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要介護高齢者と住む者として最近思うこと

noteのテーマがこのところずっと認知症母の話で、くどいというか、大変さを強調しているようで申し訳ないところです。

⚫︎母親の近況
その母親の認知症は、ある種の帰宅願望とでもいうようなものが出てきていて、夕方から夜になると「明日は仕事で住んでいる寮に帰らなくちゃいけない」とか、「空き家になった部屋に帰らなくちゃいけない」とか。そこに、相変わらず我が家に住んでいると思い込んでいる祖母、祖父、叔母のことが話に入り込むので、ストーリーが入り組んでいて訳がわからない。
しかも、その母の行動目的の全体をぼくが把握していると思っているから、たまったものではなく。帰るところの電話番号はどこか、住所を忘れたが、住所録を持っていないのかと言われても、母の空想の別の家については分からない。

最近困るのは、実行が伴い出したこと。今では一人で外を出歩けないので、徘徊出来ないから助かるけど、二度、お店に電話した。一度はスーパー。もう一回は配食弁当を頼んでいるお店。後者は弁当に挟んでいる請求書の紙をメモ用紙がわりに裏側を使ってるのだが、オモテ面を見て電話をかけてた。自分の仕事先のヒントと思ってのことで、困惑しているお店の人に謝罪せねばならなかった。
先日は母の言う帰るべき家を確認するため、車に乗せて中央区まで出た。結局分からずに帰ってくるに決まっていたのだが、とうとうここまできたんだなぁと。新しい覚悟の連続だ。

⚫︎想像力が赴くところの限界とでもいうべきもの
人間、想像力が大事だと自分もすごく思っているけど、やはり実感が伴うことがないと難しいことだと思う。まさか自分がこんなに高齢者施設のことなどに特別な関心を持つとは思わなかった。熊本で犠牲者が出た特養施設、「千寿園」のことが切なくて仕様がない。
どんどん日本の被災がひどくなっているとは言え、毎年起こる自然災害の夏。特に今年はそこにコロナが絡んでくるわけで、格別に高齢被害者へと自分の気持ちのベクトルがむかってしまう。

ぼくは子どもを育てたことがないけど、なるほど、子育て世代の親は子どものことが日常ですごく気になるのだろうなぁというのがわかる気がした。自分が関心が薄くて分からないだけで。

⚫︎5年後の近未来
でも、ヒガミかもしれないけど、どうも高齢者の悲劇や大変さよりも、子どもへの眼差しのほうが世間では熱い気がする。
実際、人間も動物である以上、それが自然なことではある。動物は子育てはしても親の介護はしない。だから人間は良い意味で反自然的な存在なのだ。なので僕としては当面、反自然的存在として(肩をいからすのは不自然だとしても)いきたい、と思う。
でも、この反自然は同時に、これから5年後、2025年の問題には大事なことで、世間はこの問題にあまりに無頓着じゃないかと思う。団塊の世代が後期高齢者になる5年後には、4人に1人が後期高齢者になる日が近い。また、おおむね3人に1人が65歳以上の社会になる。こういう人口構成をもとに介護、医療、そして日本で毎年起きる自然災害をどう乗り切るか。

超高齢者の社会をどう捉えるか、どう持ち堪え、新しい価値観を構築するか。或は、それら一切を無視し、何らか従来の価値観をゴリ押しするか。けっきょく従来価値をゴリ押ししていこうというのがいまの政権の方法論で、どうもこの迫りくる超高齢化をあえて見ない方向に行きたいのが「コロナ辛抱、耐えられない」のいまの日本なのかもしれない。その感覚は高齢者自身も含まれると思う。都知事選や、いまの政府のコロナ政策に証明されている気がする。
それには暗澹とするけれど、でもこの九州の被災を見ていると、やはり「明るさ」で国家運営していこうという無理筋は政策的にもうバレ始めているとしか思えない。

日本は先進国の成熟における落日の最先端にいつのまにか唐突に立ってしまった。で、それは他の先進国のモデルケースになり得るかもしれないのである。あまりにも自然による革命的現象の力で、そこに目を背けることができなくなってしまった。そう言っていいと思う。

⚫︎茨戸アカシアハイツドキュメント
さて、ここでもうひとつ、コロナ禍での検証記事を取り上げたい。

それは介護老人保健施設「茨戸アカシアハイツ」の集団感染の検証記事である。ここでは死者が17人、感染者が職員含めて92人出たおそらく老人施設最大の集団感染であり、何より、札幌市の要請で陽性患者が当面施設内で療養して欲しいという要請が入った特殊なケースだ。地元の新聞で、7日から検証記事が出ている。以下、やや長いが引用したい。

「きょう入所者1人のコロナ感染が確認されました。他にも10人くらいが発熱しています」。4月26日午前、札幌市北区の介護老人保健施設「茨戸アカシアハイツ」から、札幌市保健所に1本の電話が入った(中略)入所者には寝たきりの人も、認知症で徘徊する人もいた。(中略)アカシアに保健所職員が着いたのは午後1時頃。保健所の医師は「救急車は呼びません」と言った。「施設内で見てください。病床がいっぱいで病院に介護する体制も整っていない」。当時、札幌市内の医療機関の専用病床は約270床。感染者急増で逼迫していた。施設一階の大部屋を「発熱部屋」として熱がある人を集めた。容態が急変し、喀血する人もいた。施設職員は「防護服の着方もよく分からない」まま看病し、入所者に声をかけ続けた。(中略)27日。発熱者のPCR検査の結果、新たに14人の感染が分かった。(中略)施設は機能不全に陥っていく……。


この後、施設職員は46人いたところ、5月3日には11人まで減る。最後の看護師が辞める。応援に入ったベテランの施設看護師も「何もかも分からない、経験のない場所に来てしまった」と思った。これは、テレビで自分が見た、応援医師の証言と全く同じで、いかにどこから手をつけていいかわからない医療戦場状態だったか、想像できる。この後も、保健所に施設職員は、「入院させてください、なぜ駄目なんですか」と訴える。しかし札幌市保健所の結論は病床逼迫と感染拡大、認知症などの介護の必要性を考えると移送は出来ない、というもの。「感染者が病院を動き回ったら大変だ。ベットに縛りつけるわけにもいかない」と。確かにそうかもしれない、でも職員が「もっと何かできたのではないか」と振り返るように、極端な話、ベットに縛り付けても、病院医療体制に移行ができなかったか。もちろん、受け入れを拒絶する病院がほとんどだろうが、この際、札幌市は病院移送への熱意を持つ職員はいたのだろうか。もし本気でアカシアハイツに閉じ込めていてはいけないと思えば、その熱意に応える病院もあったのではないだろうか。

5月16日にアカシアハイツ内にようやく現地対策本部が設置されるのだが、混沌たる状況から既に10日くらいは経ていると思われる。そこから徐々に陽性患者が病院移送が始まるのだが、陰性入居者と同居していたため、今度は陰性入居者をどうするかという事で、系列施設で受け入れが始まるのだが、系列施設でも受け入れてあげたくても、今入居している要介護者を思えば、系列職員も思わず反対の声を上げざるを得なかった。両者を守りたくとも、自分の施設に入居している人たちを守りたいと思うがため。

現在3回の検証ドキュメントを読む限り、本当に現場は葛藤し、苦しみ、入居者のために力を尽くして、ある人は力尽き、ある人は耐えた。苦労と葛藤の中で泥々に頑張っていた人たちだ。

それに比べて、自分もこの当時の市長の対応をテレビで見たけれど(視聴者からアカシアハイツへの質問だった)、あまりに淡々として、言葉悪く言えば、官僚的な響きを感じた。それは、現場の葛藤や懊悩の声とは対照的に思えた。

あえて、苦悩を隠して行政のリーダーとしての落ち着きを見せなくてはいけないと思ったのだろうか?心中は分からない。

⚫︎成熟社会の活力とは?
成熟社会の活力とはなんだろうか?誰も明瞭な答えを出せず、でも細切れなアイデアだけは野に放たれた場所で語られる。いまはそんな時期なのかもしれない。

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