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演技における居心地の悪さ④


現実が複数であることについて

 ここしばらく実家にいるのですが、月一でお墓参りに行っているということで、先日ついていきました。大学生くらいまでは、冠婚葬祭、一切の儀礼を何と無駄なものだと思っていたのですが、特にそういう発想をすることはなくなりました。目の前に、他にやりたいこと、やらねばならないことが存している場合(何らかの〆切直前とか)にはその限りではないでしょうが、天気も良かったし、ゆっくり墓を磨くこと自体にも充足感を覚えます。
 大がかりなものであれ、日常の延長線上のものであれ、あらゆる宗教儀礼は身体感覚との関係が問題にされます。例えば線香の香り。私が墓の前で手をあわせるとき、亡くなった祖父母や先祖に想いをはせるということはありません。それでも目をつぶって線香の香りに身をゆだねていると、「何らかの」敬虔な気持ちが生じてきます。恍惚、没入感と言っても良いかもしれません。多少とも日常的な感覚から遊離した、ふわっとした心地を覚えるわけですが、それと「墓の前で手をあわせている」という自己意識とがあわさると「敬虔」と表現されるのかもしれません。
 昨年、宮島(厳島)の弥山に登りました。九割以上はロープウェーでですが、一時間くらいは、息を切らしてひいこら登りました。頂上では、恐らくその日の雲のかかりかたなども絶妙で、「絶景とはこのこと」と感じました。頂上付近には神社もあるのですが、登山で疲れた身体に、絶景+大きな鐘の音、そりゃ信心深くもなるなぁと思われました。 ロープウェーがなかった時代ならなおさら。当時は山に登る人数も限られていたでしょうから、希少な体験だということが更に敬虔さをあおったことでしょう。
 近代以降、こうした宗教体験を非現実なものとして棄却し、「脱魔術化」された合理的な学問を探究しようという空気が広まっていくわけですが、さてここで「現実」とは一体何なのか? なるほどあらゆる宗教体験は目に見えないもの、いわく言い難いもの、しかしそうであるがゆえに強烈に感じとってしまうものであり、そうであるがゆえに人を強烈に縛り、ときには大きな戦争にも向わせます。「生贄」なんてもってのほか。合理的に、たしかなこの現実を生きていこうぜ!
 ではこのとき、現実とは一体何なのか。近代化を脱魔術化という用語で言いあらわしたのは社会学者のマックス・ウェーバーですが、彼は、近代人は脱魔術化という信仰を生きている、という議論を展開していたのでした。合理性を生きている(と思っている)人にとって、現実とは一体何なのか? 
 コロナ禍初期のことを思い起こしました。新型コロナをある程度重く見ている人たちの中でも、どう対応すべきかという態度として、イデオロギー対立とは異なる二分法があったように思います。端的に言えば、とにかく伝染病による死者の数を減らすことが肝要であり、仕事も含め外出することを控えるべきだとする立場。先の見えない自粛をいつまでも続けるのでは、人間的な生を営むことができないから、多少の死者は覚悟しながらもある程度普通に生活をすべきだとする立場。前者の方が多かったし、日本も含めた諸(近代)国家も基本はそういう態度をとっていたと記憶しています。
 これは、どちらがより現実が見えている/見えていないといった話ではありません。すなわち、見るべき「現実」をどこに設定するか、ということに関して、根本的な違いがあったのだろうということです。
 例えば私は。関西に移住する直前、5年ほど前に、合宿で自動車の運転免許をとったのですが、こんな殺傷能力の高い乗り物の運転許可を、こんなに簡単に出して良いのか!!!と驚愕しました。私はもっと運転技術に優れた専門家だけが自動車に乗るべきだと思います。日本では飲酒運転などの規制により、年間の死亡事故は一時期より相当減っているとはいえ、それでも年間2000人以上は亡くなっている。恐るべき数だと思います。無論、運転する側の問題ではなく、歩行者や自転車の不注意などもあるでしょうが、それにしたって自動車の数が減れば死亡事故も減るでしょう。
 流通や、移動の自由、レジャーへのアクセス、子供の送り迎えなど、「車が必要」な「現実」があるのだから無茶言うな、という理屈はもちろん分かります。しかしその場合、2000人の犠牲もやむなし、ということになるでしょうか。今免許を持ってる人からそれをとりあげるのは難しくても、これからの取得の基準を上げるくらいのことはしても良いのではないでしょうか。
 車社会をバッシングすることがここでの目的ではありません。私自身はなるべく減らしていくべきだろうと考えますが、生活と車とがあまりに一体となっている人の現実を知らないから簡単に言えることでもあるでしょう。いずれにしても「車社会の「現実」を鑑みると、死亡事故が多いことは、(念頭には置いているにせよ)第一に考慮されるべき事態ではない」という構えの人が多い、ということだけ指摘しておきましょう。もう少し付言すると、私は「自動車」を、この世界においては副次的なものであると考えるのですが、自動車とともにある生こそが世界であり現実であるとする人も多いということです。先の表現をくり返せば、どこに現実を設定しているのかが違うのです。これは「考え方の違い」といった生易しいものではありません。もっと根本的な断絶があるのです(ちゃんと言えば、私も積極的に自動車世界に反対しているわけではなく、「年間2000人が死ぬ世界」をゆるやかに受け入れてしまっています)。
 恐らく、何らかの現実に強く加担している人は、そうでない他の人(例えば私)に対して「いやいやお前は現実が見えていない」と言うでしょう。しかし、正確に表現すべきです。あなたは、「<私>の現実が見えていない」と言いたいのです。もちろん、自分とは異なる他の現実が存在すると認めてしまうならば、自分の存している現実が、その基盤が揺らいでしまう。「現実」に<私の>という形容をつけてしまうと、その現実が純然たる現実として認められなくなってしまうかもしれない。それはなるべく避けたいと、誰もが考えるでしょう。
 「他者(多様性)理解」の重要性を強調する人が増えました。素晴らしいことです。しかしながら、自分の現実に即して理解可能な者のみを「他者」と認める、私の現実にそぐわないような人はもはや人に非ず、という態度も散見されます。かくも厄介な他者理解。それでもなお、それを求めなければなりません。
 共にあろうと、共であろうとするならば、私たちが本当に思考すべきは、ありうべき他の現実についてです。あるいは逆に、思考が可能になるとすれば、自分が見ているのとは別の世界があるかもしれない、と思ってしまったとき、その衝撃を受け取ってしまったときなのです。哲学用語で言えばタウマゼイン(驚き)からのみ、思考は始まる――。

かくも困難なイマーシブ

 イマーシブという語が流行っています。英語圏では2000年くらいから、それを輸入して日本でも2010年代後半くらいからよく聞くようになりました。immersion、immersive。そのまま訳すなら没入、没入的、といった具合です。語源を辿るなら、液体に飛び込む、浸かる、溶け込む、みたいなイメージの言葉です。
 イギリスで始まった「イマーシブ・シアター」は、分かりやすい仕方で言えば、「観客参加型演劇」です。いわば広い会場内(例えばパーティ会場みたいなところをイメージしてください)の全てが「舞台」で、観客はそこを歩き回り、いろんな場所で行われている会話に耳を傾けることになります。
 各地で事件が起こったり、他愛もない会話が繰り広げられたり……観客の参加の仕方は作品によっていくつかパターンがありますが、俳優から見えていない、幽霊みたいな存在として俳優たちの会話を盗み聞きするか、実際に会話も行い、作品の内容自体に参与してしまうか、などといった形式があります。後者の場合、物語の結末が変わってしまう場合もあります。
 日本ではこれまで、メディア・アート系の文脈でイマーシブ・コンテンツがしばしば試みられていました。部屋全体がモニターになっていたり、プロジェクション・マッピングを駆使したりして、現実と虚構との間をかき乱すような作品たちです。
 普通作品鑑賞をする場合には、「現実の私(観客)」が「虚構の作品」を観る、という構図になっていると思います。しかしイマーシブ的な演劇やアートでは、観客も作品世界に混ざってしまう、そういう設計になっているわけです。
 今年の3月、東京お台場に「イマーシブ・フォート東京」(以下「フォート」)という商業施設が誕生したので、早速行ってきました。まだ新しく出来たということもあって、ツッコミどころも無数にあるのですが、しかし気合いの入ったテーマパークであり、イマーシブとは、没入とは、現実とはと様々に考えるきっかけにもなったので、少しだけ言及しておきます(※ちなみに以下の記述は、高校時代の友人二人と共に参加し、色々感想を言い合うなかで発見されたことだということを申し添えておきます)。
 フォート内に入ると、洋風の建物群が並び、青空が広がっています。ゲームづくりをしている一人の友人は、「雲が動いていない」ためにイマイチだとすぐ感じたみたいですが、私は結構作り込まれているなと思いました。フォート内ではスタッフにciao!と声をかけられるなど、どうやらそこは「フォルテヴィータ」というイタリアの街という設定の様子です。なるほど、参加者のわれわれは、この街の住人ないし観光客として過ごせば良いのだと分かります。
 街中を少し歩いていくと、すぐ円形の広場に出ました。街の警備隊長みたいな人が、参加者たちを集めています。音響が悪かったりして(これがこのフォートの本当に深刻な欠点です)あまりよく聞こえませんでしたが、恐らく街にマフィアが出るので、それを倒すために警備隊員になって訓練をするぞ、みたいなことだったのだと思います。そこから隊長の厳しい訓練が始まります。軽い運動から始まり、パンチやキック、スクワットなど、結構長いこと行われていたように思います。遠目から見ていて、少しだけ参加していましたが、かなりの運動量です。重要だと感じられたのは、「訓練」は虚構だけど、「疲れる」のは現実だということです。あるいは疲れると頭の回転が鈍くなり、没入効果を得やすくなる、みたいなこともあるかもしれません。フォートに入って結構すぐにこのイベントに遭遇したのですが、イマーシブの何たるかを少し感得した気分になりました。なお、この警備隊VSマフィアの抗争は一日を通して街のいたるところで展開されていました。参加できそうなら、そうした方が楽しめそうです。
 時折フォート内の「スタッフ」から、「引き続きイマーシブフォートでの体験をお楽しみくださーい」などと言われたりしました。これは致命的でした。音響設備といった物理的な問題に関しては、建物自体の構造などもあるので仕方ないのかもしれませんが、スタッフがどのレベルで言葉を発するのかは絶対に統一しなければなりません。つまり、「イマーシブフォートのスタッフ」なのか、「フォルテヴィータの住人」なのか。「参加者がどういうステータスでいれば良いのか」ということが安定しなければ、没入は遠ざかります。
 これはイマーシブをめぐるかなり基本的な条件と言えるでしょう。しかし、それがあまり考慮されていなかった。あるいは全スタッフが充分共有できるようになるまでの「稽古」を行う余裕がない、といった具合でしょうか。
 ちなみに、私がもっとも「イマーシブだ」と感じられたのは、ジャック・ザ・リッパーから逃げ回るアトラクションです。この街に切り裂きジャックが出たという設定で、暗い一本道を歩かされます。枝分かれしているロープの端を、8人程度の参加者がそれぞれ掴み、歩いていきます。恐る恐る歩き出すと、案の定各所でジャックが飛び出してきます。私はロープの先頭だったのですが、ビビりなので、おっかなびっくり、恐る恐る次の部屋に入っていったりしました。
 商業施設なので仕方ないですが、安全のため「走らないでください」という指示があります。目の前にジャックがいるのになぜ走れないのか!  気持ちは走りたい、しかしフォートの「現実」がわれわれにそれをさせない。これは非イマーシブ的な構造だと言わざるを得ません。さらに言えば、ジャックはかなり近いところまで我々に近づき、刃物を向けてきます。やろうと思えばわれわれを普通に刺せる距離です。にもかかわらず寸止めする。これではどうしても真剣さに欠ける、おままごとになってしまいます。ジャックの行動範囲は、「手を伸ばすけどギリギリ届かない」みたいなところにとどめるべきだったのではないかと思われます。そして、われわれが「走ることができない必然性」みたいなものも、状況や環境の設定で演出してほしかったなと思います。
 それでも私が「イマーシブ」だと感じてしまったのは、作品の中で「実際の感情」が生起し、それに基づいて「実際の行動」(びくびく歩く)をせざるをえなかった点にあります。虚構と現実が交錯していたわけです。お気づきの通り、このジャック・ザ・リッパーのアトラクション、完全にお化け屋敷です。わざわざイマーシブを謳ってやることか? と思われるかもしれません。しかし逆に考えましょう。お化け屋敷というのは、まさにイマーシブなアトラクションなのです。

没入をめぐる諸問題

 イマーシブ・ライクなコンテンツは、これまでにもたくさんあったと言えましょう。最たるものはディズニーランドでしょうか。あるいは言うなれば、一般的な意味での演劇も、まさにイマーシブです。演劇はもちろん、席に座らされ基本的には決められた時間動くことができない(それもここ200年程度の話でしかないので、歴史的に見ればごく新しい傾向なのですが)ため、「イマーシブ」と銘打たれた上述のコンテンツ群とは構造が異なります。それでも、何らかの仕方で(舞台上の)世界に没入したり、俳優の熱気を近くに感じたり、虚構(物語)と現実(身体)が混在していたりするという意味では、イマーシブでないとする理由を探す方が難しいとも言えそうです。
 イマーシブという新たなカタカナ語にとらわれることなく、「没入」一般を考えることで、われわれは改めて「現実」の何たるかにアプローチすることができるかもしれません。つまり例えば、お化け屋敷や演劇も没入体験と呼びうるならば、ジェットコースターはどうか? マジックショー、読書、アイドルのコンサート、山登り、飲酒(泥酔)、海外旅行、お坊さんの読経、政治演説は? もっと日常的にも、われわれは常に何らかの世界に没入していると言えるのではないのか? 問題の本質に触れるために、もう少し没入について掘り下げて考えてみたいと思います。
 ここ1週間、多くの友人たちと会い、何がイマーシブで何がそうでないのか、イマーシブの条件は何か、どういったものが良い/悪いイマーシブなのかなどと話をしてきました。人によって非/イマーシブの線引きは異なりましたが、大体この辺りが考えるべき問題だなと共通して得られたのは、

  ①別の世界への移行
  ②創作者の意志の有無
  ③参加者側の能動性の如何
  ④没入世界の時間性
               等。

①別の世界への移行
 我々が没入というとき、そこにはまずもって「虚構世界」への没入というニュアンスがあることでしょう。それでは、相手が嘘をついて、自分がそれに騙されているとき、それは没入でしょうか。例えばマジックショーで「イリュージョン(幻想)」に魅せられているときにはどうでしょうか。
 あるいは更に、詐欺師がなんの変哲もない水を高値で打っている場合、そして騙された人がその水の効能を「完全に信じてしまっている場合」はどうでしょうか?

②創作者の意志の有無
 イマーシブ系のコンテンツは、もちろん創作者がいます。では、「創作者のいない世界」への没入を考えることはできるでしょうか。例えば子どもの遊びはどうでしょう。帰らなきゃいけない時間は覚えていたはずなのに、真剣にドロケイをやっていたら「いつの間にか」その時間をすぎていた。これを没入と言うことはできそうな気がします。しかし。もちろん「ドロケイやろう」という共通了解はみんなでとったにせよ、誰かが積極的にその世界を維持しているわけではありません。誰ともなく、なんとなく全体で世界が維持されているのです。誰が音頭をとっているわけでもなく、雰囲気や空気でそうなってしまう、という世界の構築の仕方があります。その世界に我を忘れて巻きこまれてしまっている場合、それを没入と呼ぶかどうか?

③参加者側の能動性の如何
 色んなレベルでの能動性が問題にされる必要があります。ジャック・ザ・リッパーの様に、「自分で動く」ことで没入感を増すと感じられ、この意味での能動性は重要だと感じられました。先述のイマーシブ・シアターでも、広い舞台の中を自分で歩き回るという体験がまさに重要です。おおむね一様な情報が与えられる通常の演劇上演と異なり、イマーシブ・シアターでは「自分だけが重要な情報を聞いてしまった!」といった様な高揚感があります(なお、フォートにも追加料金を払って参加するシャーロック・ホームズのコンテンツがあり、これがまさにイマーシブ・シアターの形式に準じていました。フォートに行く人は参加した方が良いでしょう)。
 それでは小説の読書はどうか? 体はほとんど動かさなくても、想像力をはたらかせないことには世界が生まれません。しかし、「想像力をはたらかせよう」という意志があるわけではない。というよりも、想像力が駆動させられてしまう、能動性の程度が低いときに、より没入していると言えるのではないでしょうか。
 さらに、例えば「催眠術」にかけられた人はどうでしょうか。催眠術にかかっている間、まわりの人はその異常さに気付けるけど、かかっている当人はまったく気付けない。没入の最たるものとも言えそうですが、どうでしょう。催眠にかかる段階ではある程度の協力も必要ですが、かかってしまった後はまったく参加者の意志や能動性は問題になりません。

④没入世界の時間性
 没入と時間の問題は、一番厄介に感じられます。それだけに一番考えがいのあるテーマだとも思います。
 どの様なコンテンツに接していても、「没入の瞬間」と「醒めた瞬間」をいったりきたりするでしょう。この瞬間というのが、ほんとうに一瞬なのか、10分なのか、2時間なのかで、没入の強度をはかることはできるかもしれません。10分の没入は本当に没入なのか? といった問いを立てることもできるかもしれません。
 さて、重要なのはここからです。「没入」の実感は、必ず事後的に訪れます。「今、没入してるなー」という感覚があったら、それは厳密には没入とは言えないからです。いずれにしても、これまで例にあげた全ての体験は、必ず終わりのあるものでした。没入していた世界に区切りがついたら、もとの現実に戻っていく、というのが普通です。
 では、仮に没入状態が永遠に続いたとしたら、それは「没入」でしょうか? 端的に言えば、私はここで宗教的なものを念頭においています。ある宗教世界の外にいる(その現実を生きていない)人からすれば、信者は「没入してしまっている」人、ということになるでしょう。しかし無論、信者は自分が「没入している」とは考えません。それこそが現実だからです。没入の実感がなく、その終わりもない。これこそ究極の没入体験、と言えるでしょうか?

演技とこの世界

 私は何でも、概念をかなり広く捉えてしまう性質なので、上述の例のすべてを「イマーシブと呼びうる」という態度をひとまずとっています。ただ、それに同調してくれる友人も少なくありませんでした。日々を演技的に生きている、という感覚がある人ほど、世界とは全てイマーシブである(と言いうる)という言説に違和感がなかったのかもしれません。
 私は本当のところ、イマーシブ系のコンテンツにあまり興味がありません。深夜に外に出て、ほとんど誰もいないところで夜風に当たって感動してしまう、そういう体験で結構満足してしまいます。もちろん旅行、ボードゲーム、コンサートなど、様々な体験を好みますが、それらは等しく「没入」の対象であり、熱中し、楽しむので、「体験」を謳うコンテンツには逆に引いてしまうところがあります。本当にイマーシブなものがあるとすれば、イマーシブを名乗ってはいけないだろうとも思います。「これはイマーシブなコンテンツなんだな」という意識こそ、イマーシブにもっとも邪魔なものだからです。
 しかし本当に「イマーシブ」なものがあるとしたら、既にある「現実」をかき乱してしまうという点で、かなり危険です。特定のコンテンツにハマってしまい生活がままならなくなってしまった人のことを想像すれば、分かりやすいでしょう(ハマる、という日本語は、immersiveの訳語としてかなり適切かもしれません。もしくは「沼る」)。したがって、休日にちょっと楽しもう、といったことなら、「イマーシブっぽさ」や「没入“感”」があるな、くらいのレベルのアトラクションがちょうど良いのかもしれません。
 ここではやはり宗教のことを念頭に置いています。あるいは広い意味での「政治」を。宗教儀礼には、必ず何かしらの演出がほどこされています。すなわち宗教世界に没入させているわけです。しかしそれを端的に「騙す」技術などと考えるのは間違いでしょう。最初に、線香の香りの話を書きました。線香という制度は、誰かが躍起になって維持しているものではありません。日本に定着している一つの文化だと言えましょう。したがって、演出をほどこしている主体が存在するわけではありません。われわれ自身がそういう世界を作り上げているのです。最初は馬鹿げていると思っていても、やっているうちにそれが当たり前の現実となっていく、そういった事態もあるでしょう。キリスト教の理論的支柱であるかのアウグスティヌスも、最初は信仰の型を反復しているだけでも、次第に本当の信仰を獲得できるようになるのだと言っていました(「信の効用」、『アウグスティヌス著作集4』)。
 さらに重要なことですが、われわれは何らかの没入を必要としている、とも言わねばなりません。いまある「現実」があまりに苦痛で、他の世界に行きたいと思っている人は決して少なくない。「現実逃避」などと言われますが、そこで言われている当の現実は、なぜそんなに尊重されなければならないのか? 「だってそれが現実だから」以上の解答を持っている人は少ないでしょう。しかしそこで言われている「現実」が、現実の全てなのかは分かりません。
 私には没入は必要ない、現実を生きている、と強弁する人も、仕事や趣味に「没頭」するような経験を生きがいに感じたりするはずです。あるいは仕事の後の酒で、「忘我」を心地良く感じたりするでしょうか。それは没入とどの様に異なるのでしょうか。いかなる活動でも、そのモチベーションの源泉には何らかの「信(仰)」がないでしょうか。
 悪徳とされるカルトも、カリスマ的独裁者も、決して他人を騙そう、金を巻き上げよう、などという発想が基本になっているわけではありません。当の宗教/政治世界を維持するために金が必要になるということはあるかもしれませんが、何よりもその「世界」こそが最も大事だと真剣に考えられているからこそ、人はそこに魅了されるのでしょう。そのことが理解されない限り、カルト批判も独裁批判も、全ては空転してしまいます。
 なぜ人は没入を求めるのか。そこで言われている没入とはどのレベルのものなのか。複数の現実があるとして、いずれかの現実が特権化される正当性はどこにあるのか。複数の現実の行き来は可能か。それはどの様にしてか。

 私がこの「演技における居心地の悪さ」という一連の記事で書いてきたのは、単純な、つねに同じことでした。すなわち、まさに世界における居心地の悪さそれ自体です。
 自覚もできないほど没入してしまっているときには、その世界への違和感は生じません。しかしときに、他人の集団的な行動、まわりの演技の不十分さ、当たり前のように使用されている言語表現などを前にして、様々な折に、自らの置かれている状況への違和感が生じます(見ないようにしているだけで、本当はつねに生じ続けているはずなのです)。その時、別様な態度が、演技が、表現が、求められる。そうした別様な世界への通路を担保したい。それが可能になるとすれば、それはいかにしてか……。
 演技、演劇を通じて、引き続きこうした問題を考えようと思っています。しばらく書く仕事が空いたので、リハビリや実験も兼ねていろいろ書いていたのですが、ちらほら忙しくなりそうなのでひとまずこれで終わりにします。またそのうち。


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