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20歳、とにかく現状を変えたくて沖縄へ

こんにちわ〜

@osamu036110です。

高校まで野球をやってきた私ですが、高校で野球生活が終わり、大きく心に穴が空きました。親に対しても、申し訳ないという引目を感じていた。

「これから、何をすればいいんだろうか?」

「おれは、本当は何をしたかったんだろうか?」

当時、親元にいることが、なぜか、すごく生きづらく感じていた。

だれも、教えてはくれなかった、、、父親も、母親も、野球が終わったら人生終わりみたいな風潮が、心なしか感じていたのを憶えている。

「なんで、20歳そこそこで、こんなに窮屈な気持ちになっているのか?」

心理的なネグレクトを強く感じ、ここではないどこかへ、、、必ずあるはずと思って、とにかく家を出たかったし、このままではまずいと動いた。

この理解されない不快感、今だったら当時のわたしに伝えられることがあるが、まわりにそんな環境は、わたしには少なからずなかった、、、。

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     高校3年卒業時のわたし。あどけないが、不安しかない

(※わたしが、最近2年ぐらいで学んだコーチングを、この時に必死こいて学んでいたかった。自分のやりたいことへ突き進むために大事な学びを)

東京赤坂へ住み込み新聞配達生活

そして、18歳のわたしは、東京の赤坂産経新聞店で、2年の新聞配達住み込みを決断する。仕事をしながら、本当にやりたいことが見つかるだろうと、。同じ販売所には、大学生、システムエンジニアの専門生、音楽系の専門生、台湾人の留学生、専属営業の方など、初めての社会人として強烈な場所であった東京・赤坂、個性的な人たちとの新しい共同生活がスタートしていった。

ここでの生活は、貴重な体験にはなったし、今でも赤坂に行くと、その時の情動記憶がよみがえる。ちなみに、格闘家の朝倉未来さんがトライフォース赤坂でユーチューブをし初めの時も、後ろにドトールの景色を見て、そこがどこなのかすぐにわかった。

そこは、わたしが最初に任された3区という配達エリアで、目をつぶってでも歩けるぐらい土地勘は今でもある。でも、だいぶ変わったかなぁ〜赤坂

2年間をここで過ごした後、20歳になってもどうしてよいかわからない。20歳になってから数ヶ月間、さらに見えない先行き不安が、結構ピークにこの時達していたのかもしれない。誰も、教えてくれない。

ホテルニューオータニ東京と南麻布にあるテンプル大学

新聞配達を2年間やり終え、その後に、ホテルニューオータニ東京へ、なぜかアポなしで行き、バーテンダーをやらせてくださいと、人事部の担当者に対応頂く(おそらく、単純にその時読んでいた本の影響による行動かと)

今思えば、どんだけ失礼な奴なんだと思うし、無謀な切り込みがここから始まっていく。無謀だけど、なぜか行動力はあったほうかと振り返る。

さらに、昼間は南麻布にあったテンプル大学へ通いながら、夜はバーテンダーで対人力をつける、何か海外を見据えた戦略をとっていたんだと、あまり思い出せないが、振り返るとそうだったんだと思う。

ホテルの方:「うちのBARだと、2年ぐらい下積みになるし、外国人が多くお    客様でいらっしゃるから、英語も話せないと働くことは難しいです。あなたは、英語をある程度話せることができますか?」

わたし:「イエス」と自信満々に答える。もちろん、話せませんでした笑

ホテルニューオオタニ東京での面接合格、テンプル大学の入学受付などが終わり、それでは新しい生活をスタートさせるかと気持ちが固まりつつあったわたしであったが、何かがそうさせなかった。ホテル側からも、見習いからだけど採用という連絡も頂けていたし、テンプル大学もある方の紹介もあってそうしようと決めていたが、断りをいれて、未開の地へ矛先を変える。

ここから、新しく沖縄へ切り込んでいく旅が始まっていく、、、


今まで生きてきた、自分の人生の中で、思いっきり環境をガラッと変えた経験がありますか?



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