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正解主義問題

何にでも正解があると信じ、求めることを私は「正解主義」と呼んでいます。この正解主義は受験やテストなどでは有効な考えですが、社会に出ると害が大きくなります。

正解は問いがなければ成立しません。正しい解答なのですから、当然と言えば当然です。ですから正解主義にとって考えることは「誰かに問われること」で始まります。しかし、綺麗にお題を出してくれることなんて社会ではほとんどありません。

もう一つの弊害は「ピッタリ正解」に囚われるところです。社会は複雑系なので何事も「どの程度適しているか」しかありません。フィット加減です。

しかも、適しているかどうかの評価もまた問いによって変わります。足の長いケニア人の身体は陸上には適していますが、平泳ぎには適していません。(陸上は足が長い方が有利で、水泳は抵抗になるため足が短い方が有利)

正解主義は不満を持ちやすい考えでもあります。正解があると信じているので、社会の「問題点」ばかりが気になります。誰からどこから見ても正解があると思っているからです。

正解主義がゼロリスク思考につながりやすいのは、リスクがない状態という正解があると思っているからです。

もちろん実社会に生きていれば正解主義の人も完璧な答えはないことに気が付く人もいます。すると今度は指標を求めるようになります。「正しさ加減」の指標です。

ミシュランやノーベル賞や世界遺産など、西洋が賞を与える仕組みを大事にするのは、正しさを決めるシステムだからだと私は考えています。正解を求める人は問いを立てる人に誘導されます。

美しさとはなにか、いい店とは何か、という問いを立て評価しランキングをつけるのはある種の正しさ評価システムです。

正解主義者はランキングと賞を好みますが、正解に似ているからだと思います。先生がいて、何が良いことかを決めてくれるなら、努力の方向が定まり楽になります。

社会は複雑系で、人々は多様なので、誰もが納得する正しい答えなどありません。社会で生きるということは問題を抱え続けながら、なんとかやっていく。言い換えれば全部不正解だし、正解でもあると思います。

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