小さなイチを足していく
「それ、やめた方がいいよ」
なぜ、切れられたのか。わからない。
「怒っているでしょ?」
いや、怒ってないのだが。
そう見えるのか?
確かに、あれにいきたい、これにいきたいとせがまれて、こっちはこっちで必死に要望を叶えようとしたけれど、相手のお目当てがなかった。
以前にも似たようなことがあった気がする。
相手は口には出さないけれども、落胆と、長時間歩いたイラつきが顔に出ている。内心、だめだこいつ、とか思っているのだろう。無理難題をふっかけて、仕方なく要望に応えるけれども、応えるとができない。もちろん、要望に答えられなかった私が悪いのだけれども、そもそも無理難題ふっかけるなよ、と思ってしまう。そこまで行きたいのなら、相手に頼らず自分から行けばいいじゃないか。
おそらくそんな感情が顔に出たのだろう。
それを見た人が、私のことを怒っている、と感じたのかもしれない。
私自身は怒るという感じではないのだか。
もう、私の感情が麻痺しているのか。
小さい頃から何事もうまくいかなくて失敗続き。
あいつは何をやってもできない。
アドバイスしてもできない。
そんなことを言われ続けた。
そもそもアドバイスを聞いてできれば苦労しないのだが。
もう、何事もできない自分、自分を否定されることに慣れきってしまって、感覚が麻痺してしまった。感情がコントロールできなくなった。普通の人なら、怒る時に怒り、悲しい時に泣き、楽しい時に笑う。私も同じだと思ったけれども、今、自分がどの感情なのかわからないことがある。
冒頭であった、怒っていないはずなのに相手には怒っていると伝わる状態。
心と言動がチグハグになっているのだろう。
あまりにも否定され続け、それに対して生きていくためには、もう感情を殺すしかなかったのだ。
その弊害が現れた一場面だった。
またやってしまった。
無理難題吹っかけて、できないのは君のせい、みたいな場合でも、すみませんでした、と謝って怒った顔をしない。
一つ大事なことを学んだ。
恋愛でうまくいかなかった時もそう。
失恋に失恋を重ねた。
振った相手を見返してやろうと思って新しい恋に走って、また失恋した。
相手を幸せにしようという考えでなく、自分を振った人を後悔させてやる、という黒い感情が湧き上がっていた。
それじゃ、上手くいくはずもない。
自分中心な考えだから。
そんな自分中心な考えを乗り越えて、目の前の人を大切にできるか。
一つ大事なことを学んだ。
休日、オンラインのビジネススクールに通っている。
論理的な思考を身につけるために受講しているのだ。
講義の内容はとても難しく、正直ついていけてない。
おまけに、予習と復習の量が半端でなく多い。
消化不良を起こそうだ。
おまけに一つ一つの課題が難しく。
何時間もうんうんと悩んでしまう。
今、解くべき課題ってなんだ?
この情報から言える主張ってなんだ?
情報の中に隠された見えない前提を探し出す。
自分が考えている中で、暗黙の了解みたいなものはないか?
この言葉って、どういう意味なのだろう?
なんで、相手はこんな主張になるのだろう?
根拠って本当に正しいのか?
他に考えることはないだろうか?
もう頭の中が迷路に入ってしまって、堂々巡りになってしまう。
目指すべきゴールがわからなくなってしまう。
そんな時は、イシューを押さえよ、と講師の先生に教えてもらった。
今、何の課題を解かないといけないか、もう一度振り返る。
これをイシューと言うらしい。
さらにイシューを解くために必要な論点を整理しよう、と教えてもらった。
イシューが大きな問いだとすれば、論点は小さな問い。
この二つを忘れなければ、ゴールを見失わずにすむ。
また一つ大事なことを教えてもらった。
日々の中にある小さな出来事。
一つ一つが自分にとって大事な糧になる。
堀江貴文さんが本の中で、こんなことを書いている。
「なにもない自分に小さなイチを足していく」
本当にそうだと思う。
自分にできることなんて、とてもとても小さなことだけだ。
会社の仕事でもそう。
書類を作る。会議に出る。議事をまとめる。他の部署やお取引先さんにお願いする。一つ一つは小さなことで些細なこと。けれどもそのイチを積み重ねていって、人の役に立ったり、自分が成長したりするのだと思う。
自分は何もできない。
ゼロの状態。
失敗を重ね、一つ一つ学んでいく。
悩み苦しみ、時に楽しみ。
そんな一つ一つの感情を足し算しながら自分が作られていく。
自分ができることは本当に小さいこと。
その小さい一つ一つを積み重ねて自分が形作られる。
仕事の山を見て、そんなことを思った。
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