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緊急事態宣言下の認知症母と過ごすGW

オープニング

久しぶりにnoteを活用してみようと思う。見出しに記載したように、緊急事態宣言下においては人びとみなが何らかの被害を受けていると思う。それは被害を過大に評価するわけではなく、平等に訪れた不自由や、日常のなかで顕在化しそうだけれども、顕在化させずにすませたものごとかもしれない。

で、それは日常化にも何らか予兆があったことだと思うけれども、あるいは信じられない環境に急に置かれたということでも、形はさまざまあるかもしれない。現下、経済の危急の困難に陥っている人たちならば、以下の日記はそれほど重要なことではないかもしれない。

二段目に書いたように、私にとって認知症の母親を看護というか、コーディネートしながら看ているということでは、症状は既にあるもので、このGWを自粛でともに過ごす時間が増えたことで顕在化して見えたことを以下に記す。

そして、今後できれば訪問看護師さんや訪問リハビリの人に残した母親の認知症状の固有性をメモしたことを改めてノートにおおむね、北海道で独自に出された緊急事態宣言(2月28日)頃に遡ってメモを転載したいと思う。認知症は今後多くの世代が家族で向き合うのは必定のことと思うので、そのための予備知識として認識していただければ幸いに思う。

5月6日

・GW自粛の家庭内問題
もう2ヶ月半以上外に出ていない母親だが、この四連休の在宅中、頻回な妄想的な訴え(統合失調症とは違う)と、「もう仕事にはいかない」(デイサービスのこと)という訴え。そしてその理由としての「もう身体が疲れた」という理由(実際にはまだ可動力あり)からくる人の世話にはなりたくない、という訴え。

・母親の中に生じた存在の不確かな感覚
母親のアルツハイマー症による中核症状としてある記憶力の著しい低下は、ぼくへの頻繁な依存的訴えになり、また、自分の家が自分の家と認識することさえ怪しくなった。ここにいるのも、仕事で家の管理として来ていると思っているらしい。来月には親戚の叔母が来るはずだと思っているとか、そういう理由も含めて自分はもう疲れたから仕事を辞めるとか。

幸い、出て行く力がないから、徘徊に結びつかないので助かってはいるが、なるほど、徘徊する心境と似たところがあるのかなと思う。
認知症の健忘を中核にして、訴えを聴く耳としては、自分の住処、居場所も「ここに自分はある」という”肉体と環境のつながり”を欠いた、ふわふわした不安定で落ち着かない感じがあるのかもしれない。

・幻視
それから日常的になったのは幻視。家の鍵には何度も確認をしたがるのに(怖いから)、知らない人、男性も女性もだが、そこに今いるでしょ、とこちらに確認を求めてくる。そのとき、恐れている様子はない。「いやだねえ」となんとなく不快感をこぼすくらい。これも頻回だ。
幻視を見ている渦中で、見えない人と話をしていることもある。上の階にいても喋っているのが聞こえる。そのため、本人に確認すると知らない人と話をしているとのこと。


今日も「明日仕事に行くから」「もうやめるというつもりだから」と朝から訴え。ぼくのほうから、「2月中旬から外出をしないようにしているでしょう」「もう3ヶ月近く家から外出してないでしょう」「どこへ仕事に行くの?」という、ついつい言ってしまう正論は、母親を感情的にさせ、答えは全て「知らないよ」で終わる。

・させられ体験
仕事(デイサービス)も何もかも、今の母親には全てが「私の知らないところで決められた」とのこと。わたしにも、わたしの考えがあるのに、勝手に全部を決められた。という母親の痛烈な(本当に痛烈な)気持ちがある。本人はもう少し認知力があったときは往診の先生やケアマネさんのデイサービスの勧めに応えてくれていたのに、いまでは「勝手に行かされた」と思っている(それも仕事で)。
そして、この「自分をバカにしている」という思いの反論として、わたしは専門職だった(保健師)。先生だった(看護学校の教務主任)。道庁勤めだった(衛生管理部)。というかつてのプライドに行き着く。
であるならば、訪問先でこういう今の母の状態をたくさん見てる、本人も言うように知識もある、経験もあるなら。

ぼくからいえば、「わかることでしょう?専門家だったんだから」というド正論的な言い方は、必ず眉間にシワを寄せて「知らないよ」という否定に終わる。
流石にそういう状態像に哀しみとセンチメンタリズムに浸る暇もないが、とにかくこういうシュールなやりとりで毎晩毎朝付き合わされるのには覚悟してはいたが、大変疲れることだ。

・シュールな話に時間を奪われる
わりと「もう明日からわたしはやらない」みたいなことを、「ちょっと話がある」みたいな改まった切り出しから始まるので、「またか」という思いと、「何事か」という思いがまぜこぜにつきあって話を聞き始めても、いつのまにか話の筋がどんどん広がり混沌としたりするので、こういうことに有に小一時間朝と晩に付き合わされると、自分の時間をかなり奪われるので本当に大変だ。
結局は、本人はそのときの思いつきが即座に忘れたり、大きな決断めいたことが話しているうちに本人はどうでも良くなっているので、何度もそういう場面に遭遇しつつ、こちらとしては感情のモヤモヤが残るのは確か。

・新たに生じた「させられ体験」のようなものと、それを救済する「急速な健忘」
あと、最近気になるのは、統合失調症に似た、「させられ体験」のような訴えが増えたこと。幻視もそうだし、ぼくが誰かに母親についてこうした、誰だか知らない人だけど、きてくれと言われてる、叔母(母の妹)が頼んできたのに、返答がないとか。
この、母親の主観の中にあり、誰かに何かを操作されてる感覚や、自分の家が自分の家であることの実感性が減っていること、それらの自己存在と環境の不確かさは母にとって深刻なアイデンティティクライシスじゃないかと思うのだが、それを全体として救っているのは、「おおむねすぐに忘れる」ということだ。不確かな環境と自分との関係の一瞬の自覚はすぐに忘れられる。持続性のなさが現状では母を救ってくれているのかもしれない。


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