見出し画像

「強い意志を持って頑張る…!」では解決できない問題との向き合い方を考える

2023年度も今日で終わり。私が一人でやっている前途洋々という会社も2月末で2期目が終了し、なんとか赤字では無さそう…?という感じで一安心。皆さま、2023年度もお疲れ様でした…!

さて、表題の件。
今年度はWebディレクターという領域を飛び出して、UXプランナーというのか、コンサルタントというのか、上流工程における戦略作りみたいな仕事に取組む機会の増えた一年でした。

その中でも、ある地方大学のブランドコンサルティング業務の一環で「広報戦略を策定する」というプロジェクトがあり、そのプロジェクトを通して気づくことのできた私自身にとっての「発見」について書いてみたいと思います。

何か問題があってその解決策を考えた時に、
「論理的に正しい答え、解決策であることには自信を持っているんだけど、これは本当に機能するのか?」

みたいな疑問を持ったことがある方にとっては、何かヒントが見つかるかも?というお話です。

広報戦略策定のプロセス

まずは地方大学プロジェクトの概要、やっていることを簡単にご紹介するところから。(現在進行中のプロジェクトなので、あまり具体的なことは書きません)

このプロジェクトは
・経営層へのインタビュー
・教職員へのアンケート調査
・学生の就職先である企業、役所へのインタビュー
・学生とのワークショップ
などの調査を行いながら、大学が持つ「強み」や「らしさ」を整理しブランドコンセプトとして言語化した上で、そのコンセプトを軸に広報戦略を提案するという内容のもの。

こうした調査で集めてきた情報を整理、分析していくと「このあたりにボトルネックがありそうだな」というのが見えてきて、それを解決するための手段を考えていくと「広報戦略」ができてくるのですが、その過程で一つ興味深い発見がありました。

「調査内容を踏まえて論理的に考えると広報戦略、こんな感じになるよな…!(まぁまぁ自信あり)」

と思い、参考に他の大学が公開している広報戦略をいろいろと見てみたところ、自分たちが考えた事とほとんど同じようなことを、多くの大学が広報戦略として掲げていることに気が付いたのです。

「あれ、どの大学も同じような広報戦略立ててるやん…!」

ということですね。

ここで、一つ疑問が生まれます。

どの大学も同じような広報戦略を立てているってことは、どの大学も同じような問題を抱えているってことだよな?

てことは、これは「大学という組織において、構造的に生まれやすい問題なのでは?」

という疑問です。

大学という組織が持つ構造と、その構造から生まれる力学の方向性

上記のような疑問を持ったので、大学という組織についていろいろと勉強してみたところ、大学というのが一般的な企業と比べると「分権的な組織」であることが分かってきました。

「なぜ大学という組織が分権的なのか?」を細かく書き出すととても長くなってしまうので要点だけを少し書いてみます。

まず、企業は「利益を増やす」ことが最も重要な目的であり、会社員はその目的に対してコミットします。(ソーシャルベンチャーのような存在は一旦横に置いておきます)

一方、大学が例えば「受験者数を増やす」といった組織的な目的(目標)を掲げたとしても、教員(研究者)の究極的な目的は「真理の探究」だったり「普遍的な善の追求」であったりするわけで、「受験者数を増やす」といったある意味で矮小な目的に対するコミットメントは高くなりづらく、組織自体が分権的、分散的になりやすいという力学が存在しています。(国公立大学と私立大学ではいろいろと事情が異なりますが、一般論として。)

また、一般企業における「部長>課長」といった上下関係と、大学における「教授 - 准教授」の関係性は同じではありません。大学における「教授」「准教授」はそれぞれが独立した研究者であり、一般企業のように明確な上下関係がある訳では無いということも、大学という組織が分権的になりやすい理由の一つです。

このような理由で「分権的になりやすい大学という組織」は、学部単位での権限が強くなりがちで、学部を跨いで行う必要がある「全学的な広報活動」のような取組みが「そもそも苦手」な組織だということが分かってきました。

個人でも組織でも、みんなそれぞれ特有のベクトル、方向性を持っている

ここまでで一番重要なポイントは「特定の大学固有の問題だと思っていたものが、大学という組織構造から自然発生的に生まれやすい、多くの大学に共通する問題だった」という点です。

この場合、当然この問題に対して考える解決策は「特定の大学固有の問題だと思っていた時に考えていた解決策」よりも一歩踏み込んで、「どのようにこの組織構造自体に変化を促していくか?」を含んだ解決策を考える必要があります。

現在進行中のプロジェクトであるため、具体的な解決先についての言及は避けますが、ここで話したいのは「自然発生的に生まれやすい」という部分で、これを私は「個人や組織はそれぞれ特有のベクトルを持っており、それがゆえに、自然に任せておくと進んでいってしまう方向性があるから」と理解しています。

自然と左下の方に寄っていく大学という組織のベクトル

これは私がなんとなく頭の中にイメージしている「大学が持つベクトル」を図にしたものです。話の流れに沿って4象限を「明確な上下関係⇔フラットな関係性」「分権的⇔中央集権的」としていますが、こういったベクトルが複層的に存在し、重なり合って「大学らしさ」のようなものを形成しているイメージをしています。

そして、この「分権的でフラットな関係性」に寄ったベクトルを大学が持っているということは決して悪いことではなく、「真理の探究」や「普遍的な善の追求」を掲げる大学という組織が自然に、そして必然的に備えている重心であるとも言えます。

このベクトルというものが、ある意味で「自然発生的なもの」であるからこそ、自然と手薄になる部分、抜け落ちる部分が発生し、それが下図において楕円で囲っているあたりになります。

大学という組織が苦手な範囲

「中央集権的=組織として統制のとれた全体的な動き、活動」が苦手な部分にあたり、学部を跨いだ「全学的な広報活動」はここに該当するため、「大学は全学的な広報活動が苦手」という特性が生まれてくるわけです。

そしてこのベクトルの話は組織だけでなく「個人」にも適用可能です。例えば私の場合、下記の様なイメージです。

怠け者だけどかっこつけたがりやの剣持貴志のベクトル

私のベクトル、特徴は「怠け者」で「かっこつけたがり」というところ。こういう気質を持っているので、いろいろな人と関わってやる「仕事」においては「かっこつけたい」が自分自身を引っ張ってくれてけっこう頑張れるのですが、人を巻き込むことができない「受験勉強」みたいなものは相性が最悪で、完全にただの「怠け者」となってしまい、一切手をつけることができません。(なので私は大学に進学できませんでした)

大人になるにつれて自分自身のこういう特性をよく把握することができたので、「自分一人で頑張らないといけない場面はなるべく作らない」「人を巻き込んで、かっこつけたくなる場所に身を置く」という自分ハック戦略を用いて、自分自身のベクトルと上手く付き合いながら生きています。

ベクトルが向いていない方向性から生まれる課題の解消には、意思の力に頼らない「工夫」が必要

ここまで書いてきたように個人や組織には「放っておくと自然に寄っていってしまう方向性、ベクトル」のようなものが存在し、個人であればそれは「才能」と呼ばれたり、組織であれば「強み」と呼ばれたりします。

その方向性については、そんなに強く「頑張らなきゃ!」と思わずとも広がって(伸びて)いけるのですが、「満遍なく全ての方向性をカバーしている」という人や組織はおそらく存在しません。

どこかの方向性に伸びていけば必ずその反対側が疎かになるというような関係性があり、疎かになる方の課題を解決するには工夫が必要になります。

それは私自身の例で書いた「人を巻き込んで、かっこつけたくなる場面に身を置く」のようなもので、組織に対する問題解決においてもこのような視点を持っておくことはとても大事だなと感じています。

「やらなきゃいけないことは痛いほど分かっている」
「でも、なかなか手が付けられない…」
「自分は(組織は)意志が弱くてだめだ…」

というような悩みは誰もが一度は持ったことがあるものではないでしょうか?

もしまたどこかでこのような悩みにぶつかったら、人や組織が持つベクトルを一度整理した上で、その悩みがどこから生まれてきているのか?を考えてみることをおススメします。

その悩みが「疎かになりがちな」方向性から生まれてきている場合は、そういう状況をメタ視点で理解した上で、意思の力に頼らない工夫、仕組み、しかけを考えてみてください。

私たちはどれくらい自分の「意思」で何かを変えたり、動かしたりできるのか?

今回の記事で整理したかった大事なポイントは「組織や個人には自然と寄っていってしまうベクトル」があり、反対側のベクトルにあることをやろうと思うと、かなり工夫が必要になるという事です。

これをもう少し深堀りして考えると、個人のレベルですら「意思の力では取り組みづらい領域」がある状況で、それらが重なってできあがる組織レベルの話になると「いよいよ意思の力でどうにかできることって、とても少ないのでは?」ということが気になってきます。

個人と組織のベクトルの関係性について、以下の図のような形をイメージしています。

複層的にベクトルが重なりあって組織的なベクトルが生まれる

例えばA先生が「OPENな活動」「集団的な活動」に自然と意識が向いて行動しやすい特性を持っていたとしても、それが学部としてのベクトル、大学としてのベクトルに包みこまれていくと、組織としては「CLOSEDな活動」「個人的な活動」の方に寄っていき、なかなか「OPENで集団的な活動」には取組づらくなるようなイメージです。

こんなことを考えていると、こういう「個人とか組織の"意思"ではどうにもならない状況で、意思の力でなんとかしないといけない…!」という呪縛に捕らわれてもがいている人がたくさんいるのではないか?

という疑問が浮かび、そんな話を知り合いの方にしてみたところ國分 功一郎さんの「中動態の世界: 意志と責任の考古学」という本を紹介して頂きました。こちらの内容もとても興味深い内容だったので、長くなってしまったこのnoteは一旦区切りにして、次の記事ではもう少し「私たちはどれくらい自分の "意思" で何かを変えたり、動かしたりできるのか?」について深堀りしてみたいと思います。

つづく(記事作成中)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?