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宇野重規 「日本の保守とリベラル」第五章 丸山眞男における三つの主体像(後編)読書会用



宇野における 丸山眞男の主体像の変遷

国民主体(3節)→ 自己相対化主体(4節)→結社形成的主体(5節)


3.主体とナショナリズム (P.145〜156)


主体とナショナリズム⇨ 『日本政治思想史研究』の第三論文の位置付けとも関わる。



※主体とナショナリズムの関係は決して自明ではない。

丸山は戦中から戦後しばらくの時期まで執拗にナショナリズムの問いを続けている。(「福沢における秩序と人間」(1943)「超国家主義の論理と真理」(1946)、「陸羯南ー人と思想」、「日本におけるナショナリズム」など)

⇨  『日本政治思想史研究』のあとがき(1953)においても、「現在の私の課題と比較的に一番直接に連続するのは第三論文である」。1945年の書簡では、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」に託して、「国家の運命を自らの責任において担う能動的主体的精神」を求めて終わる。

・『日本政治思想史研究』第三論文は、「国民とは国民たろうとするものである」で始まる。単に同一の国家に所属するという事実では足りず、文化的一体意識とも区別される、政治的一体意識を持つことが必要である。国民が国家に結集することは、郷土愛や環境愛とは違い、一つの決断的な行為である。(「日々の国民投票」の契機を有する)

⇨ このような「国民主義」が成立する前提として、国家と国民の間に介在し、その直接的結合を妨げている「仲介勢力」の排除が求められる。

⇨ しかし実際の明治維新は庶民の間から成長した勢力によってではなく、むしろ「仲介勢力」を構成する分子によって遂行されてしまった。これこそ維新の問題であり、「国民主義」の形成はあくまで前期的なものにとどまった。

人民の政治主体としての覚醒を欠いたナショナリズムは、丸山にとって「国民主権」ではない。


また、丸山によれば攘夷論はしばしば鎖国論と混同されるが、事実は吉田松陰や佐久間象山のように、むしろ熱烈な攘夷論にして、積極的な開国論者もありえた。


丸山にとって維新後のナリョナリズムの展開の可能性としての人物、事象として福沢諭吉、陸羯南、自由民権運動がある。

中でも維新後に一番注目するのは福沢諭吉。

 彼は個人主義者たることにおいて、まさに国家主義者だった。

国家を個人の内面的自由に媒介せしめたこと。福沢諭吉という一個の人間が日本思想史に出現したことの意味は、かかってここにあるとすら言える。(「福沢における秩序と人間」)

「一身独立して一国独立する」ー「秩序を単に外的所与として受け取る人間」から「秩序に能動的に参与する人間へ」。


 現実は、特に日清戦争後、日本の近代化のいちおうの達成に伴い、感覚的な衝動の解放、「近代的な個人主義と異なった、非政治的な個人主義。政治的なものから逃避する個人主義」が蔓延する。➡️ 一方に個人的内面性に媒介されない国家主義、他方に全く非政治的な個人主義が併存・あるいは相互に補完するようになる。さらにこのような個人と国家の内面的媒介は、歪んだ日本ナショナリズムを生み出していった。民衆からの能動的な連帯に依存しえなくなった明治政府は、国家教育によって上からの愛国心創出へと向かい、日本ナショナリズムはウルトラ・ナショナリズムの道を歩む。


※この頃の丸山のナショナリズム論


1・丸山の「国民」像は、あらゆる夾雑物を排除した自由で平等な個人から構成される等質的な一体性を持つ(ルソー的?)

 故に、「仲介勢力」あるいは中間権力の排除が必要である。その時初めて個人と国家の内面的媒介が成り立つ。この内面的媒介はあくまで政治的なものであり、観念やイメージによるものではない!(ルソー?)

2.国民のこの一体性は、封建的家父長制や、故郷・環境といった自己との感情的一体化をする一次集団への愛着とは完全に区別される。国民であるということは、自覚的な決断的行為なのである。

3.ナショナリズムが、国家を超えた世界の認識。視圏の拡大と結びつき得る。

 つまりヨーロッパの国民国家形成は、ローマ教会や神聖ローマ帝国という普遍的宗教的権威との緊張関係が前提にあり、主権国家の成立もその普遍的な国際社会との緊張関係において実現した。日本の場合、国際社会の中からではなく、むしろその中へ引き入れられることによって、近代国家としてのスタートを切った


 『日本政治思想史研究』の最初の二つの論文では、丸山が考える主体は、社会契約論へと展開していく可能性が乏しいものだった。あくまで被治者の立場にとどまり、政治的関心を持たなかった江戸時代の庶民にとり、対外脅威こそが封建的関係を打破し、政治主体として覚醒し、国民になる機会であった。丸山はナショナリズムの毒を自覚した上で、極めて限定的に、佐久間象山ー吉田松陰ー福沢諭吉ー陸羯南と続く健全なナリョナリズムの系譜を評価した。


※発表者の疑問(ここでは、一旦挙げるに留めます。態度変更?もふくめて又改めて同じ疑問に出会うので)⤵︎
丸山眞男が1940年代に考えた「個人と国家の内面的媒介」(しかも極めて直接的な、仲介物を持たない形での)。は、ルソーの難題である社会契約論の「一般意志」に極めて近い印象を持つのだけれども、この疑問はどう考えるべきだろうか??


4節 福沢論における転回ー自己相対化主体(P.156〜164)

丸山眞男集 第三巻(1946~1948)


 前節におけるように、丸山のナショナリズムのキーワードはここまで「個人と国家の内面的媒介」があってこそ、ということであった。

 しかし、そのような概念枠組みには収まらないもの、はみ出すものがその後の丸山の思索の重要な位置を占めていく。事実1950年代半ば以降、丸山がナショナリズムを論じることは稀になっていく。⇨それは何故だろうか?


前節の丸山のナショナリズムの中心軸であった「国民主体」像に収まらない、別の主体像が1947年に発表された重要な福沢諭吉を論ずる二つの論文「福沢に於ける「実学」の転回」(以下、実学)と、「福沢諭吉の哲学」(以下、哲学)であり、そこから見られる主体像に変化が見られる。


ここで、かなり乱暴に、丸山全集掲載された「実学」と、「哲学」を読んだ内容から。


※「実学」 

江戸の実学は、武士には公理の学問として林羅山を祖とする朱子学、庶民には石田梅岩の「心学」があった。

武士⇨「天ハヲノヅカラ上ニアリ、地はヲノヅカラ下ニアリ(中略)上ハタツトク下ハイヤシ」

庶民⇨「天下の御正道に背かぬが即ち民の心学なり」(石田梅岩)

福沢の実学⇨江戸のこれらとは違い、非俗な日常生活のルーティンに固着する態度とは全く反対に、日常性を克服して、知られざる未来を切り開いていく想像力によって絶えず培わられるべきもの。逆説的に言えば、アンシャンレジームの学問が斥ける「空理」への不断の前進こそが、生活の学問とのより高度の結合を保証する」(「実学」集3巻125ページ)


丸山によれば、福沢の「実学」は江戸時代の他の「実学」とは全く異質で、その意義は「自然を一切の主観的あるいは社会的価値から切り離して捉えること、すなわち客観的自然の発見であった。それを可能にしたのが、環境に対して主体性を自覚した精神であり、無媒介に客観的自然と対決する自己の発見であった。このような精神こそ、社会からの個人の独立を可能にすると丸山は強調した(本書:p。158)


福沢は近代自然科学がその成果よりはむしろそれを生み出す「精神」からとらえていた。しかし我々はヨーロッパ思想史においてこの両極の結合がやがて痛ましく崩壊していく過程を知っている(中略)啓蒙期に於ける化学進歩の無限性の楽天的信仰は恐るべき幻滅と宿命感にとって代わられた.進化論の教えた自然淘汰はこの幻滅を決定的にした(中略)福沢は果たしてこの近代精神の一極たる科学主義に内在する問題性に果たしてまたいかなる程度まで対決していたか。(「実学」集3巻P.128)


・「福沢諭吉の哲学」―「福沢に於ける「実学」の展回」の本論である。


 丸山は、『文明論乃概略』冒頭の「議論の本位を定むる事」に注目する。そこに価値判断の相対性の主張を見出す(本書P.158)。


「概略」のなかで展開せられているさまざまの論点の伏線は悉くこの第一章に張られているのであり、その劈頭のテーゼは、(中略)「概略」を貫く、いな、ある意味では福沢の全著作に共通する思惟方法を最も簡潔に要約しているのである。

 まずこのテーゼの意味するところを最も広く解するならば価値判断の相対性の主張といういことに帰するであろう(中略)我々の前に具体的に与えられているのは、決して究極的な真理や絶対的な善ではなく、ヨリ良きものとヨリ悪きものとの間、ヨリ重要なるものと、ヨリ重要ならざるものとの間、ヨリ是なるものとヨリ非なるものとの間の選択であり、我々の行為はそうした不断の比較考量の上に成り立っている。(「哲学」集3巻・p.167)


このような価値判断の相対性を可能にするのもまた、人間精神の主体的能動性に他ならない。価値を固定化せず、具体的状況に応じて流動化しつつも、判断を回避することなく新しい状況形成に対応していくのに、主体性は欠かせない。(本書:P158〜159)

     ⬆️

 この主体にとって、国家の結びつきは関係ない。むしろ重要なのは、「交通」である。
 (本書P.159)

即ち、固定的な社会関係が破れて人間相互の交渉様式がますます多面化することが社会的価値の分散を促し、価値基準が流動化するに従って精神の主体性はいよいよ強靭となるとするならば、社会的交通(人間交際)の頻繁化こそが爾余の一切の変化の原動力に他ならない。かくて、近代西洋文明の優越の基礎も究極においては、この交通形態の発展に基づく。(集3巻・p.192)

この点で、福沢が関心を最も惹きつけたのは当然に19世紀初頭の産業革命であった。

「千八百年代に至て蒸気船、蒸気車、電信、郵便、印刷の発明工夫を持って此交通の道に長足の進歩を為したるは、恰も人間社会を顛覆するの一挙動と云うべし」(集3巻・P
.192)


彼ら(西洋文明)は「交通」や「通信」を、何より言語と思想の移動として理解していた。


「福沢の哲学」でもう一つの重要な論点は、「権力の偏重」(あるいは集中?)に対し、多元的な自由を対置した。
「自由の単一支配はもはや自由ではない」「自由は強制されない」(丸山)


「自由は強制されえない」事を確信したればこそ、人民にいかなる絶対的価値をも押し付けることなく、彼らを多元的な価値の前に立たせて自ら思考しつつ、選択させ、自由への途を自主的に歩ませることに己れ(注:福沢)の終生の任務を見出したのであった。


ここに丸山のなかでのルソー的なもの、あるいは《国民主体》的なものへの距離感をーそれを放棄したわけではないにせよー見てとれる。

 このような丸山の主体像を《自己相対化主体》と呼ぶことが可能だろう。この主体は、「交通」空間において、絶えず自らの思考を反省し、相対化し続けるからである。



なるほど、と思いながら丸山の中のルソー的なもの(想像するのは、おそらく「社会契約論」の「一般意志」という非常に難解な思想)おそらくそれは「国民主体」という言葉で宇野が定義し、表現した思索はどのように背景に引いたのか?その理由が知りたい。それは自然な変化なのか?改めて発表者の疑問です。

以下、本書より、非常に興味深い《自己相対化主体》像に連なるポイントが拾われていて、それが大変説得力があるので紹介します。

それは①「フィクションの精神」②「距離を置いた見方(良識)」③「ユーモア感覚」④「他者感覚」です。

① フィクションの精神―丸山によれば、近代精神とは、フィクションの価値と効用を信じ、これを不断に再生産するものである。制度・組織・機構といったものはフィクションであり、人工的なものであるが、この抽象化された現実を抽象と知りつつ、むしろ尊重する精神がフィクションの精神である。例えば社会契約論は、たとえや正当化の方便ではなく、現実を律する機能を果たす。逆にこの精神は、フィクションの実体化も排する。

「フィクションの意味を信ずる精神というのは、いったん作られたフィクションを絶対化する精神とはまさに逆で、むしろ本来のフィクションの自己目的化を絶えず防止し、之を相対化すること」(集第4巻・P.220)

フィクションを実体化すれば、フィクションを使いこなすどころか、むしろそれに支配されることになる。「国体」が、まさにその例に他ならない。


② 物事を距離をおいて見ること ー 丸山は良識を、物事を距離を置いてみることと定義する。それは傍観や、物事にコミットしない無責任な態度とは違い、自分自身をも隔離する精神、自分の全ての行動の持つ政治性を冷静に見据える態度である。丸山は状況を固定化してとらえたり、あるいは状況に追随するのでもない、いわば状況的思考が政治的に重要であるとする。(講義録・第三冊) そのためには、自己の政治性を距離を置いてみる良識が必要なのである。


③ ユーモア感覚―ユーモア感覚とは政治的成熟や余裕と切っても切り離せない。それゆえイギリスにおいてはユーモア感覚が発達し、独裁者の笑いにはそれが欠けている。丸山によれば、ユーモア感覚とは、自分の目的、自分の志望、自分の観念から自分自身を隔離する能力であり、それがないと自らの観念や思想の奴隷にもなりうる。


④ 他者感覚―自らの否定する立場を自らのうちに想定し、その立場に立ってみて自己と再度対話してみること。この能力の欠如した自己中心的な世界像を、あたかも「自我意識」の目覚めであるかのように錯覚しているのが、戦後の日本に他ならない(『自己内対話』(P.242)。
 逆に他者感覚の欠如した日本において、誰もが自立せず、他人にもたれかかっている結果、自らの個性を否定せざるを得なくなっている。また他の文化を理解するのも、他者感覚である。安易な接合ではなく、「まずそれを徹底的に自己と異なるものと措定してこれに対面するという心構え」(集・第7巻)こそを丸山は重視する。


このように、絶えず自己に対して距離を取り、自らの思考を相対化し続ける。この態度を失うことを、福沢は「惑溺」という。本書のテキストの解説に加えて(本書P.163) 「福沢諭吉の哲学」から拾えば、

「惑溺」とは、それはあらかじめ与えられた基準をいわば万能薬として、それにより縋ることによって、価値判断のたびごとに、具体的状況を分析する煩雑さから逃れようとする態度である。そうしてそのような抽象的規定基準は個別的行為への浸透力をもたないから、この場合彼の日常的実践はしばしば彼の周囲の環境への単に受動的な順応として現れる。従って公式主義と機会主義とは一見相反するごとくにして、実は同じ「惑溺」の異なった表現様式に他ならない。(集3巻・p・177〜178)


「惑溺」がある種の内在主義であり、フェテシズムであるとすれば、丸山の《自己相対化主体》とは、その内在性に閉じ込められないこと、絶えず自己批判的な距離を保つこと、その上で選択し行動することに他ならない。そのために必要なのが、交通であり、他者であった。


5.丸山におけるトクヴィル的契機―結社形成的主体


 丸山の福沢論における強調点の変化こそ、丸山の時々の関心の移動を検討するのに最適の素材を提供してくれる。(本書)


「『福沢諭吉選集』第4巻」(1952)において丸山は、トクヴィルに言及しているが、それが丸山いうところの「ルソー=ジャコバン型民主主義」との対比においてである。丸山によれば、福沢は政権と私権との均衡と拮抗を重視し、その意味で、「普遍意思(一般意志)の論理によって、国民と政治機構を一体化するルソー=ジャコバン型民主主義は明らかに彼(福沢)の排するところであった」(集・第5巻)

その際に福沢に影響を与えたのが、民主的専制に対するトクヴィルの批判であった。福沢は政治的権力の一体性・集約性は否定しないものの、行政権力の集権が国民の公共精神を減退させると批判し、自由と先制の矛盾的結合に対抗して地方行政の広範な分散を構想したが、これはトクヴィルの影響によるものであった。福沢は人民の多元的な自発的活動を擁護し、政治権力による干渉を排除しようとしたのである。


※発表者感想

⇨ここにおいて、ルソー=ジャコバン型の傾きがあったと読み取れる丸山眞男の国民主体像が大きくトクヴィルの考えに変容した思想展開の変容はどこにあったのだろうか。福沢の影響か。(たびたびで申し訳ない)


丸山は『福沢諭吉』(1953年)においても、福沢がいわゆる「権力の偏重」を批判するにあたって影響を受けた思想家として、バックル、ギゾーらと共にトクヴィルの名をあげている。

 しかし、このように多分にトクヴィルに引きつけられた福沢像は、丸山のそれ以前の福沢像、すなわち国家を個人の内面的自由と媒介させた思想家としての福沢像と、ずれがあるのではないだろうか。(本書)


第二節で検討した丸山の《国民主体》がまさしくルソー的な民主主義であったとすれば、ここに丸山の態度変更を見出すことができる。(本書、脚注(4)を参照のこと)


 いずれにせよ、この時期の丸山のトクヴィルへの傾斜は著しい。特に重要なのが自主的結社の重視である。

『政治の世界』(1952)で、以下のように述べる。

「民主主義を現実的に機能させるためには、何よりも何年に一度かの投票が民衆の政治的発言のほとんど唯一の場であるというような現状を根本的に改めて、もっと民衆の日常生活のなかで、政治的社会的な問題が討議されるような場が与えられなければなりません。それにはまた、政党といった純政治団体だけが下からの意思や利益の伝達体となるのではなく、およそ民間の自主的な組織(voiunary organization)が活潑に活動することによって、そうした民意のルートが多様に形成されることが何より大事なことです」

 その際の導きの糸が、丸山におけるトクヴィル的契機なのである。

 丸山は『政治の世界』で、現代社会の特徴として、生産力と交通手段の発達により、政治権力はむしろ支配領域を拡大し浸透力を増したのに対し、大衆はむしろ非政治的態度を示すようになってきていることを指摘。その結果可能になったのが、民主的基盤の上に立つ独裁制である。丸山はこのような問題に対する処方としての自主的結社を強調しているのであり、結社に期待されているのは、大衆に日常的な政治的経験の場を与えて公共精神を喚起し、それによって画一化に抗して民主主義の健全さを維持する役割であった。

※ 明治の重要な自主的結社としての「明六社」の意義を強調。

「明六社のような非政治的な目的を持った自主的結社が、まさにその立地から政治を含めた時代の重要な課題に対して、不断に批判していく伝統が根付くところに、初めて政治主義か文化主義かといった二者択一の思考習慣が打破され、非政治的領域から発する政治的発言という近代市民の日常的モラルが育っていくことが期待される」(『開国』(1959年)

政治を活性化するためにも、非政治が政治から独立した次元を保ちつつ、政治に対して働きかけていくことが重要。


結社論として見逃すことができないのは、「個人析出のさまざまなパターン」(1968年)。

丸山はこの論文において、「近代化」過程における伝統的共同体からの個人の「解放」を普遍的な現象とした上で、析出した個人が社会に対して抱く意識を4つのタイプに分類している。

求心的―遠心的、結社形成的―非結社形成的の二つの座標軸によって区分される四つのタイプは、それぞれ自立化・民主化・私化・原子化と名付けられる。


丸山はこの区分を用いて、主に日露戦争と関東大震災直後のそれぞれ数年を分析している。この分析のポイントは、個人析出が主に私化と原子化という形で現れた点である。それに当たるのが両事件後に現れた非政治的な青年や知識人(「文学青年」から「モボ・モガ」へ)、あるいは未だ階級を形成するに至らない急増した新産業の労働者である。

 これらの青年や労働者は、運動の高揚期には原子化した形で急進的大衆運動を形成するが、後退期には私化に向かう。すなわち、結社形成型への志向は微弱であり、自立化・民主化タイプは少数であった。急進的運動と完全な政治からの逃避とに両極分解してしまった。丸山の問題意識はこの点に、特に結社形成の契機の希薄さは、丸山にとって深刻な問題であった。丸山は、福沢もまた結社形成の伝統の欠如を問題にしていたことに注目している。(福沢は、「私の企て」の伝統が日本社会において欠如し、それゆえ「集議」の精神が生まれてこないことにこそ、日本社会における「権力の偏重」も関わっていると考えた)

丸山は「権力の偏重」に対する結社の精神の欠如を、過去に遡って考察する。「忠誠と叛逆」において、徳川体制においてすでに「武士階級だけでなく、寺院・商人・ギルド・村の郷神等の多元的中間勢力の広範な分散と独立性」が弱体化していたことが、「身分」や「団体」の抵抗の伝統を底の浅いものとし、それだけ明治政府の一君万民的な平均化比較的容易に行われる基盤」となった。


丸山の問いとして、

第一に中間団体の自主性がそもそもなぜそんなに弱かったのだろうか?

➡️ 石山本願寺の攻略、キリシタンの弾圧、寺請・檀家制度の成立。それらが他のいかなる文化圏にも先駆け、例外的に早い世俗化の実現を意味した。その結果政治権力は、「人間の精神と行動を統制する上での最大の社会的ライヴァルを持たなくなった」

歴史的に、宗教の政治からの自立こそ、他の文化の政治から自立のモデルとなり、宗教集団こそが自発的集団のモデルになって来た。

⤴︎

前述してきた、

ヨーロッパの国民国家形成は、ローマ教会や神聖ローマ帝国という普遍的宗教的権威との緊張関係が前提にあり、主権国家の成立もその普遍的な国際社会との緊張関係において実現した、という説明がこれに対応する。

この「緊張関係」を我が国が持たなかったがゆえに、いかなる自発的集団も最大最強の政治集団たる国家というリヴァイアサンに容易に併合され易いという事態も生じた。(先の大戦期の既存の仏教、キリスト教の国家との向き合いかたを考えてみたい)


第二に、微弱であれ残っていた中間団体の伝統が、なぜ明治以後の新しい自発的集団に生かされなかったのか。

➡️ 明治における急速な「近代化」は、伝統的な階層や地方的集団の自立性を解体しつつ、底辺の村落共同体は温存し、それをそのまま天皇制官僚機構とリンクさせた。それを可能にしたのが、山縣有朋の推進した地方「自治制」であり、この共同体での地主=名望家支配であり、さらに両者を正当化するイデオロギーとしての「家族国家」観であった。

丸山は『忠誠と反逆』(1960)の中で権力への抵抗のエートスを鎌倉武士のエートスに見ようとするが、江戸時代に武士は官僚化・儒教の士大夫化した。ただ、幕末維新期に最終的な噴出を見せた。

明治30年代以降完全に消滅したのが、このエートスに基づく主体性であり、その背景にあったのが上述の中間団体の解体と自発的集団の未発達であった。


では、丸山が想定する《結社型形成主体》となり得る主体は日本の歴史上見出しえるか。そこにみられる「内面的規範意識とプライド」はやはり普遍性をもつ世界宗教であった。しかし徳川体制は仏教で自立的規範意識を持つ「一向宗」を従属化させ、あるいは超越性はなくとも、内在的普遍性の契機をもつ儒学を固定した身分制の中に埋め込み、普遍性を希薄化させる事に成功した。


丸山が自発的集団のモデルとして宗教集団を重視するのは宗教集団が持つ非政治的精神的次元と、それに基づく秩序価値への緊張関係に注目したからである。

※ここで再び発表者の疑問
 かつて丸山は国家と国民の間に、仲介勢力」あるいは中間権力の排除が必要だと説いたが、こちらの論考では自発的集団や世界宗教の集団を強く肯定しているように思われる。この理念の断層はどう捉えたら良いか。

6.丸山の「複眼性」

丸山は国民主体、自己相対化主体、結社形成的主体、いずれの主体像も最後まで、決定的に放棄されることはなかった。

確かに丸山には互いに矛盾し合う諸契機が併存しているかに見えるが、むしろ丸山の思索の過程の最大の意義は、主体を単一のイメージに収斂させ、ある特定の社会基盤とだけ対応させることの不可能性を明らかにしたことにある。

丸山にとっての真の主体性とは、これら主体の諸レベルを自由に行き来することにある。そのことによって近代の主体の狭さを乗り越えていく道を示唆しているように思われる。

国家・交通機関・自主的結社の複数の層を往還する主体によってもたらされる「複眼性」こそ、丸山のテキストを読み続けていくことの可能性の中心ではないだろうか。

付記:直近で気づいたのですが、プ·ジョンミンさんという京都大学の研究者のかたが、「丸山眞男論を捉え直す」という論文で、丸山の国民国家論と自発的結社論について詳細な論文を書かれています。丸山はやはり1950年代からトクヴィル的なもの、多元主義的なものへ価値観が移行しつつも、同時に国民主体論も両立しながら、思想が創造される過程のアンヴィバレントに丸山自身が気づいていたと最終的に結論づけていると思われました。ネットにPDF論文が上がっているので、良ければ覗いてみてください。

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