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「正解主義問題」と「チームが機能する」

 為末さんのこちらの記事を読んで、「チームが機能する」※という視点からも考えてみました。
※「チームが機能するとはどういうことか」エイミー・C・エドモンドソン著(2014)

 組織の文化やチームメンバーの行動が正解主義に陥るとどのようなネガティブインパクトが生じてくるでしょうか。例えば、
・とにかく答探しから始まる(Howにフォーカスが強まる)
・正解がないと前に進めない、動けない(指示待ちになる)
・何が正解か、で議論が白熱してしまって意見の衝突を活かせない
というような症状が起きてくるかもしれません。
そうなると、「正解待ち」や「誰かが指示(=正解)してくれる」という待ちの姿勢も強まって、業務遂行においては組織全体がじわじわと受動的になっていくように思えます。
 一方、正解主義にもよいところはある。それはチームの業務の性質が「ルーチンの業務」(エドモンドソン、2014)の要素が強い場合、業務クオリティや効率、高い生産性に寄与する。正しく、確実に実行するという観点ではあながち正解主義が良くないとは言えないようにも思えます。

 エドモンドソンは「チームが機能するとはどういうことか」の中で、これからの組織は、学習しながら実行する、あるいは、実行しながら学習する、ということが大切だとも指摘しています。ルーチンの業務の性質が強い場合においても改善活動への取組みなどは必ずあるので、いずれのチームにおいても学習と実行はどちらも必要と言っています。
 
 さて、チームが正解主義に陥ると指示=正解通りに実行することに価値を置く組織文化になりがちで、業務を取り囲む状況に変化点が生じていることに気が付いても「正解がないから」身動き取れなくなる。待ちになってしまう。
 チームの中で「問い」を立てられないと自律的な学習は起こりにくくなる。正解主義に偏重してしまうと、そのような影響がチームに広がっていきそうです。
 前回、書いた「対話とリフレーミング」は、組織が日常的には効率と品質を高く保った業務のアウトプットを出し続けながらも、時々「問い」を立てる、すなわちフレームを意図的に変えて(リフレーミング)対話することによって、自らの「問い」によって学習していく力も兼ね備えていくことになると考えています。
※リフレーミングも「チームが機能するとはどういうことか」からの学びです。

 リーダーが発信する上手な「問い」が、チーム内にリフレーミング(=異なる角度からの物事の解釈可能性)の機会を与えるのだと考えると、リーダーが組織が担っている機能の業務クオリティを保つため、正解主義の有効性も理解しつつ、行き過ぎた正解主義が組織文化の主体性、自律性を浸食することがないように、組織内に「問い」を投げかけ、共有し、対話を継続するという二兎を追う必要があるのかもしれません。

 いますぐ正解を求めなくてもいい「問い」をチームが持っている価値は、考えながら実行する/学習しながら実行する組織になっていくことだと私は考えています。

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