見出し画像

『吸血鬼すぐ死ぬ』ドラルク・サイレント・ジャマー回考察。なぜおもしろい? 彼らの〈サイレント〉なコミュニケーションとは。

 1月から、『吸血鬼すぐ死ぬ』の2期が始まった。
 1期もおもしろかったが、2期の1話目も最高だった。三本だてとなっていて、1つ目はドラルク家出回、2つ目は吸血鬼下半身透明初登場回だった。どちらも、1話目にふさわしく、1期で活躍していた個性豊かな登場人物たちが暗に紹介される形となっていて、とても良かった。

 しかし、ぼくがとくにおもしろいと思ったのは、三話目「ドラルク・サイレント・ジャマー」回である。いや、本当におもしろい。ああいう回が、ぼくはめっちゃ大好きすぎる。

『吸血鬼すぐ死ぬ』は、盆ノ木至先生が週刊チャンピオンで連載していらっしゃる、神作品だ。
 登場人物は、少しの衝撃ですぐ死ぬ吸血鬼・ドラルクと、吸血鬼ハンターのロナルド、そしてドラルクの眷属で、ヌヌヌヌという鳴き声がチャーミングなアルマジロである。基本的にはこの二人と一匹にっぴきが中心となって、ドタバタな日常が繰り広げられるという構成になっている。
 全話通して、基本的に1話完結型のギャグで占められており、どこから読んでも楽しい作品になっている。ぼくは単行本で購入しているわけだけど、マジでおすすめです。アホ面白い。

 以下、若干ネタバレ。

「ドラルク・サイレント・ジャマー」がなぜおもしろいのか。
 ぼくは、一言でいえば、にっぴきの間に、特殊なコミュニケーションが成り立っているからだと思っている。

 あらすじを説明しよう。
 ある夜、ロナルドは自身のエッセイ『ロナルドウォー戦記』を書き上げるため奮闘していた。ロナルド戦記を出版しているオータム書店の担当編集者、フクマさんがめちゃくちゃ怖く(部屋が亜空間で繋がっており、締め切りまでの脱稿に失敗するとアイアンメーデンによって喰われる)、本人は是が非でも脱稿しなければならない。

 しかしそこへ、ロナルドをおちょくるのが大好きなドラルクが作業を妨害し始める。真顔でサンバを踊ったり、モノマネ大会やパントマイムを披露したり、クイズ大会などやりたい放題。
 しかもおもしろいことに、それらは全て無言のままで行われた。すなわち、サイレント・ジャマーというわけだ。ドラルクのセリフが始終なかった。見終わった後、何とも言いようのない笑いに、ぼくは打ちのめされた。

 結局、三回くらいリピートしちゃったんだけれど、なんでサイレントであるだけでこんなにおもしろいんだろうと考える余裕があったので、今回はちょっともう少し感想を深めてみたいと思う。

 その前に、なぜサイレントであることが邪魔になるのだろうということを考えてみたい。

 サイレンスは時として、大きな音よりもうるさく感じることがある。
 例えば肝試しなどで、夜の学校に忍び込むとき。あるいは、病院、車の通らないトンネルなどで怖いと感じるのは、そこが静かだからだと思う。

 静かだ――ということは、常に、そこが「静かじゃなくなる」という変換可能性を暗に孕んでいることになる。もしここで大きな音が立ったら。影が見えたら。水が漏れ出してきたら――など。
 静かな環境に身を置けば置くほど、うちなる声の大きさは増していく。静かだから余計に考え事をしてしまう。しばしば、誰もいない部屋で静かに勉強するよりも、適度にざわついた喫茶店の方が捗るという人がいるが、それはこれと似ていると思う。静かな環境では、つい余計なことを考えたくなる。だったら、外がうるさい方がマシだ。

 それに、理由はこれだけじゃない。
 例えば「夜の学校」がなぜ怖いのかを考えてみたい。それは、普段うるさい場所が静かになることというギャップが関係している。
 うるさい場所が静かになる。そして、その静かさが逆にうるさく感じる。頭は、うるささに支配される――つまり、そこでは静かさとうるささが結合する。
 普段のうるささと、夜の静けさのうるささは、「うるささ」を通して溶け合う。学校のうるさいイメージは転覆され、むしろ、普段の学校を静かに思うようになるかもしれない。適度に生徒がいる方が静かで、誰もいない学校はうるさい。ここで大事なのは、「静か」と「うるささ」がここで共謀を図るということだ。

 夜の学校――という場では、サイレンスこそが場のラウドネスを握ることになる。静かであればあるほどうるさい、という転覆した倫理観が支配するようになる。
 だから夜の学校は怖い。すごく静かだからだ。並の人間では、静かなことには耐えられない。

 さて、ドラルクはフックとして、サイレントでサンバを踊り、ロナルドを誘惑する。サンバは本来音の大きいダンスだ。サンバはどこまでもハレの日に躍られるものであり、ハメを外し、肉を喰らう。一説では、カーニヴァルは断食前に肉とさよならする祭りのことを言うらしい。
 それがサイレントで行われるというギャップと言ったら! きっと最高にうるさいはずだろう。しかも、ドラルクはこれを真顔で演じる。「夢に出るわ」と突っ込むロナルドのマインドは、きっとドラルクでぐしゃぐしゃになっているはずだ。

 これがしかも、吸血鬼によって行われているという事実も示唆的だと思う。夜の住人がカーニヴァル(しかも、本人はほとんど食事を取らない=倒錯)を演じることの倒錯。これは、心をざわつかせる以外の何者でもないだろう(しかも、周知された吸血鬼のイメージと裏腹に、本人はすぐ死ぬ雑魚吸血鬼=倒錯)。
 さらに言えば、このドラルクはロナルドによれば「キャラじゃない」ようだ。いつの間にか、ドナルドの「キャラ」をロナルドが把握していた――ということにも驚きだったが――このキャラの転覆、という点にも、このサンバが誘惑を避けがたいものにしていることは確実だったんじゃないか。

 長く語ったが、一番おもしろいのは、以上のことが、わずか数秒のあいだに行われることだ。漫画やアニメでドラルクをずっと見守ってきた読者の頭に、「サンバをサイレントで踊る吸血鬼(すぐ死ぬ)ドラルク」という、倒錯に倒錯を重ねた、言葉にしがたい感情が、一瞬のうちに爆発する。
 この瞬間に、ぼくの頭はショートしていた。だって、訳がわからないんだから。いったいぼくは、何を見せられている? 言葉にならない感情が、この作品の中に「他者性」を感じる契機になっただろう。作品ならではのギャグ、僕はこれが一番好きだ。

 ぼくは、この作品を見ていて常々思っていたことがある。なんでこいつら、仲良く一緒に暮らしているんだろう。
 漫画で言えば一話目、アニメでいえば一期の一話で、ロナルドは(ドラルク本人にも落ち度が若干あるとは言え)ドラルクの城をぶっ壊している。家をぶっ壊すというのは、ギャグ漫画では定番だが、それにしたってひどい。

 それで結局ドラルクが事務所に強引に押しかけることになるが――気づけば、ドラルクは事務所の掃除と、にっぴきの食事を担当しており、本当にいつの間にか、自然と住むようになっている。
 アニメ2期1話目では、とうとうか――と視聴者は思う羽目になるが、ドラルクが〈家出〉をする。〈家出〉するとは、逆説的に、ドラルクが事務所を〈家〉と強く思っていることを示唆する。家なき場所では、家出はできない。ぼくらは夫婦漫才を見せられているのではないかと錯覚する。本当いつからそんな仲になったのだろう、とぼくはとても疑問に思う(つまり尊い)。

 しかし、「サイレント・ジャマー」には、そういった疑問に少しでも解決を示す手立てがあるように思えてならない。
 彼らのコミュニケーションの方法は謎だ。いつの間にか仲良くなっている。2期のオープニングの最後で、ドラルクは棺桶の裏に集合写真を貼っていた。200年を生きる吸血鬼が! どういうことだろう。全く分からない。しかし、それだけドラルクがこのコミュニケーションを大切にしているのは確かだ。でも、どうやって? 分からない。一体、どういうことなんだろう。

 多分、こういうことなんだろうと思う。
 表面だけ見ても、分からないということ。彼らの言葉を聞いているだけでは、あるいはストーリーを追うだけでは見えないコミュニケーションがあるのだ。だから、彼らはいつも、いつの間にか仲良くなるし、いつの間にか事件が起こる。全ては唐突に起こる。ぼくらには、彼らのコミュニケーションが全く〈聞こえない〉。

 つまり、彼らのコミュニケーションは常に〈サイレント〉なのだ。
 彼らは全く聞こえない声によって会話する。ことによると、本人たちにも聞こえていないのかもしれない。全くの無意識レベルで交わされる会話。用意されたストーリーとは全く別に進行するサイレント・ストーリー。
 関係性は本来、語らなくて良い。ベラベラと、君が好きだと告白しなくていい。無論、伝えなくていいというわけではない。〈サイレント〉のうちに、コミュニケートは完了しているのだ。本人たちも予期しないところで関係を完了するコミュニケーション。静かだからこそ、うるさいくらいに響く大きな声が、『吸血鬼すぐ死ぬ』の作品に響き渡っているのだ。

 盆ノ木先生が、自身の作品の二次創作的なものをSNSなどに挙げていらっしゃったりするのも示唆的だと思う。〈サイレント〉は完全なる偶然ではないと思う。少なくとも、作家の手によって意識された無意識があるのは間違いないんじゃないか。ぶっちゃけどっちでもいいけど。どっちだとしても、盆ノ木先生、最高です。

 サイレント・ジャマーにおいて、ジョンが普段より饒舌なのも暗示的だ。
「うるさい/静か」が転覆されたサイレント空間では、ジョンは普段よりもよく自己表現できる。
 しかも、普段は通訳係のドラルクが翻訳を完全に放棄しているわけだから、真の意味でジョンの心理は分からない。ロナルドも、ジョンの行動の意図の不確かさに混乱させられている(結局ドラルクのせいにしている)が、ジョンの、ロナルドのモノマネはどうしてか妙に生々しい。

 にっぴきは、そういう点で常に三角関係であり得る。
 どうしても、ジョンが「ヌヌヌ」でしか喋れない以上、ストーリーを追うだけでは、ジョンの出番は二人に比べてやや少なくはなるが、とは言え、重要な場面では必ず、ジョンは絶対に欠かせない。ジョンとドラルクとの結束は言わずもがな強い。また、ジョンとロナルドとの関係性においても、一言では言い尽くしがたい微妙なニュアンスを含む。トライアングルがそこには常にあって、にっぴきで一つの世界を生み出している。

 それは逆に言えば、にっぴきの間のコミュニケーションが〈サイレント〉だからこそ成り立つのだ。彼らは、コミュニケーションでは常に黙る。喋るコミュニケーションは、彼らにおいては常にディスコミュニケーションだ。彼らは常に喧嘩し、煽り合い、足を引っ張る。だから、表面においては、常に理解不能なものとして現れる。
 だが逆に、理解不能だからこそ、三人の世界のサイレント・コミュニケーションは豊かに育つ。ドラルクは、パントマイムに失敗し、下手な絵でクイズをしたりしていた。決して、サイレントだからといって器用に行われているわけではない。むしろ、不器用に、失敗しながら、遠回りをしながら、歪なコミュニケーションを成立へと向かわせている。

 ロナルドが、ドラルクが作ったサルの進化の折り紙を見てつぶやくシーンがある。「どうして、いつも右足を前に出してんだろうな」
 深遠な問いだと思う。サイレント・コミュニケーションは人を、常に哲学の深淵へと誘う。深遠を問わざるを得ないという場こそ、コミュニケーション成立の最高条件に思う。コミュニケーションでは、人は厄介で、面倒なことを考える羽目になる。

 しかも、コミュニケーションの成立が常にハッピーエンドを迎えるとは限らない。結果、ロナルドは亜空間を通じて現れた編集者フクマさんに、サボっているところを見つかる。彼に待つのは地獄だ。ドラルクは無事、トマトの肥やしになった。ジョンは、愛する吸血鬼が死ぬところをまざまざと見ることになった。
 しかし、だからこそ彼らはまた、ぼくらメタ存在に、笑いを提供することになる。死をも辞さない、全力のコミュニケーションが、『吸血鬼すぐ死ぬ』の文学性を最大までに引き上げるのだ。

 最後に、じゃあ彼らは特に「サイレント・ジャマー」において、コミュニケーションを楽しんでいるのだろうかと問うてみる。
 ドラルク、ジョンはイエスだろう。二百年だの、百八十年だのを過ごしてきた精神年齢の高さは伊達じゃない。彼らはこうしたコミュニケーションを楽しんでいる。何度殺されても、本気のコミュニケーションに彼らは常に肉薄する努力を辞さない。退屈なことがむしろ耐えられない。

 一方で、ロナルドはといえば、まずはノーと言わねばならないだろう。
 ロナルドは、こうした関わりを単純に楽しんでいるわけでは決してない。だって、失敗したらアイアンメイデンに放り込まれるんだから。なにより、収入にも関わってくる。なのに、邪魔してくるんだから。マジでイライラしていることは確かだと思う。

 でも、だからこそサイレント・コミュニケーションが成り立つのだ。
 ロナルドは、本気でコミュニケーションの通路を閉ざそうとしている。つまり、表面的に沈黙を貫こうとする。中途半端に喋りでもしたら、むしろドラルクには興醒めだったんじゃないか。〈いじりがいがある〉とは、つまり、ロナルドが真剣に「怒る」こと、そのものにあるんじゃないか。

 しかしそこには確かに、コミュニケーションの回路が開く瞬間がある。ロナルドは、ドラルクとジョンの煽りに、確実に誘惑されている。
 彼は誘惑される瞬間において、必ず「ツッコミ」を入れざるを得ない。関わりたくないという契機において、関わらざるを得ないということ。彼の、アンビヴァレンスな感情が、吸血鬼ハンターでありかつ吸血鬼同居人という彼の両義性をよく示している。
 彼は怒る。怒るがゆえに、関係性を構築する。だから、彼はジャマーを楽しんでいるわけでは決してないが、しかし〈結果として〉楽しんでいたのではないかと言わねばならないような事態を引き起こすのだ。

 彼において「楽しい」は常に遅れて現れる(そこにおいても倒錯が見られるかもしれない)。なんといっても、彼らの関係性は絶対的に予測不可能なのだから。

 無論、こうした関係性は普遍的ではない。喧嘩すればいいってものでは決してないし、煽り合いは時として関係性の終焉を迎える。「いじりがいがある」は一歩間違えれば、いじめの論理と混同する危険性すらある。
 だから、全員が全員、こうしたコミュニケーションが成り立つわけでは決してない。むしろ、やめた方がいいと思う。

 だけど、だからこそ、にっぴきの関係性は特別なのだと思う。
 彼らにしかない関係性がそこにはある。誰か1人が欠けてもだめだ。ロナルド、ドラルク、ジョンが揃って初めて成り立つコミュニケーション、それが〈サイレント・コミュニケーション〉だ。
 だからこそ、この作品はおもしろい。次に何が起こるのか、ぼくらは緊張しながら見守る。彼らにしか(彼らにすらも)予測できない他者性が、僕らを翻弄する。(さらに言えば、吸血鬼対策課の存在も、ハンターギルドも、その他準レギュラー吸血鬼の存在も欠かせないだろう)

 無論、全てが偶然性によって支配されているわけではないことは強調したい。あくまで、予測不可能性は盆ノ木先生によって演出されているに過ぎない。
 マジ神。やばい。最高です。もし作品が単なる無秩序であったならば、きっとここまでおもしろいものにはならなかったはずだ。

 色々書いたけど、マジでおもしろいから読んでね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?