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【詩】回転していた、またはしていない

「(芽)ネギだって」
 そんな小説が欲しかった。水耕栽培ではない、現実としてのSFが、農園になる。フィクションとしての、種。植えるしかないのか、それが科学に準じているのか、畝畝(ウネウネ)する。すべてが。どこまでいっても、植えられている。「植えられている。」自体が畑。図書館の「と」の欄にも、花が咲く(小さすぎて)。文字として根。大事にしよう。そのような、広告が、高速道路上に、どこまでいっても、苗・苗・苗。リズミカルで、恐ろしくない、ささやかに、もう一度、ささやかと、冠したい、どこまでいっても、王冠をかぶりたくなる。への字口だったよ、王冠をかぶって、あの、MVで。それから畝(うね)。どこでも畝(ウネ)。もうヒトだろう、収穫を忘れられた果物たちが、汁気として。半身が影の中の、「かかしはいないよ。ハウスだから。」宇宙=野菜でありたかったはず。耳をすませ! 青々とした映画だろう、そこかしこに芽

 「耕されるのはヒトなのだ。迷走しろ! ちくしょうめ。メニューにあるだろ。メニューに。」 K・Y
 「AIがスマホやってきた現代。芽ネギの出現はAIをA/Iにする。環境だって制御される。コレスポンダンスとして」
  S・Z
 「外観を見ろ。外観を見ろ。外観を見ろ。外観だけを。砂がいる」 Y・T

 拝見しました? 拝読しました? どちらが正しいのでしょうか。AIとしてハルシネーションが、GOOGLEマップな畑になる。道行く人が、野菜に見えてくれば、仮想の喉だってうるおう。それを、一旦文字に起こしました。暇なときでさえ、暇を種として植えました。収穫するんだ。夏を。ナツオならばヒトだけど、どこかナッツの響きが、一面の青々とした、ハウス。透けている。透明なんだけれども、完全に透明ではない。歌ものハウス栽培が、わたし= なんなのかを真剣に。ビールが合いそうな気がする。仮に芽だとして、ラウンドランドラウンドゥ
#何度も何度も #回転木馬 #清潔な砂

#詩 #現代詩

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