加藤豪と矢田滋の、美術展を見ての往復書簡

工藤哲巳について (3) 


2020/1/29~2/3

K「私は「みずゑ」のバックナンバー(’72年12月号)での工藤哲巳と針生一郎との対談記事を再読し、現代文明で人間生活が消費やセックスなども含めて機械化しても、主体のコンプレックスだけはしつこく残るという話を工藤がしていて、現在にも大きく当てはまると思いました。周りの美術家や、あるいは新進のギャラリストを見ても、美術の「正統」などは極端に度外視し、機械的に自己の欲望に忠実に行動することに居直ると同時に、その背後に多くはマザコン的な原理を背負って生きている(=終局的に母親の意向に従って生きている)ことを私は観察します。工藤哲巳自身が、その居直りとコンプレックスを生きていたと私は思います。それが明確に行き止まりになったのが、矢田さんが作品の変化を指摘した70年代中頃ですね。」

Y「加藤さんの話を読んで、そういえば「セックス・サイボーグ」みたいなテーマが戦後の日本美術・文学では非常に多いと改めて思いました。おっしゃるような美術家、ギャラリストの問題は、戦前の「床の間」のような社会の裾野としての展示場所を失って、「美術展示場」が意味的に密室化して、誰かがいないと立っていられないという(性的)主体の設定をそこばかり投影して共犯関係的に煮詰まってそうなるのかなとなんとなく思いました。」

「90年代終わりから00年代にアメリカなんかのバッドテイスト系がそれなりに美術雑誌に遅れた影響効果を及ぼした時も、なにかその煮詰まりと結びついたものに落ち着いていく印象を持たざるを得なかったですね。」

「「みずゑ」の記事の方、だいたい読み終わりました。工藤の日本に対する距離感や文明観がかなりはっきりと述べられているのがまず面白かったです。外国で不安定な状況をみずから分析していたり、批評家の針生自身が、工藤によるヨーロッパの状況診断に頼っていることを書いていたりと、生々しい文章のまま載せているのも面白かったです。」

K「読んでくださりありがとうございます。工藤の日本に対する距離感は、フランス政府に提供されたパリのアトリエ付き住居(当時のポンピドゥの住宅政策による)の扉にさげられた「日本のジャーナリスト、美術家、カメラマンの来訪おことわり」の札ですね。工藤が積極的な切断の意識を持っていたことがうかがわれます。外国の不安定な状況とは、当時の学生紛争の余波の、パリでの美術館と美術家の対立構図(デモ等の)ですね[1]。それより前の’68年ヴェニス・ビエンナーレの「ビエンナーレ排撃騒動」では、針生はコミッショナーを務める上で工藤からの情報に頼っていたと。」

[追記1] ポンピドゥ大統領発案による「フランス現代美術の十二年」展(1972年)で、警官とアーティストが衝突し作品を撤去した、などの報道がされた騒動のこと。

「針生一郎の持つアートにおける「生々しさ」への指向ということでは、私は個人的に’90年の工藤の葬儀での針生の弔辞文を思い出します。親族が参列する中、生前の工藤と工藤夫人と、工藤の愛人であった美術家M氏との三角関係をめぐる修羅場に、(M氏を除いた)工藤の最晩年の病床で自分も立ち会ったという内容を読んでいました。私は当時院生でしたがそれを聞いていて、前時代のある種の風習を目の当たりにした、という覚えがあります。もう一人の弔辞を読んだ美術批評家である中原佑介氏は、「工藤はフランスから東京へ帰ってきて四方八方敵だらけだった。死んでやっと楽になったと思う。」と言っていて、意味としては先の針生氏の弔辞での「我々は前衛の担い手としての工藤を応援してきたが、東京に帰ってきて国立の芸大に就職したのには失望した。」という内容に呼応したものを、中原氏の弔辞からは私は受け取りました。」

Y「著名な美術批評家二人の距離感が、アーティスト個人の葬儀の場であらわれてくるのは凄いですね。「ある時代の終わりを振り返る」という性格であるのは、海外に対しての日本人の現代美術ということで、工藤哲巳に代表されていたものが多いと彼らが考えていたということなのでしょうか。」

「日本人がパリまで訪ねてくることを工藤が拒絶していて、逆に日本に帰ってきても周りと距離があったという話、明治以来の、洋行の意匠を巡って同質化する美術界の構造の継続という問題を感じます。」

「いまでは「美術界」の枠組みはだいぶ解体されてしまっていますが、種々の資本や大学コネクションなどがプロデュースしても、同じことが繰り返されるだけな予感もあると思います。」

「深いところはまったくわかりませんが、針生は、学生運動の時代から大学教員に抵抗や脱退を呼び掛けていたとの話を聞きますので、関係が深かった工藤に対しても、同じ尺度を求めたということなのですかね。」

K「代表という意識は工藤に対して彼らはあったでしょうね。代表というのは生贄ですから、それによって共同体が国内的に生き延びるという儀式に、私は学生時に立ち会ったということなのかもしれません。同時に、工藤的なステレオタイプと私が語る(=美術の「正統」などは極端に度外視し、機械的に自己の欲望に忠実に行動することに居直ると同時に、その背後に個々のコンプレックスの原理を背負って生きている)ものは、土台としての美術界は解体しつつも、意匠を変えてむしろ延長されて拡散されているという感じがします。」

「洋行の意匠自体は工藤は個的に破ろうとしたが、それはまた閉じたという感じがしますね。むしろ同質化の方向へ、強化されたと言った方がいいかもしれません。」

「針生氏からすれば、工藤の洋行の意匠の破り方が、結局、外国の権力者やブルジョアに抱えられただけだったではないか、「体制でも、反体制でもなく、どこにでも入っていく自分はバクテリアだ。」という工藤の針生への語り方も、洋行というには長い三十年という歳月を考慮しても、結局帰国して芸大職に収まった時点で、左翼的な自らの立場から、何も信用ならないと最終的に爆発したんじゃないでしょうか。」

Y「そうですね。戦後の問題か、大正の前衛以来かわかりませんが、ブルジョワであるか否かみたいな問題がどこまでも付きまとうのですよね。」

「1972年の「みずゑ」の工藤へのインタビューで興味深かったのは、本能的に選ぶものも含めて人が支配されているというところです。これはのちのドゥルーズ=ガタリの「○○機械」と「器官なき身体」の対比みたいです。当のテキストを知っているかどうか関係なく、おなじフランスのなかで同時代性があるわけですね。」

K「それは感じますよね。時代的に、また場所的に完全にリンクしているんですよね。」

Y「戦後日本の思想家や批評家の場合、「本能論」というと、「応用」というか実利的な角度がどうしても伴うわけですが、戦後のヨーロッパでは「本能論」と「技術論」がそこから切り離されて論じられていた時期があり、工藤の言っていることにはそれと似たものも感じました。そこらへんに、日本での批評家である針生の見方(あるいは採れる立場)とすれ違いがあるのかもと思いました。ドゥルーズ=ガタリの68年に端を発する一連の議論は、この戦後の蓄積を状況にあわせてヘーゲル左派風にまとめた感じがします。」

K「私は工藤さんと話していて、または一方的に私が学生として話を聞いている立場で、日本にはない、異なる議論を切り分けるという慣習を、確かに最も感じていました。そして影響を受けたと思います。それは話が違うという所で、スパッと切ってしまうんですね。」

「しかし、それだと単純に日本だと生きづらくなりますね。」

Y 「チャート式の議論とは違うのですね。一般論ですが、その種の厳しさは、日本に限定されないで独自の方向性を模索している人にしばしば伴うのかもしれません。スパッと切って沈黙する姿勢が仮にあったにせよ、戦後日本アーティストの評伝にしても、書いた人や知人の口を通じて、なにか改作まがいの読み込みを行われてしまうケースが多くなっているとなんとなく思います。」

K「芸大に就職したこと自体も、単純な実利とは考えられない面も、私はあると思うんですよ。そうすると、欲望の問題が横に画一化され、そういう前提を日本人が強化し共有してしまう。」

Y「近年の美大批判は自分は理解できるのもあるんですが、たしかに近視眼的に歴史をみての批判だと、国内的な共同性を強化するだけなのでしょうね。大正アヴァンギャルドとプロレタリア美術の言説同士の関係のようなものでしょうか。」

K「歴史上の、言説上のそのような関係が、繰り返されている面があるのかもしれません。」

「私が「みずゑ」の対談で興味深かったのは、工藤が最後に言った「直接的な対決ではなく、まわりまわったコンプレックスのフィードバックで変わっていく」という箇所ですね。個々のコンプレックスは確かに簡単に相互にすり合わすことができないものだけど、互いが発する響きというものがあり、それが反響しあってどうにか何か変化が起きるということは、あり得るかもしれないと私は思うのですね。」

Y「2018年に表参道のファーガス・マカフリーで工藤とカルロ・ラマというイタリアのアーティストとの二人展をみたときに、代表的な60年代の鳥籠の作品だけでなく、工藤の晩年の糸を巻き付けた作品もあって、よく分からないですが、60年代美術批評家の言うところの「反芸術期」作品だけで見る息苦しさがないのが印象的でした。今までの話にどれだけ関係するかわかりませんが。」

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/17253?fbclid=IwAR1HQpRLFoovqCBeRVskSxC6Z_mkL1qlDfm-G91s6_b_ar-mtfAxC9kINwY

「まあこれもアーティストの死後の「再構成的」な展示ですが。」

「いろいろ読んでいくと、工藤の「コンプレックス」の意味は、非常に直接的にも感じるし、複雑な個人的文脈性もある気がするし、一面的な理解はできない感じがします。」

K「このカロル・ラマという作家、私は知らなかったのですが、両者の組み合わせが何か面白いですね。私は新鮮です。」

Y「自分もよく知らなかったですが、イタリアで第二次大戦期以来美術の活動している人で、とくに専門的な美術教育を受けていない女性作家であるとのことです。」

K「工藤さんは自分はマザコンだと、私に語りました。この辺は岡本太郎とも共通するものがあると思います。母親の欲望(=「偉大な芸術家になる」と主体に解釈された)を生きていて、それが工藤さんの場合母親の自死という結末に至った。’70年代中頃です。それを私に工藤さんは「これは悲劇です。」と語りました。「しかし、この悲劇を俺は利用する。」と。しかし、この後段の意味が、私はよく分からなかったのですね。」

Y「現代美術の「マザコン的」設定は岡本太郎は分かりやすくあります。ところで、母方から願望を受け継いでいる一方で、岡本も工藤も美術教育とかかわりがあるのは父方みたいですね。まあ家族に話をどんどん広げていくと、文化の再生産みたいな話かもしれませんが。」

K「近代的な、フロイトが考えたエディプス・コンプレックス論の再生ですね。」

Y「芸大油画の林武の教室から、いわゆる「ネオダダ」の代表的反抗である工藤と篠原が出てしまうのも皮肉というか、物語的に思えてしまって人が語りたくなるのも分かります。」

K「私は岡山県立美術館に問い合わせ、工藤さんの墓がある青森県五所川原の、工藤さんの生家に参ったことがあります[2]。広い敷地であり、祖父が村長だったと現在も住まわれている親族の方から聞きました。案内をしてくれたのは、従姉妹の女性だったと思いますが「哲巳さん」と呼んでいました。居間に通され、祖父、父、工藤の三者の遺影がかかっているのを見ました。その父の肖像が、おそらく若き日の油彩の自画像でした。」

[追記2] 正確には、工藤の父の生家。工藤は大阪生まれ。少年期を父の出身地青森で暮らした。

Y「生家まで行かれたのですか。断片的に彼の出自について読んでいたので、それを知れてとても興味深いです。代々の三者の肖像が並んでいるところを、なんとなく60~70年代日本映画みたいにイメージしてしまいます。」

K「そうですね。もう私は完全な核家族で育ったので、そういう風景は私にとっても半ば、映画の中のものでした。」

「それから、重要だと思うのは、のちに上述の美術家のM氏が私に個人的に教えたのですが、工藤さんの母親が自死する前に、工藤さん自身がパリから日本の母親の元に手紙を書いて、私がM氏から伝え聞いた内容では「僕は偉大な芸術家にはなれません。僕のことは諦めてください。」と送ったということです。」

「工藤さん自身が、コンプレックスからの離脱を単独で試みていたということです。」

Y「長年はなれていたのかどうかは知らないですが、その手紙を送るほどの心理的な関係の深さがあったというのも壮絶と思ってしまいますが。そこと「本能も支配されている」という彼の強調点に関係がある感じはします。」

K「そうですね、私は院生の頃に単刀直入に聞いたんですよ。「母親を切れば良いのか、(物理的に離れるなど)切っても意味がないのか?」と。工藤さんの答えは、「俺はそれは答えられないんだなー」というものでした。」

「急所だったようです。いつもの姿勢が変わって、笑いながら、ほとんど仰け反っていました。記憶では。」

Y「そのエピソードを聞くと、率直なところは不思議なほど率直な人柄なのかと思いました。でも60年代前後の活躍の人のコミュニケーションにはそういうところを感じることもあります。(自身の世代の)活動範囲が広がっていくという実感があったからでしょうか。」

K「そうですね。率直さが広がりを生み出すというのはその世代にはあったでしょうね。下手な魂胆・企みよりもというか。それで、ヨーロッパで邁進して成果を挙げたが、その後が問題になるのだと思います。精神分析の前提では、神経症者は「他者の欲望」をはずしたら(それへの「反発」も含め)、自己の欲望が何か分からない、というものだと思います。工藤の晩年にそれを私は見た気がします。それも、工藤は率直に見せていたと。」

「ちなみに、「他者の欲望」は「母親」の欲望とはもちろん限らないわけですね。現在においても、その現象と作用は、形を変えて広範に見られるものだと思います。例えば有力な美術雑誌に名前が掲載されたいという「他者の欲望」ですね。矢田さんの表現を借りれば、その点においても、多くの人が欲望の表現で不思議なほど率直だと思います。「有名になりたい」とかですね。そう考えると、現在も生きる60年代前後の世代と、より若年層との間の欲望の表現における陰での結託というのは、私は見える気がします。ある意味、より強化されているんじゃないでしょうか。「偉大な芸術家になりたい」ではなく、より貧困化され、縮小された願望の形で。」

「矢田さんが注目された、ファーガス・マカフリーでの組み合わせの展示に、そうではない何かの方向性があるのかもしれませんね。」


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