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長編小説:屋根裏部屋のドラマチック

 サユリは意味の分かる文章が嫌いだった。
 もちろん、最初から嫌いだったわけではない。両親が事業に失敗し、サユリを残して二人は遁走、両親の他に身寄りのなかった彼女は、市の図書館に匿われた。そこで、彼女の生涯の趣味となったのが読書だった。彼女は一人で、書庫にあった様々な本を読み漁った。ある時は刺激的な冒険譚に心を躍らせ、またある時は男女の美しい悲恋に涙した。無論、彼女が読んだのは小説だけではなかった。十二歳の女の子にしては珍しく、彼女は抽象的な概念理解にも長けていて、読書を始めてから二年ばかりで、あらゆる学問の論文の趣旨を理解できるまでになった。特に彼女が好んだのは哲学だった。図書館の書庫の奥に位置する屋根裏部屋に居を構え、ほとんど外に出たことがない彼女にとって、思索を巡らせて世界を思考する哲学は魅力的に映った。
 それから三年が経って、サユリは突如、読書をやめた。毎日、仕入れられる図書に、必ず目を通していたサユリだったが、ある日突然、彼女は本に見向きもしなくなってしまったのだった。彼女は――飽きたのだ。〈意味〉に。物語や論文、エッセイには必ず〈意味〉が含まれる。サユリにとって教訓、意義、筆者の意図――がそれにあたる。彼女はその文章が示す、背後に潜んだ巨大なものを忌避するようになった。ドラマチックな展開を察知すると、彼女は必ず耳を塞いだ。もう、うんざりだったのだ。意味に、感情を振り回されるのが。
 それからまた一年が経った。五月、サユリ、十六歳。
「――ハマ、なんなのよこれ」
 サユリは、手渡された紙を一瞥してから、目の前でにこにこと自分を眺めているハマを睨んだ。茶色のウェーブがかったマッシュボブをふわふわとゆらし、緩めのワンピースを着こなすハマは、伸ばしっぱなしの銀髪に、Tシャツとダボっとしたデニムをコスパ的に着ているだけのサユリとは対照的な女の子だ。彼女は、サユリの住んでいるユキグニ市の図書館を管理している市長の娘であり、サユリが屋根裏部屋に住むことを融通した張本人である。彼女は、サユリに言わせれば〈善意の塊〉だった。ハマは、捨てられて駅前に佇んでいたサユリを、事情も聞かずに自室に招待し、居場所を無賃で提供したのだった。それから四年間、ハマは見返りを求めることなく、サユリに接し続けていたのだった。
 サユリはと言えば、そういうハマの性格が少しだけ苦手だった。
「言い忘れてたんだけどね、サユリちゃんは今、イズ魔法学校の一年生なの」
「――え?」
 サユリは信じられないと言った顔でハマを見た。ハマは変わらず、にこにこと微笑みを湛えていた。――これなのだ。この、何を考えているのか表情からまったく読み取れない笑顔。サユリはこれが心底苦手だと思った。
 ハマは、サユリが鋭い顔で睨むのもおかまいなく、淡々と続けた。
「知ってるでしょ? このカワバタ国では、魔法学校の卒業が義務付けられているんだよね。入学は何歳でも良かったんだけれど、どうせなら、私と同じ時期に卒業できたらと思って。それにやっぱり、十六歳で入学する子が一番多いし!」
「いや、それはありがたいけれど――」
 サユリは再び、紙に目を通す。イズ魔法学校一年一学期中間テスト範囲が、事細かに書かれていた。実施日は明後日。どう考えてもおかしい。さっきまで入学していたこと自体知らなかったのに、もう中間テストだなんて。サユリはますます、ハマのことが理解できなくなった。
「だってえ」ハマは弁解するように言った。「入学前に言ったら、サユリちゃん、絶対嫌だって言うでしょ? これでも私、いつ言おうか迷ってたんだよ。テスト前になっちゃったけど……」
「その割には嬉しそうじゃん」
「それは私が、この顔しかできないから仕方ないんだもん!」
 そう言って、ハマは更にニコニコと笑った。どうだか――とサユリは思った。絶対、なにか裏で考えているに違いない。サユリはハマと出会ってからずっと、彼女に疑心暗鬼を向けていた。
「……それで」サユリは言った。「私、まだこの学校に一回も通ったことないんだけれど」
「あ、それは大丈夫! ええとね――」ハマはそう言うと、カバンをゴソゴソし始めた。サユリは紙を折り畳みテーブルの上に乗せて、ごろんと寝ころんだ。ハマはしばらくゴソゴソしていたが、突然「あ!」と大きな声を上げた。
「どうしたの?」
「用事を忘れてた!」ハマは慌てた顔をして言った。
「え?」
「ごめんね、サユリちゃん。ちょっといかなきゃいけないところがあるの! またね!」
 ハマはサユリの返事も聞かず、梯子を急いで降りていった。サユリの住む屋根裏部屋は、図書館の書庫室の奥に位置していて、出入り口はこの梯子のみだった。書庫は貴重な資料が保管されていて、滅多に人が来ない。今日も、書庫にいたのはサユリとハマの二人だけであった。
 梯子を下り終わったハマは、くるりとサユリの方を向いて叫んだ。
「明後日、絶対に学校に来てね!」
 その声は、書庫中に響いた。

***

 試験当日、サユリは三年ぶりに早起きして、登校を完了した。
 サユリは正門の前に立って、イズ魔法学校を眺めた。彼女はおもむろに唾を飲んだ。初等教育機関を一切通わず、図書館で本を貪っていたサユリにとって、生まれて初めての〈学校〉だった。もちろん、エッセイなどでイズ魔法学校の情報は知ってはいたが、読むのと実際見るのとではわけが違った。まず、彼女はそのスケールに驚いた。イズ魔法学校はあまりに大きい。その敷地だけで、一つの街を作り出しているかのような雰囲気を醸し出していた。構内には真ん中に大きな歩行者専用道路が一本通っており、それに沿って、コンビニエンスストアや服屋、文房具屋などが並んでいた。次に驚いたのは、イズ魔法学校の彩りだ。正門の外は森になっていて、鬱蒼とした雰囲気が佇んでいたが、ひとたび門をくぐると、あまりの色彩に目がチカチカするほどだった。正面には校舎がずらりと並んでいて、A棟からF棟まで、全て色が塗り分けられていた。サユリの教室はA棟にあるため、一番端っこの真っ赤な校舎だった。サユリは、緊張に足を震わせながらも、ゆっくりとA棟に向かって歩き始めた。
 校舎に近づくにつれて、彼女はあることに気がつき始めた。それは、ここに通う生徒の個性の強さだ。学園ものの小説を多数読んだ彼女だったが、この学校の生徒は、小説の描写とは全く異なる様相を呈していた。まずなにより、モブがいなかった。サユリが読んでいた小説には必ず、モブがいた。主人公やその周りを取り巻く人物を遠巻きに見ている人物群。名前が与えられておらず、また、月並みな返答しかしない。その世代の平均的な性格が選ばれて、賞賛もすれば差別も厭わない。モブは、主人公のドラマチックには欠かせない舞台装置だ。しかし、この学校にはそういうモブの影がなかったのだ。サユリからみれば、全員が主人公に見えた。テスト初日だというのに、何事かを大声で叫びながらランニングシャツで校庭を爆走する生徒。見るからに気が弱くて自己主張もほとんどできなそうな男子の周りに、黒髪ロングの気の強そうな女子と、金髪縦巻きツインテールお嬢様の女子という集団。池の周りでぼそぼそと世界の命運の話をしているオタクたち。サユリは生徒一人ひとりに、その背後に隠れる世界観を想像できた。彼らにまつわるドラマチックな演出。味方、敵、待ち受けるあらゆる困難と、その後に香る大団円。彼女にとって、彼らは小説だったのだ。サユリは、彼らの小説を頭の中で書いていた。と同時に、彼女は言いようのない吐き気を催した。
「ハマ、これだったのね……」
 サユリは、ハマが今の今まで入学を伝えあぐねていた理由が分かった。ハマには、こうなることが分かっていたのだ。彼女は、私が〈意味〉に飽きていることを知っている。学校に来れば、私は即座に数千人の〈意味〉にあてられてしまうのだ。私の頭はパンクする。ハマはそれを気遣って――
 ああ、嫌な奴。
 サユリはA棟に着くと、すぐさまトイレに駆け込んだ。時間に余裕を持ってきたので、一度くらい吐く時間はあるはずだ。しかし、彼女は吐けなかった。隣の個室で、すすり泣く声が聞こえたのだった。サユリは、瞬時に彼女がいじめられていることを悟った。そして、サユリは彼女に、二つのストーリーを見出した。一つは、彼女に気の合う仲間ができるもの。多分彼女は人には言えない趣味かなんかを持っていて、卓越したその才能に、スクールカースト上位の同級生かなんかが目を付け、交流を通じて人生を変化させるストーリー。もう一つは、彼女のいじめはそのままエスカレートして、トラウマを植え付けられた後、絶望の淵からペンを取り、そのまま純文学作家になるというストーリーだ。サユリはどちらにしても、この子と関わり合いになりたくないと思った。彼女は吐くのを我慢し、そのままこの女子トイレから逃げ出してしまおうと思った。
 扉をそうっと開けようとしたとき、サユリは聞き覚えのある声を耳にした。あの声は、ハマだ。ハマはどうやら、私を探しているらしかった。しきりに、私の名前を呼んでいる。――サユリは、反射的に扉を閉じ、便器の上にうずくまった。
 果たして、ハマは女子トイレに入ってきた。
「サユリちゃーん、いるう?」
 ハマはのんびりとした声で言った。どうやら緊急の用事などではなく、単純に自分を探しているんだとサユリは察した。というか、よく考えれば隠れる意味なんてないじゃないか。むしろ、ハマと合流できれば、私はこの慣れない環境にあってもいくぶんか安心できる。
 扉を開けよう――サユリが思ったその時、コンコンとハマがドアをノックした。サユリはドキッとして、慌てて扉から手を離した。「ううん、ここじゃないのかなあ」とハマのゆったりとした声が聞こえる。彼女は、他のドアもノックし始めた。サユリはその間、目を閉じて、ハマが早く去ることを祈った。
 ハマは隣の個室もノックした。すると、小さく聞こえていた鼻を啜る音が止んだ。ガチャリ、と鍵の外れる音が続いて聞こえてきた。開けたのだ、扉を。啜り泣きの主は、「ハマちゃあん」と声を上げた。知り合いだったのかとサユリは驚いた。
「あれ、あなたはAクラスの……」
 Aクラス――ということは私と同じクラスか。サユリは自分の運命を呪った。未来の純文学作家が同じクラスにいるとなると、私なんかは絶対に登場人物になってしまうだろうとサユリは考えた。自分が、ドラマチックの道具にされるところを想像して、身震いした。しかし、今吐いてはハマに居場所がバレてしまう。あれ、そういえばハマはどのクラスなのだろうか。
「ねえ、この子今日見かけたりしてない?」ハマは言った。多分、写真を見せているのだろうとサユリは思った。ハマは、サユリの写真を事あるごとにとってはスマートフォンに収めていた。
「銀髪の子かア、珍しいね」啜り泣きの女の子は、予想に反してハキハキとした声で喋った。さっきまで泣いていた子の喋り方とは到底思えない。
「でしょ!? かわいいよね、サユリちゃんっていうの!」
「見てないけど――」
 と啜り泣きの女の子が言うと、サユリはホッとした。サユリがトイレに駆け込んだときから、その女の子は個室で泣いていたのだ。姿を見られているわけはない。
「でも、ここにいるんじゃないかな」
 サユリはその瞬間、背筋の凍る思いをした。頭の中で流れていた思考が一挙に停止して、心臓の鼓動が高鳴り始める。ややあって、サユリはバレた理由を探し始めた。その子のいた個室を共有している壁をじっと見る。しかし、穴らしいものは見当たらない。サユリは、過去三年間読み尽くした本の知識を総動員して考えた。
 しかし、何も分からなかった。
「あ、ほんとにいた!」
 上から声が降ってきてきたので見上げると、ハマが個室を覗き込んでいた。サユリはお手上げだと思って、扉の鍵を開けた。ハマは急いで飛び降りると、サユリに抱き着いた。
「もう、どうして隠れてたのお」
 サユリはハマの肩から、自分を見つけた泣き虫の探偵の顔を確認した。しかし、彼女の姿はもうそこにはなかった。サユリはハマを引き剥がして、急いで女子トイレの周囲を確認した。しかし、廊下は登校してきた生徒たちで溢れていて、彼女の姿を見分けることはできなかった。

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