短編小説:遅れてしまったバレンタインデー

 放課後のチャイムが鳴って、冴子は第三理科室――通称テキサスに向かっていた。恋愛相談部も活動が四回目――週一でやっていたから発足からすでに一か月が経ったことになる。相談部の活動は意外と好評で、傍に立って聞いているだけの冴子も、廊下を歩けば「今度私の恋バナも聞いてよ!」と知らない人から声を掛けられるようになった。黴臭くって、息を止めながら歩いていた第三校舎もいつしか慣れて、むしろ心地よい。
「おーい、沙彩。来たわ――ってあれ、もう相談者来てるの?」
「ああ」と沙彩は尊大に答えた。既に売れない小説家モードだ。「むしろ君が遅かったんじゃないか、冴子」
「お邪魔してます……」
 相談者はか細い声で答えた。神経質そうな子だと冴子は思った。冴子が歩いている間も、彼女はずっと冴子を凝視していた。――しかし、冴子が定位置に着くと、突然、事態は豹変した。彼女が、顔に手を当てるやいなや叫びだしたのだ。
「アアアアアア!」
「え!? どうしたのよ、この子?」冴子は目を丸くして沙彩に聞いた。
「そうなのだ。ここ十分くらい、ずっとこの調子でな……」
 やれやれと言った様子で、沙彩が説明した。今回の相談者はすごい。悲壮感がいつにも増して、尖っている。
「アアアアアア、チョコがア! チョコがあ!」
「チョコがどうしたんだいったい……」しかし、沙彩の声は届かない。チョコ――という言葉に、冴子は何か引っかかった。今日は2月18日。少し前に、バレンタインデーがあったはずだ。
「もしかしてこの子、チョコ渡し忘れたのかしら?」冴子は沙彩に言った。
「チョコを渡す――? 今渡せばいいじゃん」
「今じゃ遅いでしょ」
「オソイ!? アアアアアアアア、チョコがあああアアアアアア」
「何が遅いんだ。チョコ、渡せばいいではないか」と、沙彩。
「アア――やっぱり、そうですよね……チョコはあるんですよ、ここに……」
 なんなんだ! ――冴子は言いかけたが、グッと言葉を飲み込んだ。え、バレンタインじゃないの? チョコって年がら年中渡してもいいもの? いや――、よく考えればそうか。特別な日じゃなきゃ、プレゼントは渡しちゃいけないなんてこともないもんね。うん、チョコ、渡せばいいよ。持ってんんなら。――こんな感じで冴子は洗脳された。
「で、いつ渡す?」沙彩は言った。「相手は誰だ?」
「え!? そ、その――隣のクラスの――」
「隣って、あんたのクラス知らないわよ……」
「冴子さん……ですよね?」相談者の女は冴子の方を向いていった。あまりに怯えた様子に、冴子は身構えた。
「な、なによ……」
「友達から聞いてるんです。冴子さんは逆上すると、男の鼻にポッキーを突っ込む女だから気をつけろって――」
「はあ!?」冴子は足を机に乗せ、身を乗り出して威嚇した。
「まあまあ、落ち着きたまえ、冴子くん」相変わらず、横柄な小説家モードの沙彩は、タバコを吸う真似をしながら言った。そして、相談者に向き直り「冴子は確かに危ない奴だが、誰よりも計算高い女だ。今回の計画に欠かせないんだ。許してやってくれるか?」
「はい、許します。神に誓って」
「……」
「それで――だ。相手は誰なんだ?」
(そればっか気になりすぎだろ!)
「隣のクラスの飯尾くんです……」
「難しい話だ……」沙彩は言った。――何が?
「そうなんですよ、彼、神出鬼没なんですよね」
 彼女が語った「神出鬼没」のあらましはこうだ。ある日、とある生徒が飯尾を探すため、職員室に向かった。そこにいた先生の全員が彼を知らないと言ったが、一人だけ「もしかしたら、A先生なら知ってるんじゃないかな」と助言した。その生徒は今度はA先生を探すために学校中を歩き回ったが、A先生は見つからなかった。彼はがっくりと肩を落とし、諦めて帰ろうとしたとき、校門の前に飯尾が立っていたという。
「なるほど……確かに神出鬼没だな……」沙彩は顎に手を当てて考え込むポーズをとっていた。
「どこが? 助言した先生のせいじゃん?」
「それで、当日も私、飯尾くんを頑張って探したんです。そしたら、飯尾くん、私を見るなりニコッと笑って、私が気を失っている間にどこかに行っちゃうんです。こんなに、こんなにチョコを、渡したいっていうのに、大事な時に消えちゃうんですよ!」
「お前が悪――」
「じゃあそれは、私たちの出番だな!」
 沙彩は立ち上がって言った。出番――? 冴子は首をかしげた。いったいなにを――
「私たちが、飯尾を見つけ出し、消えないように捕まえておく。その間に君! ――名前なんだっけ」
「立花です」
「立花! 君はチョコを渡すんだ!」
「分かりました!」
 そういうと、沙彩と立花はハイタッチをかまし、テキサスから飛び出していった。一人残された冴子はハァ――と大きなため息を漏らした。
「座ろ……」
 彼女は片隅にあった椅子を引っ張り出し、腰を掛けた。教室は静寂に包まれていた。今、第三校舎を使っている部活はない。外から、走り込み演習にあえぐテニス部の声が遠くにかすかに聞こえたが、ちよちよと鳴く小鳥の声の方が軽やかに響いていた。
 たまにはこんな日もいいな――まさに、そう思い始めた瞬間だった。冴子のスマートフォンが鳴った。どうせ沙彩だろう。彼女はいったん無視した。しかし、待てどもスマートフォンは鳴りやまなかった。彼女は画面も見ず、サイレントモードにした。
 そのとき、勢いよく扉が開いた。
「たのもーっ!」
 男の声に、冴子は扉の方を向いたが、窓から差し込んでいた西日が逆光となって視認できなかった。
「誰?」
「飯尾です」男は名乗ると、冴子の方へ向かって歩き出した。なるほど、難しい話だと冴子は思った。彼は唇を常にアヒルのように半開きにして、上目遣いに冴子の方を見ていた。
「それ、やめた方がいいよ」
「何がですか? あなたこそ、男の鼻にポッキーを突っ込むのは……」
「いた!」扉から、沙彩と立花さんが入ってきた。「いい加減、立花のチョコを受け取りやがれ!」沙彩は叫んだ。
「チョコ? チョコのことだったの? てっきりサツガイのことかと――」飯尾はきょどっている。
「バレンタインよ……」立花は泣きそうだった。「飯尾くんに、バレンタインのチョコを受け取ってほしいと思っていたの……」
「ええ……」飯尾は困惑していたが、少し照れた様子だった。「まさか――僕にチョコが……ありがとう……」
「義理だけど……」
 そう言って、立花はチョコを渡し終えるとテキサスを出て行った。チョコを持ったまま立ち尽くしていた飯尾は、助けを求めるかのように沙彩を見た。沙彩は、人差し指でこめかみを抑え、首をかしげていた。
 遠くでまた、テニス部のあえぎ声が聞こえた。
「ねえ冴子――」沙彩はぽつんと呟いた。「バレンタイン、過ぎちゃってたんだね……」

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