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日本は特に世界を意識するべき

グローバル
世界基準
国際的な視野

など、世界と向き合うと、このような言葉が行き交います。

また、世界に挑戦する人材は、日本では生きづらいと言われていますし、そう思います。

テニスを通じての人材育成に取り組んでいますが、それでも「世界」と向き合うというのは、呼吸と同じくらい重要であり、次世代の子供達にはそれくらい当たり前のことだというの伝えています。

どちらが上で、どちらが下か、という日本人は無意識に優劣をつける傾向性がありますがそういうつもりで世界の重要性を説いているわけではありません。

当然、世界は広いので知らないことだらけです。知らないことは劣っているわけではなく、私がいつも伝えているのは、

「違い」があるというのを知ること。

世界を知るというのは、違いを知る、異なることを理解することです。
そこから自分自身のポジションを理解して、考え方の幅が広がるが故に、世界と向き合うことが大切なんだと伝えています。

こうして、性別、年齢、テニスのレベル関係なく、次世代の子供達には世界の話をします。

あと、グローバル人材というのは、世界と対等に何かカッコいいことをしている響きになりますが、そこにはちょっと違和感を覚えます。

まず、世界を意識すれば意識するほど、私たちはより一層、日本人を意識する必要があります。

日本人の強みとは何か?
日本人とは世界的にどういう評価で生きているのか?

国内を舞台に生きていると、関西人は、、関東の人はとか、、そういう日本国内の気質の違いは話すことはあっても、日本人とは。。。と考えることはないでしょう。

世界を基準にするということは、日本について客観視できるようになります。

日本の良さとは世界に出なければわからないというのが本音なのですが、同時に日本大丈夫?と思えるのも世界に出なければわかりません。

つまり、物事の本質とはなにか?と向き合うことができます。

人材育成でもそう感じています。

国内のジュニアテニスでは、まずは都道府県大会、そのあとに地域、そのあとに全国、そのあとに世界。そんなキャリアパスウェイが描かれています。

あと、高校に進学すると国際大会に挑む機会が一気に減ってしまう。
じゃあ夏休みに海外の大会に挑めますか?ともなってくれればいいのですが、

自己が形成される大事な時期に、理系?文系?とか勝手にカテゴライズされることだってある。どっちかじゃないとダメなの?と言いたくなります 笑

もちろん段階的に成長するという意味では堅実だと言えます。
ただ、その選手は強くならなければ世界に挑戦できないのでしょうか。
試合に勝利するチャンスを掴まなければ世界に進むことはできないのでしょうか。

そう考えると日本では勝敗にすごく左右されながら、
テニスの人生を歩む必要があるのだなと感じてしまいます。
プレッシャーでしかありません。

問題解決やブレイクスルーする瞬間というのは、常識や日常からかけ離れたときに起きることが多いと思っています。

日本は島国なだけに、どうしても考え方が無意識に閉鎖的になりがちです。

想定内の環境、同じ仲間内の環境、普段の生活の中から新しい発想は滅多に生まれず、多くの人は行動的になることも難しいでしょう。挑戦的になることも相当な覚悟とモチベーション、そして情熱が求められます。

日々の習慣が快適な故に、自分で考える、個性を生み出すという発想がなかなか育たないのが現状です。日本では必要のないこと、と言えばそれまでですが。。。

人生を豊かにする道具がテニスであれば、テニスはグローバルスポーツ。
世界中どこでも挑戦できる、試すことが可能な世界です。

レベルだけに捉われず、目先の勝敗だけでなく、挑戦する環境を広げることで貴重な経験が手に入るのは間違いありません。

もちろん、世界に挑むというのは経験を通じて痛みは伴うのは間違いありません。
卓越した才能(身体的な面)のある選手、競争心に満ち溢れた選手、アンフェアーな選手。

色々な選手(人材)と対峙します。

だからこそ、そのような環境で日本人としてどういう力を発揮できるのか?
そういう環境に身を置き続けることが成長なのだとも考えています。

様々な常識がひっくり返される。
そういう経験が豊かさだと定義しています。

Youtubeや切り取りの動画、SNSを通じての記事などで感じる疑似体験では、びっくりするだけで実際の経験とはなりません。

世界に出るから感じること。

考え方の物差しが短いからこそ豊かなこともあり、考え方の物差しが長いからこそ豊かなこともあります。逆も然り、一長一短なのですが、私自身は世界と向き合うからこそ色々な部分で助けられていることが多いと感じる日々です。

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