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図式で学ぶ量子論 番外編その2 ~堀田先生の書籍「入門 現代の量子力学」では多準位系の数学的構造を演繹的に導けていない~

連載の記事一覧:
#1 量子論の数学的構造
#2 CP写像の基礎
#3 確率論としての古典論・量子論(前編)
#4 確率論としての古典論・量子論(後編)
#5 プロセスの表現
番外編 2準位系から多準位系への演繹による拡張は難しい
番外編その2 堀田先生の書籍(中略)演繹的に導けていない
番外編その3 量子もつれ状態と非局所相関について


この記事は,ひと言で述べると,堀田昌寛先生の書籍「入門 現代の量子力学 ~量子情報・量子測定を中心として~」の主要な部分に間違いがある(かつその間違いを修正することは恐らく容易ではない)という話です。下記のAmazonのレビューに要点をまとめていますので,よろしければご覧ください。

なお,この記事の内容は「図式で学ぶ量子論」の本編とは大きく異なります。興味のない方は読み飛ばしてください。

※ 前回と今回の記事に関して,堀田先生からは「補足」を書いてくださったり,議論を交わしてくださったりしました。お時間を割いてお付き合いくださったこと,この場をお借りしてお礼申し上げます。なお,この記事ではあくまで「書籍」と「補足」の内容の一部を取り上げて議論しています。それ以外の部分に関する批判などは,この記事には一切含まれていません。


この記事の目的

前回の記事では「2準位系から多準位系への拡張を(自然な前提のみから)演繹的に行うことは難しい」という話をしました。(なお,量子2準位系のことを単に2準位系とよんでいます。多準位系も同様です。)これに対して,堀田先生から「演繹的に行うことは簡単である」という主旨の反論をいただきました。堀田先生の書籍(以下,単に「書籍」と書きます)でも,まず2準位系を考えてから多準位系に拡張するというアプローチが採用されており,ブログ記事「『入門現代の量子力学』補足」(以下,単に「補足」と書きます)にて堀田先生の反論がまとめられています。

この記事の目的は,堀田先生の反論には大きな問題があることを明確に示すことです。より具体的には,「(堀田先生が提示している前提から)多準位系の数学的構造を演繹的に導ける」という主張が誤りである理由を明確に示すことです。以降では,とくに断りがない限り,堀田先生が提示している前提が成り立っていることを仮定します。

堀田先生の反論の問題点

堀田先生は「多準位系の数学的構造を演繹的に導ける」(より厳密に述べると,「任意の $${ N }$$ 準位系が量子 $${ N }$$ 準位系と同じ数学的構造をもつことを演繹的に導ける」)と主張されています。しかし,この主張には以下の二つの大きな問題があります。

(1) 演繹的な導出が示されていない。
(2) 演繹的に導けないことを示せる。

まず,問題(1)に関してですが,堀田先生の反論には,「多準位系の数学的構造を実際に演繹的に導いている」ような資料が公開されていないという問題があります。「書籍」と「補足」もそのような資料にはなっていません。つまり,堀田先生は「演繹的に(かつ簡単に)導ける」と主張されているのですが,そのことがどこにも示されていないのです。このため,仮にこの主張が正しかったとしても,公開されている情報のみからそのことを確認することは不可能です。大ざっぱに述べると,「すごい定理を証明したんだよ。証明は見せないけど信じてね。」という主張と大差ありません。

「書籍」のまえがきでは,「情報理論の観点からの最小限の実験事実に基づいた論理展開で、確率解釈のボルン則や量子的重ね合わせ状態の存在などを証明する」と書かれています。堀田先生によると,これは「演繹的に導いている」という意味とのことであり,実際に「補足」では『「演繹的」に示されている』と明記されています。しかし,上記の理由から,現時点ではこれらの主張は正しいとはいえないでしょう。

次に,問題(2)に関してですが,堀田先生から与えられた前提からは演繹的に導けないことを示せるという問題があります。具体的には,「演繹的に導ける」という主張に対する反例(さらに具体的には,堀田先生から提示された前提を満たし,かつ量子 $${ N }$$ 準位系とは異なる数学的構造をもつような $${ N }$$ 準位系が存在すること)を挙げられるのです。このため,堀田先生の主張が間違っていると結論付けられます。なお,問題(2)は,問題(1)を解消することが不可能であることを意味しています(演繹的には導出できないわけですから)。

なお,「演繹的に導く」ことの意味については下記(前回の記事のスライドの再掲)をご参照ください。

なぜ今回の記事を公開しようと思ったか

堀田先生の「書籍」や「補足」を読んで「多準位系の数学的構造は(自然な前提のみを用いて比較的容易に)演繹的に導ける」と信じる人が増えることは,この主張が正しいとはいえない以上,科学的・教育的には良くないことのはずです。しかし,量子論の数学的構造の導出に関する専門家でなければだまされてしまう可能性があり,実際にこの主張を信じている人が少なからずいらっしゃるような気がします。これでは,いろいろな弊害を引き起こしかねません。例えば,この問題は量子論の数学的構造を理解するということに直結する重要な問題と思われますので,このような正しくない主張を信じてしまうと量子論について十分に理解することができなくなる可能性があります。また,「量子論の数学的構造を素直な形で導出する」という問題は本当はまだ完全には解かれていないチャレンジングな問題であるにも関わらず,この問題に挑戦する人が減るかもしれませんし,挑戦する人が正当に評価されなくなるかもしれません。批判をすることは決して気持ちのよいことではありませんし,勇気のいることです。しかし,このような弊害を防ぐため,量子論の数学的構造の導出に関する専門家の一人からみて正しい情報をお伝えしたほうがよいと思い,公開することにしました

難しいと思われている問題が「実は簡単に解ける」のようにいわれると,とても魅力的に感じると思います。しかし,そのような魅力的な話であっても間違っていたら意味がありません。量子論に詳しくない人がこの記事で指摘している間違いに気付くことは結構難しいかもしれませんので,せめて問題はそれほど簡単ではないということがこの記事を通して伝わればと願っています。また,この記事が「何が正しいのか?」や「ある主張が正しいか否かをどのように判断すればよいか?」などを考えるきっかけになれば幸いです。

本来ならば堀田先生から正しい情報が示されることが望ましいと思うのですが,残念ながらこの記事を執筆した時点ではそうはなっていません。もし堀田先生が演繹的に導出されているのだとしたら第三者がその導出の正しさを検証できるように情報を公開すべきですし,導出されていないのだとしたらその旨を隠すのではなく正しく伝えるべきだと思います。私からの指摘に対して適切な対応をとることもなく,「演繹的に導けている」という主張を貫かれているようですが,このような行為は科学者・教育者としてふさわしくないのではないかと思います。この「書籍」が読者に及ぼす悪影響を抑えるためにも,科学者・教育者として早急かつ適切に対応してくださることを望んでいます。

念のため補足ですが,上記のスライドにも書いているように,「演繹的に導いた」という主張の真偽は解釈などによって変わることはありません。堀田先生は「演繹的に導けていないという主張は私の意見にすぎない」といった旨の発言をされていますが,これは誤りです。また,堀田先生は実験検証可能性が重要であることを主張されていますが,もちろんこの重要性の度合いによって演繹的な導出の可否が変わることはありません(なお,実験検証可能性が重要であることについては私も異論ありません)。

以下では,前回の記事と同じ用語・表記を用いることにします。特に,「論理的」という用語は「演繹的」と同じ意味で用います。なお,最初に記事を公開してからもいくつかの議論を行いましたので,その結果を適宜この記事に反映させています。

まとめ:論理的な穴は解消されたのか

最初にこの記事を公開した時点では前提の組が明らかにされておらず,後になってようやく前提の組を堀田先生からご提供いただいたという経緯があります。(前提の組を明らかにしていないのに演繹的に導いたと主張することはもちろん大問題です。)さらに,その前提の組も堀田先生により後から変更されており,それに合わせてこの記事も修正しています。このため,この記事は読みづらくなっていますが,ご容赦ください。

この記事では3種類の論理的な穴を紹介します。この記事を最初に公開した後で堀田先生に読んでいただき,いくらか議論をしました。また,その議論に基づいて「補足」を修正してくださいました。この修正により1番目の穴は(たぶん)解消され,前提が変わったことにより2番目の穴については解消されていますが,3番目の穴についてはきっとまだ解消されていません。

なお,キリがありませんので,また前提が変わって3番目の穴が解消されたとしても,私から次の反例を挙げるか否かはわかりません。本来ならば,前提が変わったときに私が反例を探すのではなく,第三者が検証できる形で導出過程を公開すべきと思います。

'22/08/29時点での問題点をまとめておきます(「補足」はこちら)。なお,この時点では2番目の穴が解消されていませんでした。

このまとめを公開する前の経緯につきましては下記スライドをご参照ください。

'22/08/16までの経緯

'22/08/16~'22/08/18の経緯

より詳細な情報:
https://twitter.com/hottaqu/status/1559046404890574848 を含むスレッド
https://twitter.com/hottaqu/status/1559799681940848640 を含むスレッド
私のTwitterのツイート('22/08/15~'22/08/18辺り)
ただし,このnote記事を読む前にこれらの情報に触れる場合,大まかな雰囲気はつかめるかもしれませんが,詳細を理解することは困難かと思います。

対象とする問題

以降では,$${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Den}_2 }$$ および確率論などに関する自明な命題は,(明記されていなかったとしても)前提として常に用いてもよいものとします。なお,$${ \mathbf{St}_N }$$($${ N }$$は自然数)は $${ N }$$ 準位系の状態空間で,$${ \mathsf{Den}_N }$$ は $${ N }$$ 次密度行列全体です。

前回の記事では,主に次の問題を扱いました。

「(上記の前提に加えて)いくつかの自然に思える前提のみを用いて一般の量子論の数学的構造を演繹的に導けるか?」

この記事では,量子論の数学的構造のうち特に $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ のみに着目します。それ以外の構造については,前回の記事で少しだけ触れています。さらに,堀田先生の「補足」では $${ N = 3 }$$ の場合に限定して詳しく説明されていますので,以下でも $${ N = 3 }$$ の場合を考えます。つまり,次の問題を考えます。

「(上記の前提に加えて)いくつかの自然に思える前提のみを用いて $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ を演繹的に導けるか?」

なお,なぜ $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ という式にこだわるかというと,この式は量子論の数学的構造を定める上で重要な式の一つであり,この式が成り立つか否かは(いくつかの自然な前提のもとで)実験により検証できるためです。$${ N = 3 }$$ に限定する理由は,この限定が今回の議論の本質を損ねないと考えられるためです。

私の主張

前回の記事での私の主張をまとめると,2準位系から多準位系に拡張する際には「下記(A),(B),(C)のすべてを満たすことはできない:(A)自然に思えるような前提のみが用いられている,(B)論理的な穴がない,(C)一般の書籍で扱えそうな範囲内での論理展開がされている」となります。この主張は,堀田先生の「書籍」で $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ を導出する際にも適用できると考えています。

「書籍」では何が前提であるかが明確に述べられておらず,(A)~(C)のどれを満たさないかが「書籍」のみからは判断できませんでした。しかし,これに対して堀田先生が「補足」の中に $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ を演繹的に導出するために必要なすべての前提を入れてくださいました。このおかげで,あいまいさが解消して判断できるようになりました(ただし,入れ忘れている前提があるかもしれないとのことです)。堀田先生の「書籍」および「補足」については,「少なくとも(B)を満たさない,つまり論理的な穴がある」というのが私の主張です。いくつかの準備をした後でこの穴を具体的に示します。

前提

まずは前提の組を明らかにすることが必要です。「補足」から,今回の問題に関連する前提と思われるものを以下に抽出(コピー)しました。なお,[]内の文言は,あいまいさを減らすために私が挿入しました。(8/18追記:これらの前提は8/15時点のものです。その後で修正されています。)

  1.  [任意の]2準位系では量子状態を密度行列や状態ベクトルで表現することが可能。[つまり $${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Den}_2 }$$。]

  2. その空間[=2準位系の空間]に作用する任意のユニタリー行列には、対応する物理操作がある。

  3. このような[=空間回転という操作に対応するような]可逆な物理操作が多準位系でも存在する。

  4. [ある特定の完全識別可能な純粋状態1,2,3に対して]状態1と状態2の間の2準位ユニタリな物理操作のうち、状態3に全く影響を与えないものが存在する。同様のことが状態2と状態3の物理操作、状態1と状態3の物理操作にも言える。

ここで,ある状態の組に対して,それらを誤りゼロで識別できるような測定が存在するとき,その状態の組は完全識別可能であるとよぶことにします。以降,これらの4個の前提を「前提」と括弧を付けて表します。

なお,4.は「補足」の文言を少しだけ変えた上で,これで問題ない旨を堀田先生に確認しました。また,「補足」では『「任意の3次元ユニタリー行列に対して物理操作が存在する」という仮定によって』という文言がありますが,これは堀田先生に確認したところ前提ではないとのことです。堀田先生に確認したところ,この4個の「前提」を満たしている $${ 3 }$$ 準位系は(これらの「前提」から「補足」の図32のことが予言されるため)量子力学で書けることが保証されるとのことです。

8/16追記:後述する「論理的な穴:その1」における2個の「命題」も前提に含まれるとの連絡をいただきました。この記事を公開した後の状況は下記スライドをご参照ください。また,新たな前提(5個に増えています)は https://twitter.com/hottaqu/status/1559122497794371584 をご参照ください(リンクが切れていたら申し訳ありません)。なお,前提4はかなり複雑で,もはや何が本質的な前提であるのかがわからないような形になっているようにみえます。当面は上記の4個の「前提」のみを考えることにしますが,新たな5個の前提に基づいた議論にのみ興味がある場合は「論理的な穴:その2」以降をお読みください。

9/2追記:さらに前提が変わったようです。これにより「論理的な穴:その2」は解消されたようですが,これは本質的な解消法にはなっていません。詳しくは,「論理的な穴:その3」で述べます。

「前提」の数式表現

上記の4個の「前提」のみを用いて $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ を演繹的に導くことを考えます。このためには,4個の「前提」のみから $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ 以外の可能性をすべて排除する必要があります。演繹的に導けるか否かを調べたいため,数式で表現してあいまいさをできるだけ排除するのが適切でしょう。4個の「前提」を数式で表してみます。

$${ \mathbf{St}_3 }$$ に含まれる完全識別可能な純粋状態1,2,3をそれぞれ $${ \phi_1, \phi_2, \phi_3 }$$ とおきます。このとき,各 $${ i, j \in \{1,2,3\} }$$ について $${ \phi_i }$$ と $${ \phi_j }$$ の間の部分系(2準位系)が存在します。この部分系(これは $${ \mathbf{St}_3 }$$ の部分集合です)を $${ S_{ij} }$$ とおきます。$${ S_{ij} }$$ に含まれる純粋状態をすべて集めた集合を $${ S^\mathrm{P}_{ij} }$$ とおきます。$${ S^\mathrm{P}_{ij} }$$ の要素は $${ 2 }$$ 次元複素ベクトル空間 $${ \Complex^2 }$$ の要素で表せます。この表現を,写像 $${ P_{ij}:S^\mathrm{P}_{ij} \to \Complex^2 }$$ で表します。部分系 $${ S_{ij} }$$ に作用する物理操作のうち $${ 2 }$$ 次ユニタリ行列 $${ U }$$ で表されるものの各々に対して,対応する($${ \mathbf{St}_3 }$$ に作用する)可逆な物理操作が存在します。この $${ \mathbf{St}_3 }$$ に作用する物理操作を $${ \Gamma^{(ij)}_U:\mathbf{St}_3 \to \mathbf{St}_3 }$$ とおきます。なお,$${ \Gamma^{(ij)}_U }$$ は可逆ですので純粋状態を純粋状態に写します。互いに異なる各 $${ i,j,k \in \{1,2,3\} }$$ および任意の $${ 2 }$$ 次ユニタリ行列 $${ U }$$ に対して

$$
U[P_{ij}(\psi)] = P_{ij}[\Gamma^{(ij)}_U(\psi)], \quad \forall \psi \in S^\mathrm{P}_{ij} \qquad (1)
$$

(これは $${ \Gamma^{(ij)}_U(\psi) \in S^\mathrm{P}_{ij} ~(\forall \psi \in S^\mathrm{P}_{ij}) }$$ であるという意味を含んでいます)および

$$
\Gamma^{(ij)}_U(\phi_k) = \phi_k \qquad (2)
$$

が成り立ちます。式(1)は,「純粋状態 $${ \psi }$$ を $${ 2 }$$ 次元複素列ベクトルで表現してから $${ 2 }$$ 次ユニタリ行列 $${ U }$$ を施したもの」が「$${ \psi }$$ に物理操作$${ \Gamma^{(ij)}_U }$$ を施して得られる純粋状態 $${ \Gamma^{(ij)}_U(\psi) }$$ を$${ 2 }$$ 次元複素列ベクトルで表現したもの」に等しいことを意味しています。式(2)は,物理操作 $${ \Gamma^{(ij)}_U }$$ は状態 $${ \phi_k }$$ に全く影響を与えないことを意味しています。

なお,数式が必要以上に複雑になることを避けるため,本質的ではないと思われる部分は適度に省略しました(例えば $${ \Complex^2 }$$ では厳密には斜線を考える必要がありますが,ここでは気にしないことにしています)。

論理的な穴:その1

補足」では,下記の命題が真であることが断りなしに仮定されているように思われます。

  • $${ \phi_1, \phi_2, \phi_3 \in \mathbf{St}^\mathrm{P}_3 }$$ をそれぞれ $${ \ket{1}, \ket{2}, \ket{3} \in \Complex^3 }$$ に写すような写像 $${ P:\mathbf{St}^\mathrm{P}_3 \to \Complex^3 }$$ が存在する。ただし,$${ \mathbf{St}^\mathrm{P}_3 }$$ は $${ \mathbf{St}_3 }$$ の要素のうち純粋であるものを全て集めた集合。

  • 各 $${ \Gamma^{(ij)}_U }$$ に対応する $${ 3 }$$ 次ユニタリ行列 $${ \tilde{U}_{ij} }$$ が存在し,各 $${ i \in \{1,2,3\} }$$ に対して $${ P[\Gamma^{(ij)}_U(\phi_i)] = \tilde{U}_{ij}[P(\phi_i)] }$$ を満たす。

以降,これらの2個の命題を「命題」と括弧を付けて表します。(8/18追記:この記事の公開後に,これらの「命題」も前提に含まれるとの連絡をいただき,「補足」の内容が修正されました。以降しばらくは,これらの命題が前提に含まれないとして話を進めます。)

ざっくり述べると,最初の「命題」は「$${ 3 }$$ 準位系の純粋状態 $${ \phi_1, \phi_2, \phi_3 }$$ が $${ 3 }$$ 次元複素列ベクトルに対応すること」を意味しており,2番目の「命題」は「各物理操作 $${ \Gamma^{(ij)}_U }$$ が $${ 3 }$$ 次ユニタリ行列で表せること」を意味しています。

最初の「命題」のみを考えると,これは単なる表現の話とみなせると思います。つまり,$${ \phi_1, \phi_2, \phi_3 }$$ を単にそれぞれ $${ \ket{1}, \ket{2}, \ket{3} \in \Complex^3 }$$ と表現しているだけ,といえるでしょう。このようにみなしたとき,問題は2番目の「命題」と組み合わせたときです。特に,「なぜ $${ \Gamma^{(ij)}_U }$$ に対応する $${ \Complex^3 }$$ 上の線形写像 $${ \tilde{U}_{ij} }$$ が存在するのか」は決して明らかではないように思います。線形写像で表せなければいけない理由は何でしょうか?これらの「命題」は「前提」に対して強い制約を課していると思われます。

 $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ を演繹的に導く際,上記2個の「命題」が真であることを演繹的に示さない限り,これらの「命題」は使えません。しかし,「補足」ではこれらの「命題」が真であることを示されていないにも関わらず,「命題」を使っているようです。したがって,少なくとも現時点では論理的な穴があるようです

これは個人的な意見ですが,量子論の数学的構造の導出について研究している者にとっては,$${ N }$$ 準位系で複素ベクトル空間 $${ \Complex^N }$$ が登場する理由を明瞭簡潔に説明することは難しそうだというコンセンサスが概ねとれているような気がしています(私の気のせいかもしれません)。少なくとも私にとっては,断りなしに突然 $${ \Complex^N }$$ や $${ \Complex^N }$$ 上の線形写像などが現れると強い違和感を感じます。

上記の「命題」を用いることは,前回の記事で述べた「多準位系でも安易に複素ベクトル空間を考えると穴が生じやすくなる」ことの代表例といえると思います。

この穴の具体例については,下記の記事が面白かったです。


論理的な穴:その2

4個の「前提」に加えて仮に上記の2個の「命題」を前提としたとしても,まだ論理的な穴があるようです(このとき前提の数は計6個です)。反例を挙げることで,このような穴があることを示します。なお,8/29にさらに前提が変わったことで,この穴は解消されたようです。

$$
\mathbf{St}_3 =
\left\{
\begin{bmatrix}
\sigma & 0_{3,1} \\
0_{1,3} & a
\end{bmatrix} : \mathrm{Tr}~\sigma + a = 1, \sigma \in \mathbf{Pos}_3, a \in \R_{\ge 0}
\right\}
\subset \mathbf{Pos}_4
$$

とします。ただし,$${ 0_{m,n} }$$ は $${ m }$$ 行 $${ n }$$ 列のゼロ行列で,$${ \mathbf{Pos}_n }$$ は $${ n }$$ 次半正定値行列全体から成る集合で,$${ \R_{\ge 0} }$$ は非負の実数全体から成る集合です。なお,ここでは簡単のため $${ \mathbf{St}_3 \subset \mathbf{Pos}_4 }$$ としていますが,このことは本質ではありません(単に $${ \mathbf{St}_3 }$$ の要素を $${ 4 }$$ 次半正定値行列で表すということを数式で簡単に記述するためのものです)。

また,出力のない測定(量子論のPOVM測定に相当するもの)のうち測定結果の候補が $${ M }$$ 個であるものをすべて集めた集合は

$$
\left\{
\left\{ \mathbf{St}_3 \ni \rho \mapsto
\mathrm{Tr} \left( \rho
\begin{bmatrix}
\pi_m & 0_{3,1} \\
0_{1,3} & r_m \\
\end{bmatrix}
\right) \in \R_{\ge 0}
\right\}_{m=1}^M \right. \\
\left. : \pi_m \in \mathbf{Pos}_3, ~ \sum_{m=1}^M \pi_m = I_3, ~ r_m > 0, ~ \sum_{m=1}^M r_m = 1
\right\}
$$

であるとします。(8/16追記:直前の式に不備がありましたので修正しました。8/17追記:この式でも反例になっていると思いますが,もし「$${ r_m }$$ は $${ 0 }$$ にいくらでも近づけられるけれど $${ 0 }$$ ではない」という制約が受け入れがたいと感じる場合は,$${ r_m > 0 }$$ という制約を $${ r_m \ge \mathrm{Tr}~\pi_m / 6 }$$ のような制約におきかえても構いません。)$${ I_3 }$$ は $${ 3 }$$ 次単位行列です。この集合の要素 (つまり測定)$${ \{ \Pi_m \}_{m=1}^M }$$ に対し,状態 $${ \rho }$$ に対して測定 $${ \{\Pi_m\}_{m=1}^M }$$ を施したときに測定結果が $${ k \in \{1,2,3\} }$$ である確率は $${ \Pi_k(\rho) }$$ です。

$$
\ket{1} \coloneqq
\begin{bmatrix}
1 \\ 0 \\ 0 \\ 0 \\
\end{bmatrix}, \quad
\ket{2} \coloneqq
\begin{bmatrix}
0 \\ 1 \\ 0 \\ 0 \\
\end{bmatrix}, \quad
\ket{3} \coloneqq
\begin{bmatrix}
0 \\ 0 \\ 1 \\ 0 \\
\end{bmatrix}, \quad
\ket{4} \coloneqq
\begin{bmatrix}
0 \\ 0 \\ 0 \\ 1 \\
\end{bmatrix}
$$

とおくと,$${ \{ \ket{i} \bra{i} \}_{i=1}^3 }$$ は完全識別可能な純粋状態の組ですが $${ \{ \ket{i} \bra{i} \}_{i=1}^4 }$$ はそうではありません。少し考えると「完全識別な状態の組の最大要素数」は $${ 3 }$$ であることがわかり,したがって $${ 3 }$$ 準位系です(一般確率論などでは通常このように定義すると思います)。なお,部分系は,任意に選んだ $${ \sigma \in \mathbf{St}_3 }$$ に対して「$${ \sigma }$$ と完全識別可能であるような $${ \mathbf{St}_3 }$$ の要素をすべて集めた集合」を状態空間とする系として定められます。

状態 $${ \rho \in \mathbf{St}_3 }$$ に対して基準測定を施したときに測定結果が $${ k \in \{1,2,3\} }$$ である確率が $${ \braket{k|\rho|k} + \braket{4|\rho|4}/3 }$$ となるように基準測定を定められます。また,各物理操作 $${ \Gamma^{(ij)}_U }$$ に対応する $${ 3 }$$ 次ユニタリ行列 $${ \tilde{U} }$$ は

$$
\Gamma^{(ij)}_U(\rho) =
\begin{bmatrix}
\tilde{U} & 0_{3,1} \\
0_{1,3} & 1 \\
\end{bmatrix}
\rho
\begin{bmatrix}
\tilde{U}^\dagger & 0_{3,1} \\
0_{1,3} & 1 \\
\end{bmatrix}
, \quad \forall \rho \in \mathbf{St}_3
$$

を満たすように選べます。

計6個の「前提」+「命題」だけでは,$${ \mathbf{St}_3 }$$ がこのように定められる可能性を排除できないことが確認できると思います(必要に応じて手を動かして考えてみてください)。しかし,明らかに $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ ではありません。

この例は不自然だと感じるかもしれませんが,そこは全く本質ではありません。$${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ 以外の可能性を(不自然に感じることとは関係なく)すべて排除できなければ,$${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ を演繹的に導いたことにはなりません。さらに考えてみると,この反例に似た例をいくらでも見つけられると思います。適切な前提を追加することで,これらの反例をすべて排除できるでしょうか?なお,私の感覚では,この反例はまだまだ素直な部類に入り,「論理的な穴:その1」のほうがより深刻な問題であるように思います。

前回の記事の副題である「2準位系から多準位系への演繹による拡張は難しい」の意味が伝わりましたでしょうか。

論理的な穴:その3

8/29にさらに前提が変わり,「論理的な穴:その2」は解消されたようにみえます。しかし,本質的な問題は変わっていません。ここでは,別の穴を紹介しておきます(「補足」はこちら)。

余談:前提が自然か否かを判断する方法

「私の主張」では,(A)自然に思えるような前提のみが用いられている,(B)論理的な穴がない,(C)一般の書籍で扱えそうな範囲内での論理展開がされている,のすべてを満たすことはできないと主張しました。このうち,(B)は客観的に検証できますが,(A)と(C)にはある程度の主観が入る余地が残ります。しかし,少なくとも(A)については主観を減らす努力をすることは可能です。今回は(B)が争点でしたが,(A)について補足しておきます。

「私の主張」から推測できると思いますが,個人的には自然に思えるような前提の組が用いられているか否かを気にしています。その理由は,その前提の組の良し悪しを評価する指標として「自然さ」を考えることは悪くはないと考えているためです。ここでの「自然」とは「筋が良い」ことであると考えても差し支えありません。

何をもって「自然」と考えるかは難しい話です。「自然」か否かを判断するための指針としていくつか考えられそうですが,ここでは下記の三つを考えることにします。

  1. 直観的でわかりやすい(例えば抽象的な数学の言葉ではなく操作的・確率的な言葉を用いて述べられている)

  2. 特定の数学的な表現に強く依存する概念は用いていない

  3. その前提の組を用いて $${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$ を示すことはそれほど自明ではない

これらの指針には議論の余地がまだまだありますが,「自然」について漠然と考えるよりはずいぶんマシでしょう。他により良い指針がある可能性も十分ありそうですし,指針の良し悪し自体に主観が入ったりもしますが,ひとまずそれらの問題は脇におくことにします。

個人的には,1.と2.を満たしていれば,3.を満たしていなくても概ね自然であるといえるような気がします。逆に,三つとも満たしていない場合は,(他により良い指針があったとしても)それらの前提の組はさすがに自然ではない(=筋が悪い)といえそうな気がします。三つとも満たしていない前提の組の例は「$${ \mathbf{St}_3 \cong \mathsf{Den}_3 }$$」を含むようなものです。

また,私の感覚では,もし上記の4個の「前提」に加えて上記の2個の「命題」も前提とする場合には(これだけでは既に述べたように論理的な穴は残りますがその話は脇において),1.と2.をともに満たさないという意味で自然ではないように思います。突然,複素ベクトル空間 $${ \Complex^3 }$$ や $${ \Complex^3 }$$ 上の線形写像が出てくるわけですから。

仮に私の「論理的な穴がある」という指摘に間違いがなかったとしても,堀田先生は論理的な穴を埋めるために恣意的な前提を追加されることはないと信じています(前提が恣意的ではないことや個々の前提が実験で検証できることなどを気にされているように思いますので)。(→後日談:新たな前提を再掲します https://twitter.com/hottaqu/status/1559122497794371584。個人的な感想としては自然な前提ではないように感じます。まだ論理的な穴も埋まっていないようです。)

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