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趣味ではなく、とても個人的な社会実験です。

2022年6月28日、南十字のTwitterアカウントを作成して初めての投稿がこちら。夏にはお店を始めたいと思っていたのですが、いろいろ準備が間に合わず結局OPENできたのは10月1日。

ということで、約1年越しの夢「かき氷の旗をぶら下げてみたい」をついに達成することができました。「かき氷を売りたい!」というよりは、夏が来たから「かき氷の旗をぶら下げてみたい!」という感じで、一種のロマン的なものです。

もちろん売れたら嬉しいのですが、暑すぎてお店の前を人があまり歩いていない日々が続いていますね(υ´Д`)アツー

もう少しで季節が一周します

2022年10月1日の開店からメンバー間でずっと「1年間お店をやってみないとよく分からないよね」と言い続けて約10カ月。秋→冬→春→夏とだいたい季節を一周しました。

秋:お店OPEN!ご祝儀的なお客様がきてくれる。ありがたや~!
冬:寒い。人が歩いてない。ひま!
春:おっ、なんか人通りが。お花見とかもあってちょっといい感じ?
夏:熱い。人が歩いてない。ひま!

という感じで、全体的には「ひまだなぁ」という1年間であることが見えてきました。このママの感じで突然お客さんが増えていくことは無いので、なんとかしないとなと思いつつ、何も思い浮かばないのでかき氷の旗をぶら下げてみたりしています。

持続可能な本屋づくり。
簡単なことではないですが、少しずつ工夫してなんとかしたいですね。

じゃあ、趣味なんですね

店番をしていると「こんなご時世に本屋なんて…」と疑問に感じるお客様から「素敵なお店ですね。でも大変でしょう…?」という質問をよく頂きます。

そんな会話の流れで「3人でお店をやっていて、それぞれ別の仕事をしているので~」とご説明すると「あぁ、なるほど。じゃあ本屋さんは趣味なんですね。」と言われることがよくあります。その時は「そんな感じですかね~」とお答えするのですが、自分で答えながら少しもやっとした気持ちが残ります。

趣味か?
と言われると、趣味ってわけでもないんだよな。

という何ともうまく説明ができない気持ち。

まず「仕事なのか?」と言われると、全然儲かっていないし、生活費を別の仕事で稼いでいるので、仕事とは言えません。

じゃあ「副業?」と聞かれると、これも「儲かってない副業なんてあるのか?」という感じがして、違う気がする。

ボランティアではないしな…。

そんな流れで「趣味なんですね?」になるのですが、これもなんかしっくりこないわけです。

完全に自分の心の中での納得感の話なのでこのnoteをたまたま読んでいる方にとってはすごくどうでもいい事だと思うのですが、この「仕事じゃない。副業でもない。趣味でもない。ボランティアでもない。自分の好きから始まっていて、やっていて自分が楽しいことが一番大事なんだけど、その先に、少しでも誰かの役に立てたら嬉しいなという想いもあって社会に対して開いている個人的(小さな)な取組み。」って、けっこうこれからの社会において重要なことなんじゃないか?と思ったりもしているから、こんな文章をつらつら書いてみたりもしています。

シリアスレジャー

先日「習うは一生」というテーマで読書会をした際に、参加者の方が
「趣味に生きる」の文化論―シリアスレジャーから考える
という本を紹介してくれました。

なんとなく「趣味」という言葉を使った時に受け手が感じていそうな「あぁ、趣味ですね(余裕があっていいですね)」とか「あぁ、趣味ですね(真剣にやっている訳ではないわけですね)」という、少しだけ「趣味」を本当に重要なことではない余興的なものとして捉える感覚がある気がするのですが、その紹介者の方は「趣味だけど、自分はかなり真剣にやっているんだよなぁ」という想いがずっとあったようで、そういう想いからこの本に辿り着いたそうです。

シリアスレジャーとは?
もともと、カナダの余暇研究者ロバート・ステビンスが1982年の論文“Serious Leisure: A Conceptual Statement”において提唱した。アマチュアや趣味人(ホビイスト)、ボランティアといった人々の活動を表すための概念である。これらの活動は余暇に行われるが、労働のためのエネルギーを回復・再創造(re-creation = レクリエーション)するための休息や気晴らしではない。むしろ、自分のやりたいことを実現するために行われる活動である。そのような特徴を、ステビンスは「シリアス」(真剣な)という形容詞で表現し、休息や気晴らしとして行われる「カジュアル」な余暇活動と対比させた。

https://slowinternet.jp/article/20210823/

なんとなく分かる感じしますね。「趣味なんです」の一言では表しきれない熱量を持った、自分の人生の中での大切な取組み。シリアスレジャー。

とても良い言葉&概念だなと思いつつ、自分にとっての本屋は「レジャーなのか?」という疑問がまだ残ってしまうところではあります。

自分にとっての本屋は先ほども書いた通り

「仕事じゃない。副業でもない。趣味でもない。ボランティアでもない。自分の好きから始まっていて、やっていて自分が楽しいことが一番大事なんだけど、その先に、少しでも誰かの役に立てたら嬉しいなという想いもあって社会に対して開いている個人的(小さな)な取組み。」

なんですが、趣味とかレジャーという言葉にはあまり「社会に対して開いている」の部分が含まれていない気がしていて、そのあたりがまだしっくりきていない原因でしょうか。

気になっている「共有」という概念

先日、平川克美さんの「共有地をつくる」という本を読んでから「共有」という概念が気になって別の本も読んでみたり、少し調べたりしています。平川さんは本の中で資本主義の発展と「私有」という価値観の浸透を関連づけて論じていますが、私の理解として「私有という価値観の浸透」をとてもざっくり説明すると

「全てのモノゴトがきっぱりと"これは○○さんのもの(私有物)"と整理されていて、人々が私のもの(私有物)をもっと増やしたい…!という欲求に駆動させられて生きている状態。」

という感じでしょうか。

少し話は逸れますが、この私有という概念の話を読んで「結婚という選択を選ばない人、子供を持たない人が増えている理由の一つかもな」と思ったりもしました。

昔は「地域」の単位で共有されていたものが「家族」だけで私有されるようになり、その「家族」の構成員もどんどん少なくなっていく(核家族化)。そしてそれが更に進んで、モノだけでなく時間も含めて全てを「私」が私有したい、自分のために使わないと勿体ないという感覚が生まれ、家族や子供のために自分の人生の時間を共有することに価値を見出さない人が増えているのかもなと。

話を戻します。

「共有地をつくる」という言葉はかなりしっくりきていて、本屋という「老若男女誰でも自由に入ってよく、かつ何も買わなくても良い、見るだけでも楽しい場所」という共有地を作って、読書会やイベントなども行いながらいろいろな方に楽しんで&可愛がって貰えるような場所をつくっていきたい、という気持ちがあります。

「共有」したいのは「地」だけではない

個人的な感覚としては、そんなに「私有」を拡大していくことには興味が無く、もっといろんなモノゴトをいろんな人たちが少しずつ「共有」できると楽しいのでは?と考えています。

例えば、選書を主に担当している成川で言えば、忙しく会社員をしながら夜に店番をしたり、選書したりしてくれていますが、これは成川が長年培ってきた「文化的な知識」「読書体験」「いろいろな本屋での体験」などを南十字という空間の中で誰でも見て触れられるように共有している状態だと言えると思います。

鈴木も同じように「選書」を通じての共有もありますし、自身が運営する風鯨社という出版社での本づくりを通して、自身の持つ感覚、感性、スキル、経験、人脈などを「本」という形に昇華しながら共有しているのかなと。

私の場合は、他の仕事で稼いで本屋を継続させるという行為を通して、私自身の今までの経験やスキルなどから生み出してる少しの余剰を共有しているような形でしょうか。

そんな感じで、場所としての「共有」だけでなく、自分たちの好きなこと、得意なことなどをお金との交換を最優先の目的とせずに共有してみること。その先にもっと楽しいことがあったらいいな…!まわりまわってお金も儲かるといいな…!と少し期待しながら、本屋の運営を楽しんでいきたいです。

※現状、南十字が儲かっていないのは自分たちの努力不足、工夫不足が原因で、きちんと本屋を生業にしている方たちもいます。

結局、趣味なのか?

書いていて話があっちこっちに行ってしまい、何を書きたい文章なのかよく分からなくなっていますが、文章にすることで自分の考えが少し整理されてきまして

「趣味ではなく、とても個人的な社会実験です。」

が、現時点で一番しっくり来る答えな気がします。
ポイントは「個人的=好きで、勝手にやってる」のと、「社会=自分だけの満足に閉じた取り組みではない」ということでしょうか。

「あぁ、なるほど。じゃあ本屋さんは趣味なんですね。」
「いやぁ、趣味ではなく、とても個人的な社会実験です。」

という会話が会話として成り立っているのかとても怪しいですが(笑)、今度この話しになったらこうやって答えてみようと思います。

どうなるか全然分からない。でも面白そうだからとりあえずやってみる。
実験って、なんかわくわくする感じがあっていいですよね。

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