへの嫌悪感を示している中、そのエッセイだけは「列に並ぶのが好き」という主張をしていた。なんでもそのエッセイによれば、列に並ぶとワクワクするというのだ。サユリは、そういう変わった意見を読むのが好きだった。どうしてワクワクするんだろう。他の本では、たくさんアトラクションに乗りたいとか、拘束される時間がもったいないとか、列に並ぶことが嫌ということに対して、とても納得できる意見が書かれていた。しかし、そのエッセイはただ「ワクワクする」と、それしか書いていなかった。そのことは、彼女をしばらくモヤモヤさせていた。それが――ようやく分かったのだ。きっと、そのエッセイの作者も、尺取り虫の新陳代謝について考えていたのかもしれない。自分が、列をなす一つの細胞となって、〈列〉という一つの有機生命体の命を構成する要素になっているという感覚。この得も言われぬ感覚こそ、この〈ワクワク〉の正体だったのだ。
「次、サユリさんの番ですよ」
 トリップ状態だったサユリを現実世界に引き戻したのはミーハだった。サユリはハッと我に返って、食券機の前に移動した。「私もとうとう、フケとなって棄てられるのね!」今までからは考えられないくらい滑らかに喋るサユリに、ミーハはいささか驚いた。そして、徐々にだがサユリの吃音に法則性を見出した。彼は、「内容が意味不明であればあるほど、吃音が治る」と仮定した。
「わあ! ね、ねえ、見て! 解像度の高いかけうどん!」
「え、ええ。そうですが……」ミーハは適当に相槌を打った。
「これは知ってるわ。4Kというやつね。すごいわね、本よりもずっと描写が細かい……」
「かけうどんでいいんですか?」
「え?」
 サユリは首を傾げた。質問の意味が分からなかったのだ。
「他にもあるの?」とサユリは聞いた。
「もちろんですよ、ほら」
 そう言って、ミーハはタッチパネルをスライドし、他のメニューを開いた。指と連動して次々と現れる写真たちに、サユリは心を躍らせた。
「すごい、すごいわね、これ! カレーに、オムライス。天丼定食まで! みんな解像度が高い!」
 サユリは次々にスライドさせ、写真を眺めた。「水滴の表現が」とか「お盆の木目がきれいだ」とか、ブツブツと独り言を言いながら。ミーハはふと、背筋がゾクッとして後ろの列を省みた。ミーハの後方に並んでいる男子生徒が、イライラした表情でこちらを睨んでいたのが見えた。
 ミーハは慌てて、サユリに言った。
「早く選んじゃってくださいよ!」
「え? 選ぶ? なにを?」
「え?」
「え?」
 サユリの、なにを言っているのか本気で分からないといった表情に、ミーハの時が止まった。脳をめぐる神経細胞が、一気にオーバーヒートしたのだった。この人の行動原理が全く持って分からない。ひとつ分かることと言えば、この人が、自分が半分も解けなかったテストで、満点を取れてしまう人間だということだけだ。しかしその情報は、この状況においてなんの意味も果たさないということをミーハは悟った。この人は、あらゆる理法に精通しているけれども、食券機が何のためにあるのか分からない。要するにバカなのだ、こいつは。自分よりも数段頭のいいバカなのだ。テストという曲芸を覚えたサルだ。受験社会の失敗例。こういう人間が、政治家などになるのだろう。
「とりあえず、何か買いましょう。お金出してください」
「お、お金なんて、も、持ってないわ」サユリは堂々としていた。「人生で一度も持ったことがない」
「カードってことですか?」
「ううん、ハマ」
「え? ハマさんがお金ってことですか?」ミーハは半分やけになって聞いた。
「うん。ハマがお金」
 むちゃくちゃだ――とミーハは絶望した。後ろを見ると、先程の男性がさらに吊り目になって怒っていた。もう、怒鳴られるのも時間の問題だ。ミーハは急いでサユリの腕を掴み、食券機から引き剥がした。「4K画質の天ぷら定食があ」とサユリが叫んだが、聞かなかったことにしてそのまま入り口に引きずった。サユリが、もう少し見たかっただのとぼやいたので、ミーハは相手に聞こえるように舌打ちした。そのとき、
「あれ? サユリちゃん?」と柔らかい女性の声がした。するとサユリは、聞きなれた言葉に耳をたて、その声の方へ飛びついた。
「ハマ!」サユリはハマに抱き着いた。
「サユリちゃん! 来てくれたんだね! 良かったよお」ハマも細身のサユリの背中にぐるりと両手を回し、ぎゅっと抱いた。
 しかし、サユリはハッと何かに気づいたといった様子で、ハマの腕を振り解く。
「そうよ! ハマのせいでね、大変だったんだから! ミーハに手伝ってもらって、頑張ってここまで来たのよ」
「いや、大変だったよ――」と、ミーハ。
「ミーハくん!」ハマはミーハの方に跳んで近づき、両手を掴んだ。「サユリちゃんをここまで連れてきてくれてありがとうねえ!」
「その代わりと言ってはなんだけどさ、ぼくも一緒に、食事いいかな?」
「もちろんだよ!」ハマは弾むような調子でいった。「でも、ミーハくんが珍しいね、自分からお願いするなんて」
 ハマが言うと、ミーハは照れ臭そうに言った。
「気になるんだよ、ぼくをあんなに振り回した人間が、いったいどういうやつなのか――」

***

 サユリは生まれて初めて、まずい飯を食べた。
 その料理はあまりに出来が悪かった! サユリは好物のカレーを頼んだのだが、料理を手渡されるとき、彼女は二度見した。むちゃくちゃ黒かったのだ。コクのある黒さじゃない。なにか、泥が混じったかのような、淡い黒。受け取った時、カレールーがふるふると揺れた。明らかに、水のテクスチャだった。しかも、どうしてか定食のようになっていて、カレーにお味噌汁がついてきた。カレーにお味噌汁。とても奇異な組み合わせだ! しかし、リベラルな気風が世界各地から輸入されてきているこのカワバタ国で、その程度の文化のちゃんぽんはまだ許せる。しかし、サユリがどうしても許せなかったのは、お味噌汁とカレーの水面が、まるきり同じ様子で震えていたことだった。もっと、文化の特異性を大事にしろ! サユリは叫びたくなった。案の定、カレーは水っぽかった。味が薄いだけならまだしも、普通のカレーよりも辛い。目を瞑って食べたときに、泥に唐辛子を混ぜましたと言われてもきっと信じるだろう。とにもかくにも、内容のない液体だった。お味噌汁は薄い。
「ま、イニシエーションですね」
 素うどんを啜りながら、ミーハは言った。この学食での一番人気はこの、素うどんだ。渡される時点でなぜか麺がふやけ切っているという代物だが、味付けが全くない分、美味しくはないがまずくもないからマシという評価を得て、生徒から人気を得ていたのだった。
「なるほど、これも実践知ってわけね――」
 サユリは、トラウマの解消を目指し、カレーを啜った。まるで、素うどんと同じように! ちなみに、この学食ではオムライスや天丼も、同じように〈啜る〉。
「そういえば」ミーハは、ハマの隣に座っているセレナを見た。「あの有名なお嬢さまも一緒にいたんですね」
「そっちこそ、噂は聞いてるよ!〈女より可愛い男〉のミーハさん」
「ああ、ぼくの魔法のこと、知ってるんですね」
「知ってるよ!」セレナはにやりと笑った。「Aクラス随一の魔法使いって噂じゃん! ――でも」
「ええ、そうです……」
 二人はちらと、サユリを見た。サユリは、複雑な顔でルーを飲み込んでいた。
「ぼくの魔法が全然効かなかったんです」
「そうみたいだね……」
「ん? なにか魔法を使ってらしたの?」サユリはティッシュで唇を拭いた。それからハマを見て、「てかさあ、いい加減魔法のこと教えてよ」と言った。
「え、知らないの?」そう同時に言ったのは、セレナとミーハだった。二人は、信じられないと言ったふうに目を丸くしてサユリを見た。
「知るわけないでしょ。今日初めてこの学校に来たのよ」
 サユリは、頬を膨らませて言った。「入学したのだってさあ、おととい知ったばかりなのよ? ハマがテスト直前までなにも言わなかったから。まあ、魔法学の試験なくて助かったけどさあ」
「それは本当にごめんなさい……」ハマは弱々しい声で謝った。
 セレナはまた、前髪を櫛で溶かしていた。「嘘でしょ……だって、サユリちゃんはAクラスじゃん」
「え、Aクラスがなんか関係あんの?」
「マジですか、それも知らないんですか」
 ミーハはハマを見た。ハマは仕切りに、テーブルに頭を擦り付けて「すみません」を連発していた。
「だからずっと言っているじゃない。本当になにも知らないんだって。外の空気を吸ったのだって、今日が初めてなのに」
 そう言って、サユリはワイシャツを腕まくりした。銀髪の髪が暗く見えるほど真っ白い肌が、露わになった。オシャレ好きのセレナは、思わず唾を飲み込んだ。この白さがあれば、きっとどんな服だって似合うだろうと思った。頭のおかしい挙動から、全く気が付かなかったが、サユリの顔立ちも、どこか異国情緒を感じる美しさがあった。「サユリちゃんの親って外国の人?」とセレナはたまらず聞いた。
 すると、ハマが慌ててセレナの方を向いた。「セレナちゃん、それは聞いちゃダメ――」
「そうよ」サユリはさらりと言った。
「え……」ハマは驚いた様子でサユリを見る。サユリを図書館に住まわせてから六年以上が経っていたが、気を遣っていたハマはサユリの過去に触れたことがなかった。だから、セレナの質問にあっさりと答えるサユリの姿が新鮮に写ったのだった。
「私、海外旅行のお土産だったみたいなのよ。詳しいことは、買った本人たちがもう蒸発したから分からないけれど」
 サユリが言った瞬間、三人のテーブルに冷たい静寂が場を凍らせた。依然として、食堂は生徒たちの喧騒に包まれていたが、三人の感覚器官は、サユリの衝撃的な告白によって奪われてしまったかのように、麻痺してしまったのだ。
 サユリは淡々と続けた。
「もちろん、調べたわ。中学校のカリキュラムには、どうやら自分のアイデンティティを親に訊いて発表する授業があるみたいね。私には生みの親も育ての親もいなかったから、図書館でたくさん調べたわ。そうしたら、この銀髪の髪、白い皮膚は、タイガと呼ばれる大陸を蓋う針葉樹林群の中に隠れ住む種族のものらしいことが分かったわ。ほら、ここ耳が少し尖っているでしょう? これは、この種族の特徴が色濃く表れた証らしいの。それで、私たちの種族は、古来から、奴隷愛好家たちに好まれていたみたい。だから、逃げるようにしてタイガの中に身を隠していたらしいんだけれど、きっと、自分たちが他の人間たちから人間とみなされないだろうということを本能的に知っていたんじゃないかしらね。そういう論文を読んだことがあるわ。まあ、グローバリゼーションが進む時代で、GPSが全土を蓋うこの世界、隠れる場所なんてあるわけないんだけどね」
 まるで他人事のように、無表情で話すサユリのことを、三人は恐ろしいと思った。これほどまでに自分の境遇に対して距離をおけるなんて、いったいどんな感情遍歴を辿ってきたのか、三人には想像できなかった。そして、勘のいいミーハだけが更に気がついたことがあった。サユリは、中学校に通っていない。それどころか、小学校にさえ通っていない可能性が高い。だから、サユリには常識がないのだと思った。人と安心して共有できるコミュニケーションの基盤が、彼女にはほとんどなかったのだ。むしろ彼女は今日一日、圧倒的に欠けている〈常識〉を、それ以上に圧倒的に膨大な〈知識〉で補って、辛うじて会話を成立させていたに違いなかった。
「今は、どちらで暮らしているんですか?」重い沈黙を破るようにミーハは訊いた。地雷原を特定したことで、ミーハは先ほどよりもずっと、会話がしやすくなったと感じていた。
「図書館よ。ハマに住まわせてもらっているの」
「そういうことだったんですか」ミーハは、『ハマがお金を出している』という事情を一挙に了解した。「というか、ハマさんも知らなかったんですか?」
「知らなかったよ……」
 ハマが言うと、サユリはフッと鼻で小さく笑った。
「ハマはおバカさんだから」
「なんだって!」ハマは頬を膨らませて言った。
「ほら、怒ったって、なんか笑顔でしょ? この子。気味悪いのよ」
 とサユリが言うと、セレナとミーハはハマの顔を見て、プッと噴き出した。口は膨れているくせに、垂れ目がより垂れて、愛くるしいパンダのようになっていた。
「仕方ないじゃん! この顔しかできないんだから!」
 と、ハマは余計に頬を膨らませたが、やはり目は笑っていた。三人はハハハと朗らかに笑った。先ほど三人を支配していた静寂が溶解し、また、耳には他の生徒たちの喧騒が聞こえてきた。もっぱら、今日のテストの答え合わせをしている生徒が多いようだった。
「ハマさん、提案があるんですけど」ミーハは言った。
「何?」
「サユリさんの身の上話は、この四人だけの秘密にしませんか」
「え? どうして?」そう言ったのはセレナだった。
「確信はないんですけど、サユリさんがこれ以上目立ってしまうとまずい気がするんですよ。ただでさえ、授業全免除、テストは満点、見た目は銀髪でミステリアスなんて、恐ろしい属性を持っているのに、加えて、孤児で図書館住まいと知れたら――サユリさんが学校に通いにくくなるっていいますか」
「ミーハってそんな見た目なのに、意外と保守的なのね」サユリはさらりと言った。
「だからですよ! こういう見た目だから、事あるごとに疑念の目を向けられるんです。ちゃんと説明できればいいんですけど。サユリさん、吃音持ちじゃないですか。……って、あれ?」
 ミーハは、サユリがいつの間にかスラスラと喋れている事実に気がついた。内容も、意味不明なんかじゃないのに。
「サユリさん、普通にしゃべれるんですか?」
「あれ、本当だわ。私今、どもってない」
「それなんだけど……」ハマがおずおずと手を挙げた。「サユリちゃん、私といるとちゃんと喋れるみたいなんだよね」
「嘘でしょ!?」サユリは驚いて言った。「じゃあなに、私、ハマに依存してるってこと!?」
「今更ですか……」ミーハはため息をついた。
 すると、セレナがいいことを思いついたと言って、手を叩いた。セレナはハマに、
「え、じゃあちょっとさ、トイレ行ってきてよ」と、声を弾ませて言った。ハマはセレナの意図をくみ取り、「じゃあ」と言って、お手洗いへと向かった。するとセレナはサユリに、「ね、何かしゃべってみて」と言った。
「何かって、何を喋ればいいのよ?」
「あれ?」三人は顔を見合わせた。「普通に喋れてる」とミーハは言った。
「なんだ、全然吃音なんかじゃないじゃん」と、セレナ。
「――どうやら、克服できる吃音らしいですね」
「……」サユリは黙って、自分の細い喉元をさすっていた。自分を構成する身体が、自分の知らない一面を持っていたことに驚いていたのだった。彼女は生物学も、精神分析学も勉強していた。しかし、自分がまさか吃音だとは知らなかった。そして、特定の人間にだけ、ちゃんと喋れるということも。彼女は、自分はまだ知らないことだらけだと今日一日で思い直していた。図書館に帰りたい――とふと思った。本が読みたい。こんな気持ちはいつぶりだろう。
「――どうでした?」ハマは言った。
「とりあえず、ハマちゃんがいなくても、私たちがいれば大丈夫ってことが分かったよ!」セレナはひときわ嬉しそうに言った。「サユリちゃんはもう、友達だね!」
「友達!?」サユリは言った。「いったい、何が目的なの!? 金か!?」
「……サユリさんは、本の読みすぎですよ」ミーハはため息をついた。

***

 帰路につき、サユリを図書館に送り届けた後で、ハマは河川敷にある階段に座り込んだ。午後七時、夕焼けの時間が過ぎて、空は紫色に変化し始めていた。
 ハマはボーっと川の流れを見ていた。右から左へと、小さな波が静かに伝っていた。向こう岸には、少年たちが声を出し合いながらキャッチボールをしていた。ときどき、グローブに軟球がはまる爽やかな音が河川敷に響いた。中学生くらいだろうか――とハマは漠然と思った。
 ハマは、自分の杜撰さを少しだけ悔やんでいた。このカワバタ国では、小学校、中学校に通うことは国民の義務だった。違法入国だったとはいえ、サユリは今は、ちゃんとカワバタ国に籍を置いている。彼女も義務教育の責を負っている。でも、彼女が本を読んで知識を蓄えていく様を目の当たりにしたとき、普通の小学校だとどんなに退屈だろうかと考えてしまい、提案できなかったのだった。でも、ちゃんと言えばよかったとハマは後悔した。小学校や中学校が勉強をするためだけの場所ではないということを、卒業してからようやく実感したのだった。サユリが、ミーハやセレナと一日話しただけで吃音が治ったように、もっと、外の世界に触れさせるべきだった。自分ばかりが、彼女の特別な存在ではなかったということだ。
 とりあえず、まずはサユリに魔法学校に通ってもらう。これがまず、ハマに課せられたミッションだった。自分の都合で、授業全免除にしてもらっていたが、これではまた小学校、中学校の繰り返しになってしまうと思った。それから、ミーハに言われたことを守る。とにかく、サユリには〈常識〉を身に着けてもらうことが最優先事項だった。今日はまた、魔法のことを教えるのを忘れてしまっていた。しかし――とハマは思った。セレナがサユリに「友達だ」と言ってくれたことは、何にも代えがたい感謝の気持ちでいっぱいだった。サユリに友達ができた。これは非常に嬉しいことだった。
「うん、頑張ろう」ハマは独り言をつぶやいた。すると、ちょうど後ろを全力ダッシュしていた三歳くらいのガキが、「無理だよおおおお」と叫びながら暗闇に消えていった。

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