母親の認知症との付き合いについて

午前四時半、深い眠りに入っている時(REM期)に母に起こされた。石狩当別に住む叔母から呼ばれているから行かなければならない、車を出してと。昨夜の夜からせん妄があり、ぼくに対して当別から手紙があったじゃないか、貴方に渡したんじゃなかったか。と言っていた気がするが、その妄話も落ち着いて貰ったつもりだったが、何かまだ昨夜からそのことがつながっていたらしい。

すっかり深い眠りをとられてしまい、再眠出来なくなってしまったので、最近の母の様子を記す。深夜から早朝にかけての時間に起こされて余裕があるのは今日のように休みで、明日も祝日だからだが、これが平日だと相当に頭に血がのぼるだろう。幸い今のところせん妄で深夜に行動に巻き込まれることはなく助かっているが、今後はどうなるだろうか?考えれば、この冬に入って2ヶ月ぶりの2度目かと思う。夜中に起こされるのは。最近は1日1日変容に合わせてけっこう濃密である

実は要因は考えられて、水曜から金曜日にかけて介護で母の外部との関わりが3日続いたのが大きいと思う。訪問看護師さんにSOSを出し、具体的な困りごとを印刷して渡し、それがケアマネに送られ、週一の訪問洗髪と、月一のショートスティ(外泊)を入れてもらい、外に委ねる部分を増やしてもらったこと、そのための担当者会議で5人くらい集まったのが木曜日。水曜は月一の医者と看護師による訪問往診。そこに医学生がつくという形で人集まりが多かった。その中でひとり多弁だった母がいた自宅での水曜日、木曜日。

極寒の金曜日は1日のデイサービス日で、さすがに体調的に無理しないほうがいいかなと思ったがちゃんと通して過ごしてくれた。それらぜんたいの反動があったかなとおもう。

なぜ当別の叔母にこだわるかというと、親類縁者で気兼ねなく付き合ってくれるのは電話で話せる当別のその叔母だけだからだ。母方には兄弟が多いが、みな90越えかその年齢に近い。母系型の母、また、記憶がそこに根を持つ母は、その時代の人たちが(健在と見込んで)家にきてくれないというかたちでの見当識障害がときおり顔を出す。金曜夜に電話をかけて当別の叔母と話しているのを聞くと、「デイサービスには保健師の仕事のアルバイトで通っていて」「お金はどうして貰えないのだろう」と、家でぼくに対して言っている話していて青くなる。おそらく叔母は認知症と分かって母と電話で付き合ってくれているのだろう。いずれ感謝と謝罪をしないと、と思えば気が重い。

安心の記憶は?

ちなみに母の懐かしい記憶がいまありありと浮かぶのは二十代くらいまでで、一度も夫である親父の思い出が出てこないし、母のところにもやってこない。夫は辛いね(苦笑)。

まあ、母にとって一番社会的に安心だったそこそこの大家族時代、社会に飛び出た(戦中期も含めて)時期が改めて懐かしい記憶なのだろう。いまの中央区。大通りの長屋に住んでいた時代だ。(ちなみに父が亡くなって戸籍簿を調べてみて分かったのだが、母と兄、ぼくが小1まで住んでいた大通り(いま近代美術館が側にある)へと本籍が移されてあった。おそらく母方一族と同一居住でのマスオさん状態が嫌になって、東区に自宅を構えたのだろう。母系に飲み込まれそうで怖くなったのかもしれない)。

かように記憶が過去と現在がありありと混濁しているので、家に母の両親、つまりぼくの爺さん、婆さんと同居している気になる発言が出るのが傾眠から醒めるたあと、熟睡から覚めたあとの時だ。大抵は夕食を共にしたあと、夜の8時台後半に必ずふうふうと言いながら上に上がってきて、真剣な声で「あんたぁ、食事したのか」と聞く。したじゃないの、一緒に。と言うと、「他の人たちは?」と必ず聞く。少し前はほかには誰もいないよ、ふたりだけだ、と苛々して言い聞かせたが、最近は「おじいちゃんは、お父さんは?おばあちゃんは?お母さんは?」と聞くので、言い聞かせはやめた。安心が必要だろうからだ。ちなみにぼくの名前も7割方忘れられて、たいがい当別のおばの名前で呼ばれる。傾眠下の意識低下なので仕方がない。意識がしっかりしている時は大丈夫だが。

デイサービスでの様子がわからず、一度不安で電話で様子を聞いたが、様子がおかしいことはないようだ。また、「仕事で行っていると言ってますが、そのような話に合わせてくれているのですか?」と聞くと、笑って「仕事とか、そのようにおっしゃられたことはないですね」とのこと。おそらく現実見当識に合わせようとデイでは頑張っているのだろう。

毎週来てくれている看護師さんは家に着いたら傾眠状態だったり、熟睡していたり、ときおり「見えない話」をしているとのことのようなので、心を許しているのかもしれない。看護師さんとはノートでやりとりしているので、関係づけは良好に進んでいる気がする。医師は名誉院長なのだがたいへん腰が低くて、帰り際には「長生きしてくださいね。お願いしますよ」と握手して帰られる立派な先生でありがたい。願わくは精神科医であればと思うのだが、そこまでは難しい。

認知症に精通する中井久夫のような医者は現れるだろうか

例えば、中井久夫氏がいま現役で壮年医師の精神科医だったらなぁ、どんな記述をしてくれるだろうと無い物ねだりしたくなる。中井久夫氏による統合失調症患者の寛解過程論は、病理に着目するより心身の安定過程に寄与するたいへん微細な心配りや構えが具体記述されていて、主に看護のラインで読み解くとピッタリするように思われる。ある部分ではソーシャルワーカー的な観点もある。つまり中井久夫の見立てやひとりの患者の養生の心身への細やかな視点は、いまは分業されて、看護師、薬剤師、デイサービス、内科医師、ショートスティに分化され母への総合的で濃密な関わりとして、あると思う。

それらを束ねてコーデネートしてくれるのがケアマネジャーだが、ぼくの鍵もこのケアマネさんとの十全なコミュニケーションなのだろう。

だが、いまのところ心身面を含めて了解共同しやすいのは看護師さんの感じがする。

80年代の中井久夫氏の認知症に関するエッセイは、ぼくが知る限りでは統合失調症の慢性期の人たちに似るような記述で、残念ながら現在からは得るものは少ないと言わざるを得ない。(ご本人も文庫本の付記で「何も分かっていなかったのが正直なところである」と記されておられた。『老年期認知症の精神病理をめぐって』ー「つながり」の精神病理(ちくま学芸文庫))

考えてみればぼくが最初に精神分析セラピーを受けていたのは単科精神病院で、そこも90年代後半に入ってだんだん認知症患者や専用病棟が増え、統合失調症の人は病院のそばにアパート住まい、そこに精神科のベテラン保健師さんが訪問するのを見かけ、ぼくのセラピストは主に高齢者の内科を兼任する、という状況に変化してきていたと思う。

認知症に対する対応の蓄積はどこまできているのだろうか

加えて言えば、ぼくが通信で社会福祉士の資格を取得した97年頃。一緒に勉強会に参加していた老健施設のソーシャルワーカーさんが働くことをニュアンスとして施設を見学させてくれたことがあった。

そのとき見て強く印象に残ったのは、普通の入居室と、鍵がかけられた認知症入居棟のものすごい落差だった。正直、認知症棟は、「これは精神病閉鎖棟に近いものなんじゃないか?」と思った。ぼくは精神病院の閉鎖棟は知らないけれども。とにかく状態像の印象の強さと、その人数の多さにびっくりしたし、明るい普通入居室との落差に驚いた。

また、そのときグループホームも見せてもらったと思うけど、そこは家の延長上にある感じで、こういうカルチャーもあるのか、とまた印象に強く残ったものだ。

それから約20年、ずいぶんと時もたち、考えてみれば自分の家もそういう場に近くなってきたんだな、と感慨深い。(これからまた20年経つと、今度は自分の問題となる)

これから認知症の時代が来るわけだから、認知症予防や撲滅薬研究も大切だけど、今後若くて中井久夫さんのような心身一如と物心共にの関係性に感受性が高い精神医師が現れてくれるものだろうか。

時代の必然があるので、現れるだろうとぼくは楽観はしている。また、そう祈りもするところだ。


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