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原口剛さん(神戸大学大学院准教授)前編・1釜ヶ崎ー関係の想像力に辿り着くしぶとさを

まずインタビューの前に原口さんに釜ヶ崎から新世界、天王寺公園を案内してもらい、その変貌の過程などを教えてもらいながら、天王寺の喫茶店で長時間にわたりさまざまな話を語っていただきました。今回はその前編となります。          (原口剛さんインタビュー前編のPDFはこちらから


           語りの回路が失われる危機感

――先ほどは日雇い労働者の街である釜ヶ崎のご案内ありがとうございました。さっそく、原口さんの著作『叫びの都市』に即してうかがいたいのですが。ひと通り通読して改めて序章を読み直して思ったのは単なる「釜ヶ崎史」じゃないんだな、ということなんですね。あるいは釜ヶ崎の労働運動史という側面でいえば、原口さんは釜ヶ崎の労働運動に強い関心を持っているんだろうと思うんです。そしてすごくシンパシーがあるのだろうとも。でも同時に、そこに収斂していくだけでもないのだろうと思ったんです。先ほど案内してもらった釜ヶ崎もずいぶんさま変わりしつつあると思うんですが、素朴に言えば場所の「記憶を忘れるな」ということ。原口さんは伝えたいのはまずはそこかな、というふうに思ったんです。

原口:そうですね。

――その場所が*ジェントリフィケーション化されていくかもしれないという不安や危機を意識しつつ、釜ヶ崎という場所がいまにいたるまで政治文化的に何が起きていたのか?ということを1章以下で書かれていると思うんです。「記憶の時間」ですね。それが徐々に世代も変われば、僕らのような遠くに住んでいる人間はそれを経験的に知らない。忘却されようとしている。メディアもいまは釜ヶ崎を書くということもない。それは「空間の観点」も含めてですよね。それを考えると、空間に大量の若い労働者がいた時代、どういう風に彼らと対抗するものがせめぎ合い、ぶつかり合っていたのか。そのあたりについても教えてもらえればありがたいところです。

原口:そうですね。僕も書いたときの感覚をさぐりさぐり喋りますけど、「記憶」をひとつのテーマにしたのは、今もそうなんですけど、この本を書き始めた当時から危機感がありまして。実はこの本で書いたことというのは、けっこう釜ヶ崎の中では当たり前のことしか書いていない所があるんですよ。当たり前のこととはどういうことか。それは書くまでもなく労働者たちの中で、あるいは*平井正治さんみたいな人がいて、そこへ行けば誰か語り手の人がおり、語り継がれてきたような話なんです。僕はそれを集めてきたのですけれども、その語りの回路みたいなものがいつ頃かは忘れましたけれども、「このままだと途切れるんじゃないか」という危機感を感じ始めたんですね。それはジェントリフィケーションよりもたぶん先です。で、その裏返しなんですけどその危機感に立ったとき、「釜ヶ崎」という地名に改めて驚きを感じた。何故かというと、釜ヶ崎という地名は1922年に公的な地名としては町名改正された地名です。ですから、地図が発行されても基本的には記入されない地名なんです。言い換えると公的に書かれることがないですから、語り継がれることでしか受け継がれない。そういう地名だったわけですね。で、1922年に消えたということは、つまり以後100年近くの間だれかがこの場所を「釜ヶ崎」と呼び続けることによって語り継がれてきた地名としてあるわけです。確かに釜ヶ崎に関する本などはありますし、そこで書かれることはあるんですけれども、それも基盤になるのは公的文書に書かれていることではなく、その土地の中で語られていることが基盤になって釜ヶ崎の本が書き記されていると思うんです。
 そしてぼくが釜ヶ崎に関わった当初はまだ労働者たちの分厚い存在感があり、「この場所が釜ヶ崎だ」ということが未来永劫とまでいわなくとも、揺るがない前提だと思われてきたでのすが、その「語りの回路」というのが次々に途切れてきているように感じられてきたわけです。そして実際問題、フタを開けてみたらこの『叫びの都市』(洛北出版:2016)が出たくらいのタイミングからだんだん「釜ヶ崎」という言葉よりも「あいりん」という風に呼ばれることが多くなってきました。それに対するためらいも昔はあったものなんです。釜ヶ崎をあいりんと言うと基本的に怒られるのが当たり前の経験だったわけです。それは上から付与された地名であり、生きられた地名ではないですから。それでも徐々に「あいりん」という言葉で言われるようになり、いまでは「西成特区」とか、だんだん「釜ヶ崎」ではない言葉で呼称が変えられるようになってしまった。名前だけではなく、釜ヶ崎の思想とか、釜ヶ崎の言葉とか、そういったものがない交ぜになり含まれた上での地名の語り継ぎだったのですから、その釜ヶ崎の地名と共に生きられた労働者の記憶、抵抗の記憶、そういったものが丸ごと消し去られてしまうのではないか。何せ100年くらいの歴史がある場所の地名ですから。
 まずそういった危機感があった。ぼくは「釜ヶ崎とは何か」みたいなことを基本的にはいろんな場で人に会って聞く中で教えられてきたということがあるので、それを自分たちの中で途切れさせるのではなく、変な話かもしれませんが、書き物なんですけど、「どう語り継ぐか」みたいな所が問題意識としてあったんです。それがたぶん「記憶」という言葉を重視してきた要因だと思うんですね。で、一番典型的なのは暴動です。暴動をどう語るかという所でいちばん出ると思うんですよ。1990年に起きた暴動はわりあい書かれてますけど。けっこう歴史化されると書かれるというのはあると思うんですね。逆に直近の歴史だと書きにくい。歴史になったら博物館的に展示されることがあると思うんです。90年の暴動は語られることがあっても、2008年のあれだけ激しかった暴動はもうなかったことにされているということがぼくの中では象徴的だった。

――2008年の暴動はぼくも知りませんでした。

原口:ぼくが見るところでは、90年、92年の暴動はすごくテレビが報じたんですよ。ほとんどリアルタイムで。

――ええ。そうでしたね。

原口:たぶん若者の暴動に発展していったのはテレビを見て若者が行ってみようぜと言って暴動が拡大しちゃった。対して2008年の暴動は言うほど報道されなかった。それはおそらく報道の中で自主規制があったんじゃないかなと。で、暴動っていうのは何というのかな……?

――波及?若者が熱くなったり。群集の心理の発露?

原口:“集まり”が“集まり”を呼ぶ。統率のつかない自律的な動きですよね。それを封じこめようという大きな動きがあったし、なおかつ報道されなかったということもあって。あっという間に1、2年もしたらなかったことにされてしまう。暴動というすごく重大な出来ごとにもかかわらず、早くも歴史から抹消されようとしていることがぼくの中でいちばん象徴的な出来事だった。 

                                           地図では描かれない空間の広がり

原口:暴動」ってたぶん「問い」だと思うんです。労働者の側からのぼくに対する、あるいは市民社会に対して突きつけられる問い。それを無いことにするというのはちょっとぼくの中では信じられないことですから。それをどう書き残すか、語り残すかという所が自分の中の研究者の顕れとしてまずひとつあったと思うんですね。それがありましたし、もうひとつには「空間」ということで言うと、変な話これほど釜ヶ崎は語られなくなっていたのに、ものすごくかつてないほど地図で釜ヶ崎が表記されることが増えたんです。

――そうなんですか。

原口:ええ。特に西成特区構想前後からですけど。ここがあいりん地域で、ここが釜ヶ崎で、って大量の地図が描かれるようになった。そういうことがあると思う。ただ、地図で釜ヶ崎が描かれるというのは、地理学者だから思うんですけど、やはり大きなウソがあって。この本でも書いたことですけれども、要するに地表のある部分だけ、「ここからここまでが釜ヶ崎ですよ」と狭く線引きしてしまおうとする。でも、それは例えば目に分かりやすいがゆえにその後ろ側にある空間の広がりとか、場所の厚みというものを全部削ぎ落としてしまうわけです。例えば労働者の出自ひとつとっても出身地を見るとそれこそ北海道の人も含めもう全国各地ですよね。それひとつとっても釜ヶ崎を描くというのは少なくとも全国スケールになるはずだし、あるいは釜ヶ崎の労働者が携わった労働の現場。それはもちろん釜ヶ崎の中にだけ労働現場があるわけじゃなくて、釜ヶ崎の外側にあるわけですから。それを含めて釜ヶ崎を考えなくてはいけない。そういう風に考えると、「あいりん地区」の地図でもってここが釜ヶ崎ですよと示される、収めることはできるはずがないんですけども。でもあれだけ重ねられ、何回も地図が描かれることによってそこだけが釜ヶ崎であるかのように見せられてしまうと、それが真実だという風に流通してしまう。それ自体に大きな嘘があるという風にぼく自身思っていて、その地図に描かれるくらい格下げされてしまう釜ヶ崎を記述の中でどれだけ救い出すことが出来るか。書くことができるかというところが一番重要なことだったと思います。ですから、もうひとつは「記憶と広がりの空間」の部分。しかも簡単には地図にできない広がりをどうやって掴み取るかという所が2大テーマとしてあったんです。釜ヶ崎について報じられること、語られることというのはこの本が出たあともずっとあるんですけど、そのたびに狭くさせられるようなことがあって。
 釜ヶ崎ではいま*西成特区構想が進められていますが、その動きに対して僕としては根本のレベルで「違う」と言いたい思いがあるんです。特区構想のなかでは「釜ヶ崎が変われば、日本は変わる」というスローガンが唱えられるけれども、そのなかで釜ヶ崎は地図中に狭く設定されてしまっている。みえない所の釜ヶ崎を見ているわけではない。その前提で政策なり、釜ヶ崎の物的な改造なりが進んでしまうと、結果的に釜ヶ崎を深い意味で殺すことにしかならないと思います。その意味で釜ヶ崎を本の中で蘇らせることが必要で、それをやりたいなと思ったのがいちばん大きな軸としてありますね。繰り返しますけど、これが10年~20年前だと当たり前に釜ヶ崎の中で生きられていたことなんですけど。いま現在これを、そういうことを書かないといけない状態にあるということでもあるんだと思います。このようなところが問題意識のいちばんの中心です。

――なるほど。要は平面地図の中で収まらない、重層世界があるんだということですね。


                                 地図は空間を考える上で特殊な形態

原口:そうですね。もっというと地図という言葉。これはまた地理学者の物言いですけど、地理あるいは空間というと、つい「地図」を思いがちなんですけれども、これは空間を考える上でのものすごく特殊な形態でしかないんです。

――ほお。

原口:空間をイメージをする仕方というのは、もっといろんなイメージの仕方があるわけです。空間をイメージするというのはどういう風に世界をイメージするかということでもありますし、あるいは別の距離のある人たちとどういう風に「連帯するか」「共鳴するか」を表明するというものも含んでいると思うんです。地図はひとつのツールにはなりますけど、明らかに地図の限界というのは地図を描くときというのは必ず二次元に収めなくてはならないわけですし、いちばん大きいのは何か土地を描くときに線を描いて、かならずその線を閉じないといけないじゃないですか。「日本国」であれば国境線が伴いますし、自治体もそうですよね。「大阪市」「札幌市」。それぞれのエリアというのは、面積が計算できるような線が描かれなくてはならない。これ自体が空間のあり方としてはすごく排他的にならざるを得ない。もっと空間は穴だらけでもいいし、いろんな歪みとか、いろんな距離感とか持っていいはずなんだけれども、そういったものを削ぎ落としたブロックに空間を分けてしまう。ぶつ切りにしてしまうということがある。これが分かりやすくも、すごくまやかしを持っていると思っているんです。だからワイドショーなんかで国際政治の政治学者が出てきて、だいたい地図がバーンと出てきて、ここの国がこういう風に攻撃してるよ、と。

――まさに(笑)。

原口:ああいうのはまず地表が国境で区切られているところから話を始めている。そこが嘘の始まりで。実は釜ヶ崎はそういった空間のイメージを引っ繰り返すにはもってこいの場所だと思うんです。そこは労働者が絶えず流動することによって成り立っている奇跡のような場所ですから。その地図を引っ繰り返したいというのがもうひとつの欲望としてあったと思うんですね。

――それがあったと?

原口:あったと思うんですよね。まあ、いまだにあるんですけれども。

――話が飛躍してしまうみたいですけど、何かガード・シティというんですか?中流階級の人たちがものすごくセキュリティを頑丈にして。塀で囲って、みたいな形がありますね。

原口:「ゲーテッド・コミュニティ」ですね。

――ゲーテッド・コミュニティというんですね。何かそんなイメージがふと浮かびました。それはぼく自身の生き方の問題とも共通する何ものかと思うんですけれども。要するに安定した環境空間、みたいな。閉ざして、そこで自分は落ち着いてものを考えられる。孤立してるというか、孤独だけれどもそこで自分の感情をコントロールできる場所として自分の家とかがあって。周りと区切ってね。で、住所とかを全部登記して。ここは自分の土地です、所有権を親から移転しました、みたいな形を取っていくわけですね。で、土地の私有権ってそんな感じじゃないですか。

原口:そうです、そうです。

――登記簿地図を作って役所に届けて、みたいな。これって本当にミクロというか、個人としての地図ですよね。それが拡大すると僕は日本国の日本人で、北海道の札幌市に住んでいる杉本某というもので、住所は〇〇区だと。役所でそういう形で公的になる。で、そういう形で区切ってるんだけど、いまの原口さんの話を聞くと、いま現代に生きている個人として安心を手に入れているんだけれども、釜ヶ崎という場所を軸にして考えると、そして先ほどの話を聞くと、土地、あるいは国土でもいいんですが。平面に収めてここから国境線があり、その内部にいると決めつけているんだけど、本質的にはそういうものではない?

原口:そうですね。

――ぼくはちょっとそこで自分の安心感を含めて思う所では、その区切りを、もちろん勝手に区切った線なんだけど、そういうものがない状況というのは果たして人間にとっての安心感というものが揺らがないだろうか?と考えるんです。だから逆に原口さんは分かっておられるのかな?と思ったんですね。原口さんは土地を通じて確定した場所で安心してしまっている人間たちとはまた違う別の世界を知っているのではないだろうか。どうでしょう?

原口:あの、それはたぶん、そうですね。どっちのほうから話したらいいかな。土地と人間というすごくデカい話からいうと、その「個人」と「所有」と「線引き」が三位一体で重なり合うので、それはすごく近代特有の話で、たぶん土地との関係でいうと、それこそジェントリフィケーションにもかかわりの深い「囲い込み」の話になりますけど、どこからどこまでが誰の私的所有の財産なのかということがきっちりと区分けされて以降の話。資本主義的な話だと思うんですね。なおかつその上で成り立つ個人というのはきわめて近代的な孤立した個人だと思うんですね。で、そのこと自体すごく長い人類の歩みからすると、つい最近の、たかだか数百年の話でしかないじゃないですか。僕はそれが本質だとは思わないですし、もうひとつにそれと裏返しのことなんですけれども、その境界線をくっきりさせたゲーテッド・コミュニティがまさにそうですが、ゲーテッド・コミュニティなんかはそのような自分自身の所有地を囲い込む、ある種極限的な安心を追求する。

――自分を囲い込む……。

原口:はい。そういう形だと思うんですが、たぶんそうすることによってむしろその壁の向こう側に対する不安は増幅されるのではないかと思いますし、もともとその「ゲーテッド・コミュニティ」自体が実際に起こる犯罪にというよりは、体感治安ですね。「何となく怖い」ということに対する恐怖心にもとづいているので、だからどちらかというとそれはぼんやりとしたものに対する不安をわかりやすく解決するということだと思います。ただ、そうすることによって、不安が解決するかというとおそらくそうじゃないと思うんですよ。たぶんより壁を高くしていかないと安心できないような、むしろ強迫観念を発動させるものなんじゃないかという風に思うんですよね。もうひとつは実際に釜ヶ崎において体験することなんですけど、道のありかたにしてもここから先が道路で、ここまでが歩道で、ここからここまでが家の所有地というのが、釜ヶ崎ではもうグチャグチャになるわけです。

――ええ。それはよくわかる気がしました。

原口:何がデカいかというと、グレイゾーンがほとんどを占めているわけです。

――道路にはね。何か物が出てるし。


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  土地の上はグレーゾーンであふれている

*ジェントリフィケーションージェントリフィケーションとは、都市において比較的貧困な層が多く住む中下層地域(インナーシティなど都心付近の住宅地区)に、再開発や新産業の発展などの理由で比較的豊かな人々が流入し、地域の経済・社会・住民の構成が変化する都市再編現象である。階級浄化などの訳語が充てられる(ウィキペディアより)

*平井正治―1927年―2011年。大阪生まれ。1961年より大阪市釜ヶ崎に居住し、日雇い労働者に。1966年大阪港登録港湾労働者となり、全港湾労組大阪港支部執行委員、副委員長など歴任。平井さんの話の聞きおこしを中心にした著書として、『無縁声声―日本資本主義残酷史』(藤原書店)がある。

*西成特区構想―2012年から橋下徹大阪市長(当時)主導で進められた、大阪市西成区を特区指定し、区が抱える諸問題の解決に向けた施策を推進する構想。施策の大部分が愛隣地区を意識して策定されたものであることから、「西成特区ではなく、あいりん特区ではないか」という批判もある。(新語時事用語辞典―2013年より)


                         

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