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長編小説:屋根裏部屋のロマンティック④

 ハマは自分のふがいなさに怒りを覚えていた。学食で一人、彼女は頭を掻いていた。
 試験が午前中に終了したこともあって、食堂の中はにぎわっていた。全体的に新しい校舎の目立つこのイズ魔法学校の敷地内では珍しく、すこし古めかしい建物だ。壁はコンクリートが打ちっぱなしで灰色一色。床も、タイルがところどころひび割れている。しかし、食券機だけは最新のものがそろっていて、生徒はタッチパネルに表示された解像度の高いメニューの中から、自分の食べたいものを選択することができた。そのため、メニュー選びに時間がかかり、食券機の前にはいつも長蛇の列ができる。今日も、ひと際長い列が食券機の前に並んでいた。
 ハマはサユリにすぐ見つけてもらえるように入り口に一番近い、四人掛けのテーブル席に一人腰掛けていた。彼女は悲嘆に暮れていた。ハマの誤算は二つあった。一つは、サユリはまだ学食の場所を知らないだろうということを考えなかったこと。そしてもう一つは――この方が遥かに重大な過失だが――サユリがまだ、スマートフォンを持っていないことを忘れていたことだ。ハマはため息をついた。迎えに行こうにも、連絡のしようがない。また、当てずっぽうで探そうにも、サユリは初日の登校で、行きそうな場所にも心当たりがなかった。ハマはだから、ここで待つよりほかにしようがなかったのだった。加えて、ハマは自己中心的なサユリの性格を十二分に承知していた。サユリは、ハマの言うことを平気でシカトして、何度も約束をぶっちしてきた。だからハマがここで待つ――という義務は、他の何よりも不安を煽る性質を帯びていた。来るか来ないかも分からない人間を待つことほど、つらいことはない。ハマは再びため息をついた。
「あれ、ハマちゃんじゃん!」
 後ろから声をかけられた。振り向くと、3メートルくらい離れたところで女の子が手を振っていた。大きな紫色のシュシュを使って金髪を一つ結びに緩くまとめているオシャレな女の子――セレナだった。セレナは、Dクラスの子で、C棟に所属しているハマと隣の校舎の女の子だった。元々ハマは、社交的で人望も厚く、あらゆる棟で友達を作っている女の子だったが、このセレナという女の子は特にハマのことを気に入っていて、学内で目を合わせれば必ず世間話をした。同じく世間話が好きなハマも、自然とセレナに好意を持つようになった。セレナはとにかく〈楽天的な女の子〉、というのがハマの評価だった。セレナはいつも歩くとき、楽しそうにスキップをするような女の子だった。
 ハマは慌てて、手を振り返した。すると、セレナは例のスキップをして、こちらに近づいてきた。
「ハマちゃん珍しいね! 一人だなんて」
 セレナの無邪気な笑顔に、ハマは少し罪悪感を覚えた。楽しそうにしている人間に、今自分が立たされている現状を打ち明ければきっと、迷惑になると思ったからだった。ハマは、「たまには一人もいいと思って!」と言って、お茶を濁すことに決めた。しかしセレナは、
「ハマちゃん、困ってることがあるんでしょ」と真剣な顔で核心をついてきた。セレナがただの楽天的な女の子だと思って高をくくっていたハマは、度肝を抜かれた思いがした。ハマは正直な子である。図星をつかれて、彼女はわなわなと肩を震わせた。
「だって、後ろから見ていたら、全然楽しそうじゃなかったよ!」セレナは言った。そうか、楽天的な人間だからこそ、人の悲観的なそぶりに敏感なのか、とハマは一人、ベンキョーをした。
「バレちゃったか、へへ。実はここで、大親友を待っているんだけど……」
 ハマが正直に打ち明けると、セレナはより一層楽しそうにして、椅子をダイナミックに片手で持ち上げて引き、ジャンプで座り込んだ。座ったときの反動で、椅子が幾度か振り子のように傾いた。
「もしかして、前に言ってた〈シード女〉のサユリって子でしょ!」セレナは大きな身振りでハマを指さした。
「えっ、〈シード女〉って?」聞き慣れない単語に、ハマは首を傾げた。
「ほら、前にハマちゃんが、授業が全部免除になってる女の子がいるって言ってたじゃん? それ、みんなに言ったら、学校中で噂になっちゃって。その子、〈シード女〉って名前で有名なんだよ」
「なんてこった!」ハマは両手で顔を隠した。「え、本人に言ってないよね?」
「あ、やっぱり今日、来てるんだ、シード女! テストはさすがにパスできないもんね」
「シード女なんてあだ名つけた元凶が私だってバレたら殺されちゃうよ!」
「うううん」セレナは首を大きく振った。「シード女って言いだしたの、私じゃないしなあ」
 そう言ってセレナは、カバンから櫛をとりだし、しきりに前髪を梳かし始めた。梳かされすぎて毛量が減り、すだれのようになってしまっている前髪を、ハマは思わず見つめた。ふと、セレナは一体何歳なのだろうと思った。外見は大人っぽいが、仕草はあまりに子供っぽい。きっと、私と同じで、細かいことにあんまり気が回らない性格なのかもしれない。――セレナにサユリのことを話すのはもうやめようとハマは固く誓った。
「あ、そうだ!」セレナは一つ、大きく手拍子をして言った。「私も一緒に待ってていい? 私もサユリちゃんに会いたい!」
「いいけど……でも、来るかどうか分かんないよ?」
「じゃあ、余計に私がいるべきじゃない! 来なかったら来なかったで、ハマちゃんと二人でお話しできるじゃん!」
 そう言って、セレナはにこりと笑った。ハマは、
「セレナちゃん……」
 と、セレナの手を両手で握った。救世主が現れたと思った。これで、仮にサユリちゃんがキレても勝てる。多分、私とセレナちゃんで説得すればなんとかなるはず! だってセレナちゃん、こんなにいい子なんだもん。

***

 一方同じころ、サユリは案内板の前で絶望していた。
 案内板の前まで自力で着けたところまではよかった。サユリは帰り支度が終わったあと、A棟を、クラスメートから逃げるようにして出た。それからあたりを見回し、一番高い建物を探し出して、構内を上から見渡した。サユリは、ハマがいる場所は人通りの多いところに違いないと思って、人間が一番集まっているところを目指して歩いた。結局、人が集まっていたのは来校していた有名人の周りにできた人だかりだっただけで、そこにハマの姿を見つけることはできなかったが、そのそばに大きく、スチューデント・プラザと書かれた桃色の建物が建っていた。サユリは、藁をもすがる思いでその中に入り、受付の横に学内の地図が貼られた案内板を見つけたというわけだ。
 しかし、事はそれで解決ということにはならなかった。
 サユリにとっては信じられないことだったが、イズ魔法学園には「学食」と呼ばれるべき場所が、十数か所もあったのだ。
 利用者の比較的大きい食堂に絞っても、五か所はあった。なんといっても、イズ魔法学園はあまりに広い。サユリは知らないことだが、イズ魔法学校は地域密着型を謳っており、一般人にも一部の構内が解放されている。そのため、都市部のように市に遠慮して学校を囲う必要がなく、むしろ柵を取り払って、市と学校の境界をなくすため、敷地面積を広く作ろうということになっていたのだった。その広さはなんと、一般的な野球スタジアムの約50倍。これは国内のテーマパークをも遥かに凌ぐ大きさだった。多分、ヘリポートがいくつも存在する学校は、このイズ魔法学校だけだろう。
 それだから、必然的に必要な食堂も増える。サユリは、地図上に書かれた「食堂」の文字を、恨めし気につつきまわった。
 サユリは、疲労で傷んだ足首を軽く揉んだ。結局、サユリはA棟を出てから十五分ほど早歩きをしたことになる。屋根裏部屋暮らしのサユリの体力はすでに限界を迎えており、これ以上あてずっぽうでハマの居場所を探すわけにはいかなかった。今日は帰るか。ハマには悪いけれど。でも、あの子が悪いんだしね。サユリは自分にそう言い聞かせて、スチューデント・プラザを後にした。そのとき、
「あれ、サユリさん?」
 遠くから声をかけられた。その方を向くと、そこに立っているのはサユリの知らない顔だった。「だ、誰?」とサユリが聞くと、「ミーハだよ、同じクラスの」と返事が返ってきた。
 サユリはミーハと名乗った人物に近づき、顔をまじまじと見た。二重瞼に、潤った唇、肩まで伸びた長めのキャラメルブラウンの顔に、細身の体躯。制服はスーツタイプのものを着ていて、夏になろうというのにその上から薄水色の線の細いコートを羽織っていた。
 見た目はどう見ても女の子だった。しかし、そのイメージをかき消すほどに、声は野太い。明らかに、声変わりをした男性の声だった。
「な、なんですか」ミーハは反射的に半歩下がった。帰りのホームルームでどもっていた彼女のことを、ミーハは人見知りだと思っていた。その彼女に突然息遣いがわかるほどに近づかれ、ミーハは少し面食らった。
「え、えと……」
 サユリは、ミーハの性別を確かめたがった。しかし、聞き方が分からなかったのだ。性別は何ですかとは聞けない。ましてや心のままに、本当に男ですかと聞くことなんて絶対に無理だ。でも、スルー出来る案件じゃない……彼女は幾度も逡巡を繰り返し、そのまま固まってしまった。ミーハは、やはりサユリさんは人見知りなのだと判断した。
 ミーハは気まずく感じて、話題をひねり出した。
「そういえばサユリさん。ハマさんに、学食に誘われていたのでは?」
「ハッ、そ、そうなの! でも!」
 学食の場所が分からないの――とサユリは心の中で呟いた。――また、声に出なかった。今度は彼女のプライドが邪魔をしていた。図書館の本を読みつくし、〈意味〉のある文章が嫌いだと普段から豪語する自分が、まさか学食の場所もわからないなんて。どう考えても、恥ずかしすぎる。
「いや、なんでもない」
「もしかして、場所がわからないんですか?」ミーハは言った。鋭い、とサユリは思った。ハマにはない能力だ。初めて味わった新鮮な気分に、サユリは感動した。
「そう、私は、場所がわからない」自分の制作した難問をいともたやすく解かれて快感にうち震える教師のように、サユリは答え合わせをした。
「魔法は使わないんですか?」
「え!?」
 サユリは驚いた。今度は、質問の意味が分からない。魔法を使わないのかだって? いったいどういうことだろう。決して頭の悪くなさそうな――少なくともハマよりは察しのよさそうなミーハが、なぜそんなことを聞くのか。もしや、あれだろうか。意図の読めない質問をわざと行って、相手を混乱した地平に誘うという。いかにも、現代の哲学者が使いそうなやり口を、彼が使ってきたとでもいうのか。
 サユリはより一層慎重になって、これまでの文脈を整理した。久々に、難解な哲学書を紐解くような思考を研ぎ澄ませた。あまりに、色濃い〈意味〉の連鎖に、サユリは頭がくらくらしてきた。しかし、彼女は自らの透徹とした論理を確実に展開していった。〈概念の魔術師〉とは、彼女がかつて厨二病を患っていたときの自称である。
「あなたの『魔法』という言葉の定義をはじめに教えてもらっていいかしら。でないと、私はあなたのパースペクティブの想定を放棄しなければならないわ」
「え?」ミーハは目を丸くした。突然流暢に、しかもまるで口頭諮問をする教授のような喋り方をし始めた彼女に、ある種の気持ち悪さを抱いたのだった。「もう少し、簡単に喋ってくれませんか」
「簡単にだって!?」
 簡単にということは、とサユリは考え始めた。それってつまり彼が、言葉の正確さよりも、曖昧なニュアンスで会話のグルーブ感を得ることを選ぶってことだわ。じゃあ彼が大事にしているのは緻密な論理よりも、対話の楽しさ。つまり彼は理論知ではなく実践知、を重要視している哲学者ってことになる。
 実践知! それは、サユリにとっては今日、トラウマになりかねない言葉だった。人心掌握術を知っていても自己紹介も満足にできない自分。そんな自分が、目の前のこの〈グルービー〉に勝てるだろうか。いや、勝てない。
 彼女は素直に負けを認めて、謝ることにした。
「……ごめんなさい」
「は?」
 ミーハは困惑した。それから彼の心に沸々と怒りの感情が沸き起こった。バカにされたと思ったのだ。これ以上会話のレベルを下げることはできません。サユリの謝罪を、彼はそう受け取ったのだった。
「あ、あなたって、え、偉いわ、尊敬する」
 サユリはにこりと笑った。
「私は、い、今まで、よく考えもせずに喋るということができなかったから」
 サユリは心からそう言った。
「でも、ああ、あ、あなたのおかげで分かったの。た、たまには頭だけじゃなくて、か、身体を使うってのも――」
「なんなんですか!」
 ミーハはサユリの言葉を遮って叫んだ。ブチギレたのだ。「なんなんですか、もう!」
「なんなん……?」
「さっきからいったい、何がしたいんですか!?」
「え――」
 サユリは考えた。自分がいま、いったいなのがしたいのか。しかし、彼女は思考を無理やり止めた。さっき、ミーハから受け取った教訓を、彼女は思い出したのだ。
 彼女は、ストリートダンスの教科書の内容を思い出しながら、ブレイクダンスを披露した。彼女はチェア(体全体を片腕と頭で支え、足を固めて魅せる技)を決めようとしたが、バランスを失って床に仰向けに寝そべった。しかし、彼女はこのグルーブ感を止めまいと、必死に今したいことを喋った。
「ハマのいる学食の場所を教えてほしいの」
「何!?!?」ミーハは混乱した。
「私は、ハマのところに行きたい」
「どういうことなんですか――」
「ダメ?」仰向けのまま、サユリはミーハの顔を見た。「こ、これでもた、足りないっていうの」
「分かりました、教えます」ミーハはサユリから目を反らした。「教えますから、早く起き上がってください」
「いいの? も、もう一回チェアやらなくても、い、いい?」
「いいですよ! っていうかさっきの、チェアだったんですね!?」
 サユリは起き上がると、砂で汚れた制服をサッと払った。同時に、ハマから制服を借りていたことを思い出し、入念に砂粒を払い落とした。
 ミーハの怒りは収まっていた。良くわからないが、彼女に自分をバカにしている様子はないと直感で思ったからだった。突然チェアを決めようとする人に、悪い人はいない。
「多分、ハマさんがいる学食はここですよ。ハマさんみたいに、人付き合いの好きな人は、みんなここに行くんです。大きくて、メニューの種類が多いですからね」
 ミーハはスマートフォンを取り出して、表示した地図を指さした。そこは、C棟から伸びる遊歩道を北に向かって歩いた先にあった。器用に食堂までの道のりを表示するミーハを見て、サユリは初めて、スマートフォンが羨ましいと感じた。
「あれ? そういえばサユリさん。ハマさんに連絡を取ればいいんじゃないんですか?」
「も、持ってないの、スマートフォン」
「えっ、マジですか!」
 ミーハは驚いた様子で言った。
「じゃあ」彼は少し考えてから言った。「一緒に行きますか? 案内しますよ」
「いいの?」サユリは、この女の子っぽい男の子に一種の僥倖を感じて、目を輝かせた。
「いいですよ。――お願いですから、もう急にチェアはやらないでくださいね」
 そう言って、ミーハはくるりと背を向けて歩き始めた。サユリは、女の子のように狭いその背中に、後ろからついていった。

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