原口剛さん(神戸大学大学院准教授)インタビュー前編・2
土地の上はグレーゾーンであふれている
原口:やっぱりゲーテッド・コミュニティみたいな形ですごく純粋な形で所有権が物理的に特定されるのは異常な状態で、通常は釜ヶ崎もそうですけど、土地の上で起こっていることは、法律上の登記上の所有権の図面とは違ってグレーゾーンであふれてるわけですよね。私的所有に基づかないようなコミュニズム的な、アナキズム的な、相互扶助的な。まあ喧嘩も含めてのそういう営みって、むしろグレーゾーンの中でこそ起こっているという風に思うわけです。で、グレーゾーンというのはなかなか線引きできないエリアだけに、では境界がないかというとそういうわけではなく、なんとなくぼんやり重なり合うような厚みというのが空間にあるわけです。壁ではない厚みがとりまいているというか。だから壁のない状態がどこまでも続いているというわけではなしに、排他的に分けるのではないさまざまなグレーな壁が重なり合っている状態というのがたぶんぼくの中の想像としてありますし、実際釜ヶ崎で見たグレーゾーンが重なり合う中で、確かに悲惨なことに満ちた世界ですけれども、それでも逆に言うと何とか生きてそこで生存が可能になっている、そういった空間が形成されていたと思うんです。確かにそれは実感として思うし、たぶん白黒つかないグレーゾーンの重要性みたいなところを釜ヶ崎の街では思い知らされるということです。
――なるほど。
原口:「それがあるんだな」ということを痛感させられる場所を持っていて、しかもそれは釜ヶ崎だけの話じゃなくて、多かれ少なかれ、グレーゾーンってあるじゃないですか?ハッキリと区分けされないゾーンというんですかね。例えば道路の先に、ある程度看板がせり出している。本当は違法といえば違法だけど、何となしに認められている。植木鉢をガンガン作っちゃうと何かよく見たら土地の上もグレーゾーンに満ちている。そういったイメージってありますよね。それがあるからこそ、あまりセーフティネットとか使いたくないですが、何となしに人間の生存を支えるような条件として僕の中ではイメージされるので、たぶん別様の生きるための条件のようなものが生まれるんじゃないかなと思っていますね。
――いろいろと連想させられます。「ひきこもる」というのはまさに近代社会というのか、超モダンな現象で、個人的に自分を囲い込む。マンションでも家でもいいんですけど、確定された区画の中で、その中で個室の中に立てこもるというのかな。そういう風な形での、それもある種ステレオタイプなイメージなんですけども(笑)。とりあえずガシッと自分の内部の中に物理的にこもるために自分の部屋にこもって閉ざすというか。それは昔はちょっとなかったんだろうなあと。だからその状況がね。もう嫌だと。苦しいし、人間関係耐え難いと思っていても、前近代に近い社会であれば個室もないし、仕様がない。おそらく戦争終わった直後の時代ってそうだったんでしょうけど、雑魚寝するしかない。個室というのが出来たのは、近代化過程みたいなので核家族が生まれて以後でしょうから。ぼくは「それだからひきこもりが」という決めつけ方はしたくないですけど、確かに自分に引き当て、否めないところはあるのかなあと。いまね。聞いていて連想して思いました。
やっぱり核家族化は庶民が望んだことだし、共同体にある一種接点を常に持たなきゃいけないというものがしんどいというところがあって。その結果がね。そもそも存在論的に人間が望んだのか。それとも社会環境的にそういう風なものがいいんだ、と思ったものとしてマイホームを建てて、子どもたちに個室を与えてその子供たちが学校なり集団生活なりの中で苦しんだ時に自室の中にこもったり、親子関係が悪くなると部屋の中に立てこもって喧嘩したり、顔を見せないようになる、みたいなね。そういう風なある種、負の側面も確かにあるし、今もあるとは思うんですよ。それは本当に人間が結局、存在としてそれを願っていたのか。それとも個人主義的な考えが輸入された結果そうなったのか。どうなんだろう?という、これは質問というよりも自分の連想を漂いながら思うことですけれども。
社会のありようはさまざま
原口:面白い思考実験ですよね。たぶんすごく的外れな方向かもしれない思いつきなんですけれども、釜ヶ崎で学んだことのひとつには、僕らが「社会」と使うときにけっこう社会というものを一枚岩的に大きなひとつの塊として語ってしまう傾向がある気がするんですね。よく大学を出ることを「社会に出る」と言いますけど、じゃあ大学は社会じゃないのか?という話なんですが。それひとつとってもそうなんですけど、その強大な社会に対する恐れから、閉じこもるとなった場合に、これは全く専門性のない話なんですけど、良い場合にはいわゆる巨大に見えている社会を相対化できる人もいると思うんですけど、しんどい場合にはますますどんどん巨大なものに、恐ろしいものになってしまうこともあるのかな?と思っていて。釜ヶ崎で学べるのは、釜ヶ崎ではいかに社会が搾取にまみれているかということもあるんですけれども。逆にいわゆる一般社会といわれる生活をしている中では見えないような、いろいろ一筋縄ではいかないさまざまな生きかたと、さまざまとはいってもけしてみんな独りで生きているわけではないので、いろんな関係の取り結びかたをしてるんですが、その数だけ社会があると言っていいくらい、さまざまな社会がある。そういうことを考えると、少なくとも「社会」という言葉を一枚岩的なもので語ることがためらわれるというか。まず複数の言葉に分節化していかないと、やはり流動からなる労働者の社会というのは描けないですし、これは「豊かさ」というつもりはないんですが、通常思われている以上にいわゆる市民社会と言われたところからはずれた所にあるものが、陳腐な言い方ですが「さまざま」としか言いようがないものであって。さまざまにあるということを知っている強さと、知らない状態とはずいぶん違うと思うんですね。
――ええ、おそらく僕も福岡で森さんにお会いしたとき、原口さんというかたがいて寄せ場の釜ヶ崎の研究をやっている。その時初めて僕はジェントリフィケーションという言葉も聞いたんです。最初は「う~ん。僕が生きている世界とはまったく別個の研究をされている方だなあ」と思いまして。
原口:そうですか(笑)
――実は最初は「さすがにちょっと」と思ったんですよ(笑)。で、まあその後のいきさつは省きますけど、とにかく本を読んですごく会ってみたいと思ったんです。その準備の過程で学びながら思ったのは、おそらくさっきおっしゃられたように、さまざまな生き方の集約されているところとしてこの釜ヶ崎という場所があるんだろうなと思ったんです。
原口:はい。
――でもひとりでああいう場を歩くのは無理なので、やっぱり案内してもらったうえで話を聞いてみたいと。やっぱり行ってはみたいと思ったんです。場所を実際見ないで釜ヶ崎のことを聞くというのは到底無理だなあと思いまして。だからおそらくライフスタイルというのはいろいろあるはずで、もちろんぼくの生き方とはかなり違う世界だろうなとは思うんです。でも最初はひきこもりを研究している人を中心に話を聞いていたんですけど、徐々に広がっていって、やっぱりそこら辺、ジャンプしていかん局面だなあという風に思って今日に至ってるんで。やはりそうですね。苦しい自分と向き合ってはいるんだけど、向き合い方が単線的なものだとキツイですよね。想像力が働かないし、なかなか……。
原口:ああ~。そうですね。
――ぼくも幸いバイト先の人は特に学歴もないし、ほぼ同世代で早い段階から高校も定時制高校を中途で行かなくなった人ですけど、ものすごくフランクなんですよ。優しいし、センスがいい人で割と長く付き合いを続けられてるんですけど。だから普通の人は学問があるから理性があって、人の話がよくわかると想像するのでしょうけど、けしてそんなことはない(笑)。いや、もちろんそういう人もいるんですけど、そればかりではないと。逆に頭に来てしまう人もいる。まあ両方ですよね。
原口:大学の世界とか典型なんですけど、閉ざした空間の中だと性格がどんどんきつくなる人がたくさんいるし、外が見えなくなる人がすごく多くなっていますね。
――大学くらいになるとまたちょっと違うんでしょうけど、まあ大学もね。これもまた別様に大事な話で、大学も管理化が進んでいてすごいみたいですけど、やっぱり中学生とかつらいと思うんですよね。世界が狭くなっているようで。
原口:直線的という話がありましたけど、最近ぼくが良く見ているのは大学生ですけど、まず夏休み。夏休みもプログラムを入れられるようになっていますし。学生は本当、モラトリアムと言われた時代がどんどんなくなっているというか、入ったとたんにもう公務員試験まっしぐらに勉強してたりとか、そういう学生が多くなっているので、直線的にモノを考えてしまう。例えば公務員試験なら公務員試験につながるような最短を選ぶでしょうし、言い方を変えるとそこから落ちたときの恐怖心ってすごく大きいものがあると思うんですよね。そういった意味でもたぶん釜ヶ崎の社会の重層性がある意味でわかりづらくなる。自分たちが生きているその外側の社会で見えている面がだんだんと「多様化、複雑化」しているにもかかわらず、逆に想像力も弱くなっているし。それとともに、知らないがゆえの恐怖感というのがすごく大きくなっているように思うんですよね。
――まさにそうですね。だからキレイなところ。まあ、人のことは言えないんですけど、キレイで安心できるところにしか行かなくなってしまいますよね。
原口:そうですよね。
――ぼくは呑めない人だから夜の盛り場とか行かないんですよね。ですから盛り場の混沌、みたいなものは今の若い人でも楽しんでいるのかもしれませんけど。どうなのかなあ?と。さすがに釜ヶ崎クラスになるとまあ、「恐れ」みたいな。「怖い場所」。場所としての怖さ、みたいな?それを先に想像して意識的にいかないようにする。場所の確定みたいなものもあるのかもしれませんよね。こちらは安全で、こちらは危ないところ。だからこそゲーテッド・シティじゃないけど、安心と恐怖の場所を分ける。
原口:ただ釜ヶ崎のような場所が持つ怖さというのは、けっこう複雑な問いがあって、最近はある意味でいうと釜ヶ崎は外部の人が歩きやすくなっていると思うんですよ。昔に比べると。いわゆる紋切り型の、釜ヶ崎と言えば怖い場所というような距離感とか、広い意味での地域差別のイメージというのは徐々に薄まって普通の人がだんだん入りやすくなっているんです。
――ほう。
セグリゲーション
原口:「怖い場所」問題ですけれども。怖い場所のイメージには差別が貼り付いているのは間違いないのですが、一方である意味異質な場所だから怖いといわれるわけで、異質な場所とはどういう場所かというと、日雇い労働者が市民社会の攻撃から自分たちのコミュニティを守るための壁、という意味合いも含んでいると思うんですね。
――ああ~。逆に。
原口:地理学の言葉で「セグリゲーション」というのがあるんですけど。だいたいこういった街なかに排除される形で押し込められているというイメージなんですけれども。その中に自分たちのコミュニティを守る、自己防衛的にコミュニティを作るという意味も含まれているんです。やはりどちらも貼り付いているので、どっちかだけを引きはがすことはできないのが難しいところなんですけれども。ですから釜ヶ崎を例えば怖い場所から気軽に足を運べる場所にするということは必ずしもいいとは言えなくて、そうすることによって下手をすると労働者としてのコミュニティの独自性を守ってきたその壁を破壊することになりかねない。その危険性も常に表裏一体として持つと思うんです。そうなったときにどうなるか。どう考えたって立地としておいしい場所なので、資本が入ってくることになるでしょうし。そのあたりをどう考えるかがとても複雑で、例えば「怖い」というときには見下した語感になりがちですけど、「畏れ多い」という意味合いも実は多分に含まれているという可能性があるわけですね。
――ええ、そうですね。
原口:ぼくなんかもそうですけど、やっぱり入って間もない頃ってまずあまりにも目の前に映ることが異質で、ビビるというのもあるんだけど、よくよく考えてみたら釜ヶ崎って。…そうそう、これは重要なことだと思うんですけど。きょう70年代のドヤも見ましたけど、寝るだけの場所なんですよね。それ以外の食べるとか、喋るとか、休むとかという機能は街なかに広がらざるを得ないんです。すると街全体がリビング、ダイニングみたいな形になっていく。だから路上で座って喋ったりとか、寝たりとか、休んだりとか。しかもものすごい人口規模ですから、その数かずの労働者が路上を井戸端とかテーブルとかにして使っている状態が最近はすごく少なくなったんですけど、10年前はもっと濃密にあったわけです。すると釜ヶ崎の街の中に足を踏み入れるというのは、少なくとも僕の中でも怖さの要素のひとつというのは、何か人のお宅に上がるような感覚の敷居の高さ。
――「お邪魔します」と言わないで入っちゃうみたいな感じかもしれないですね。
原口:ええ。ズカズカ入る感じがあって。昔はカメラなんか持って入って行ったら怒られたものですけど。それは家の中にズカズカ入ることの失礼さにすごく近いものであって。だからそれこそ近代の話につながると思うんですけど、近代以降は個々人のプライベートな住宅というのがしっかりあって、その中に部屋があって、その一歩外がパブリックな空間で…という風に分けられた感じだと思いますけど、釜ヶ崎の場合はそういうパブリック/プライベートな空間の分け方になっていなくって、もう街全体がパブリックなものとプライベートなものがないまぜになっている状態で、それに最初に足を踏み入れる状態の敷居の高さと、ある種の畏れ多さみたいなものがあったと思います。そういうことを考えると必ずしも恐い場所、市民社会にとって怖い場所というものがネガティヴな意味とも限らない所であって。そういった畏れ多さという意味での怖さはもっと沢山あってもいいのかな、とすごく思うんですけれども。そのあたりの難しさというのは常にあって、ぼくもむかしは当たり前のように、釜ヶ崎が怖いところというのはメディアが付与した差別だとずっと書き続けていたんですけど、ある時期から「怖い」という所が急速に緩和されるようになったときに「このままでいいんだろうか」と思い始めて。こんなに気軽に足を運べていいものかと思い始めていますね。そのあたりは「怖い」と呼ばれるその内実をもうちょっとしっかりと考えていかなければいけないな、と思っているところなんですけどね。
――「畏れ多さ」ってすごくキーワードですよね。遠慮なしにズカズカ入っていい場所なのかという感じはとてもします。このような場は確かに人がたくさん路上に出てるということもありますけど、ぼくが割と視線に敏感というものがあるかもしれませんが、ある種パブリックな場所もプライベートな場所もないまぜになっている空間であればあるほど、やはり土足でそこに踏み込むことで自分が浴びる視線というのは、まさに異質な他人を視る。それは普通に知らない人間、どこから来た人間なのかというのを確認したい目線だと思うのですが、やっぱり視線を感じると、「あ、やはりここは入るのは敷居が高い場所だ」と感じると思うんです。それがなくなっちゃうと、それはそれで、「畏れ多さ」が「恐怖」の側に転換しちゃうと暴力があり、やくざがおり、何かネガティブな印象だけが伝わってくるんだけど、でもおそらくそこには独自な環境的な文化があって、そこに入っていくということはある種、別の人たちの聖域に入っていく。入っていって「行くんだ」ということに対する意識を持つ。
とはいっても聖域だから普通の人は入っちゃいけない、となってしまうとそこでやはり却って想像の中の恐怖はより増して強くなって。そこで何かアクションが起きるといっそう恐怖を一方的にこちらで感じてしまうこともありますよね。ですから媒介になる人がいて欲しいなというのは非常にありますね。
原口:そうですね。ただ、そのあたりはセグリゲーションが排除と暴力がへばりついているように分けがたいところなので。でもそうなんですよね。常に問われてるところではありますし。問いとしてはそこに何を見るか?というのが結局重要なのかなという気がするんです。いろんなストーリーが転がっているので、例えば誰もが感じるのは場所に踏み入るときの緊張感だったり、視線だったり、異質感・違和感。「別なものにふれている」というその衝撃だと思うんですよね。だから多くの場合は、たとえばゴミの不法投棄のような分かりやすいシンボルに食いついて、それが異質さの原因だというストーリーをだいたい作りがちなんです。あるいは研究者だったらその異質さの中にすぐ社会問題の病理を読み込んでしまうんですね。そこから先が問われるところなんです。これはひとつの問いなのであって、その敷居の高さ、距離感、そういったものの向こう側に何を見るか。このあたりがたぶん研究の問われるところかなと思うところで。
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