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図式で学ぶ量子論 番外編 ~2準位系から多準位系への演繹による拡張は難しい~

連載の記事一覧:
#1 量子論の数学的構造
#2 CP写像の基礎
#3 確率論としての古典論・量子論(前編)
#4 確率論としての古典論・量子論(後編)
#5 プロセスの表現
番外編 2準位系から多準位系への演繹による拡張は難しい
番外編その2 堀田先生の書籍(中略)演繹的に導けていない
番外編その3 量子もつれ状態と非局所相関について


この記事の内容は,本書の内容とはある程度関連していますが,「図式で学ぶ量子論」の本編とは異なっています。興味のない方は読み飛ばしてください。


いくつかの量子論の書籍では,まず2準位系を考えてから多準位系に拡張するというアプローチが採用されています。2準位系は比較的イメージしやすいことから,このアプローチは量子論を理解するための近道の一つであるように思います。しかし,これらの書籍を読んで「2準位系から多準位系への拡張は厳密な論理展開(つまり演繹)により比較的容易に行える」と考えるのは早計だと思います。実際,このような拡張を行うことで演繹的に量子論の数学的構造を導出するような方法のうち,一般の書籍で扱えるようなものは(私の知る限り)知られていません。誤解を恐れずに述べると,2準位系から多準位系への拡張を行っているような書籍の多くには,厳密に考えると何らかの無視できない論理的な穴があるといっても過言ではないと思います。

この記事では,このような拡張においてどのような論理的な穴が生じやすいかを示すことを目的とします。量子論について詳しく知りたいと思っている方にとっては,論理的な穴があることを認識しておくことは有用なのではないかと思います。(なお,今回の記事では図式は用いません。)

結論を先に述べると,特定の表現のみを考えて多準位系に拡張するという考え方をすると穴が生じやすくなります。より具体的には,2準位系の状態を密度行列で表すと複素ベクトル空間が現れるのですが,だからといって多準位系でも安易に複素ベクトル空間を考えると穴が生じやすくなる,といえそうです(実際に,幾らかの書籍ではこのことが原因で穴があるように思います)。先を急ぐ方は,太字で示した箇所を中心に拾い読みしてください。

なお,私自身は,論理的な穴がある書籍はよくないと主張しているわけではありません。むしろ,多くの初学者にとっては,論理的な穴があったとしても読みやすさを重視して書かれている本のほうが理解しやすいだろうと思います(ただし,論理的な穴があることは明記すべきでしょう)。このためか,個人的には2準位系の話から始める書籍は多くの方に推奨できることが多いです。今回の話は,量子論についてあまり詳しく知りたいとは思わない方にとっては細かな話だと思います。

準備

はじめに,いくつかの準備をしておきます。$${ N }$$ を自然数とし,$${ 𝑁}$$ 次の密度行列(つまりトレースが $${ 1 }$$ である複素半正定値行列)全体から成る集合を $${ \mathsf{Den}_N }$$ と書きます($${ \mathsf{Den} }$$ は "Density" の意味)。また,量子 $${ N }$$ 準位系の状態空間(状態全体から成る集合)を $${ \mathbf{St}_N }$$ と書き,$${ N \ge 3 }$$ の場合の $${ N }$$ 準位系を多準位系とよびます。$${ \mathbf{St}_N }$$ の凸集合としての端点を純粋状態とよびます(これは一般的な定義と同じです)。$${ N }$$ 次元超球(原点を中心として半径は $${ 1 }$$)の境界および内部を $${ \mathsf{Ball}_N }$$ と書きます。つまり

$$
\mathsf{Ball}_N := \left\{ x \in \R^N : \sum_{i=1}^N x_i^2 \le 1 \right\}
$$

です($${ x_i }$$ は $${ x }$$ の $${ i }$$ 番目の成分)。「表現する」や「表す」のように述べたときは,その表現は全単射である(つまり逆写像が存在する)ものとします。なお,話を簡単にするため,(私の他の記事とは異なり)密度行列で表されるもののみを状態とよんでいます。

量子論では,任意の $${ N }$$ について $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ が成り立ちます($${ \cong }$$ は同型を表します)。以降では,「いくつかの自然に思える前提のみを用いて量子論の数学的構造(特に $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$)を論理的に導けるか?」という問題を考えます。なお,「論理的」という言葉はややあいまいですので,この記事で論理的とよんだときには演繹的であることを意味するものとします。また,「多準位系に拡張できることがほぼ明らかであるような,あからさまな前提」は入っていないものとします(このような前提を用いて論理的に拡張できたと考えるのは意味がないでしょう)。

8/17追記:念のため,「演繹的に導く」とはどういうことか,「演繹的に導いた」という主張の真偽を判断するにはどうすればよいか,に関する基礎的な話(一般論)を下記のスライドにまとめておきました。

2準位系の場合

2準位系の場合には,$${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ が成り立つ,つまり状態空間が $${ 3 }$$ 次元球に同型であることを前提とするのが妥当でしょう。その根拠は量子論の書籍などに譲りますが,スピンに関する実験などを考えれば納得しやすいかと思います。3次元球 $${ \mathsf{Ball}_3 }$$ はブロッホ球とよばれ,直観的に理解しやすいことから量子論でしばしば登場します。$${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ という前提は,「純粋状態が $${ \mathsf{Ball}_3 }$$ の境界(つまりブロッホ球の表面)上の点で表現できる」という前提におきかえても本質的には同じです。

少し考えれば,$${ \mathsf{Ball}_3 \cong \mathsf{Den}_2 }$$ であることがわかります(これは純粋に数学の話です)。このため,2準位系では明らかに次式が成り立ちます。

$$
\mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 \cong \mathsf{Den}_2
$$

多準位系の場合

次に,多準位系の場合を考えます。「2準位系では $${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Den}_2 }$$ が成り立つのだから多準位系で $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ が成り立つと考えることは自然だ」と思われるかもしれません。しかし,あくまで論理的に考えた場合には,この関係が成り立たない可能性も十分に考えられます。

例えば,2準位系では状態空間が $${ 3 }$$ 次元球に同型になるのですから,「多準位系の状態空間も何らかの超球に同型になる」と考えるのがより素直であるように思います。または,超球を少しだけ変形した集合を考えてみるなど,$${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ を満たすような拡張はいくらでも考えられそうです。

2準位系において状態を密度行列で表現する方法はあくまでも表現の一つであり,ブロッホ球による表現もそのような表現の一つです。ここで,密度行列による表現のみを考えると論理的な穴が生じやすくなります。$${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ を論理的に示そうと思ったら,それ以外の可能性はないことを明らかにする必要があるためです。今回の場合,$${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ を満たすような他の拡張はできないことを論理的に示せなければいけません。しかし,これを示すことは決して容易ではありません。

同様に,例えば「純粋状態が複素正規ベクトルに対応していること」や「ボルンの規則が成り立つこと」は,2準位系の場合には $${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ を前提とすれば容易に導けます。しかし,$${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ を論理的に導くことが困難である以上,多準位系でこれらが成り立つことを論理的に導くことは困難だといえるでしょう。

論理的な穴の具体例

念のため,もう少し具体的に述べておきます。2準位系から多準位系に拡張するような書籍では,次の具体例1で示すような論理展開がしばしば用いられると思います。

■具体例1


2準位系の状態を $${ 2 }$$ 次の密度行列(つまり $${ \mathsf{Den}_2 }$$ の要素)で表したとき,純粋状態は

$$
\ket{\psi} \bra{\psi}, \quad \ket{\psi} \in \Complex^2, ~\braket{\psi|\psi} = 1
$$

の形で表せる。そこで,$${ N }$$ 準位系の純粋状態はこれを拡張して

$$
\ket{\psi} \bra{\psi}, \quad \ket{\psi} \in \Complex^N, ~\braket{\psi|\psi} = 1
\qquad(1)
$$

の形で表せると考える。


この論理展開では,「2準位系の状態が $${ \mathsf{Den}_2 }$$ の要素で表現できるという考え方が $${ N }$$ 準位系に自然な形で拡張できること」を前提としていることがわかると思います。$${ N }$$ 準位系のすべての純粋状態が式(1)の形で表せると考える代わりに,いくつかの純粋状態がこの形で表せると考えても同様です。

具体例1の論理展開が自然だと感じる方もいらっしゃると思います。それはひょっとすると,「量子論では純粋状態が複素列ベクトルで表される」ことを既に知っていることからくる先入観のせいかもしれません。先入観をなくして考えると,2準位系で複素ベクトル空間が現れたのはたまたま状態を密度行列で表現したためであるという可能性を捨てきれません。何らかの前提を導入しない限り多準位系で複素ベクトル空間を用いなければいけない必然性はありません。量子論の数学的構造(特に $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$)を論理的に導こうと思ったら,通常の量子論で使われる概念を断りなしに用いることなく,あくまで前提から出発して各種の概念や演算などを導入していく必要があります。

次の具体例も考えてみます。

■具体例2


2準位系の状態をブロッホ球内の点(つまり $${ \mathsf{Ball}_3 }$$ の要素)で表したとき,純粋状態は

$$
\rho \in \R^3, \quad \rho_1^2 + \rho_2^2 + \rho_3^2 = 1
$$

の形で表せる($${ \rho_i }$$ は $${ \rho }$$ の $${ i }$$ 番目の成分)。そこで,$${ N }$$ 準位系の純粋状態はこれを拡張して,ある自然数 $${ f(N) }$$ を用いて

$$
\rho \in \R^{f(N)}, \quad \sum_{i=1}^{f(N)} \rho_i^2 = 1\qquad(2)
$$

の形で表せると考える。


この論理展開では,「2準位系の状態が $${ \mathsf{Ball}_3 }$$ の要素で表現できるという考え方が $${ N }$$ 準位系に自然な形で拡張できること」を前提としています。このような拡張ができたとしても論理的には不思議ではありません。この考え方では,複素ベクトル空間は少なくとも明示的には現れません。この考え方を進めると $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Ball}_{f(N)} }$$ が得られます。実はこのような拡張ではうまくいかないことが比較的容易にわかるのですが,だとしたら他の似たような拡張ではどうでしょうか。例えば

$$
\rho \in \Omega(N), \quad \rho_1^2 + \rho_2^2 + \rho_3^2 = 1
$$

の形で表せるかもしれません。ただし,$${ \Omega(N) }$$ は $${ \R^{g(N)} }$$ のある部分集合であり,$${ g(N) }$$ はある自然数です。

具体例1と2では似たような論理展開を行っていることに気付くと思います。式(1),(2)はどちらも論理的に導かれたものではないことにご注意ください。具体例1のような論理展開のみを考えて具体例2のような可能性を考えないことは,フェアではないといえるでしょう。2準位系の場合にある表現ができたとしても多準位系で同様の表現ができる保証はないため,特定の表現のみに基づいて多準位系に拡張すると論理的な穴が生じやすくなるのです。

もちろん,「$${ N }$$ 準位系の純粋状態は式(1)で表される」という前提(またはそれに似た前提)を追加すれば論理的な穴はなくせます。しかし,このような前提は「あからさま」であるといえるでしょう。多準位系で複素ベクトル空間を前提としたり,特定の物理操作がユニタリ行列に対応するといった前提を用いたりすることも同様でしょう。

2準位系の場合には,状態を密度行列で表現しなかったとしても,純粋状態や量子重ね合わせや確率的混合のような概念は導入できますし,ボルンの規則に相当する規則が成り立つことを示せます(ボルンの規則そのものは状態を密度行列で表現することに強く依存しています)。この意味で,2準位系では複素ベクトル空間(または密度行列やユニタリ行列などの類似の概念)を考えなければいけない特段の理由はないといえます。このため,2準位系から多準位系に論理的に拡張したい場合には,複素ベクトル空間などの概念が必要になる理由を明確に示す必要があるでしょう。しかし,「なぜ多準位系で複素ベクトル空間を考える必要があるのか?」を論理的に説明することは困難なのです。何となく伝わりましたでしょうか。

論理的にどこまで導ける?

$${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$(または同じことですが $${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Den}_2 }$$)を前提とした場合に,$${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ までは容易には導けなかったとしても,$${ \mathbf{St}_N }$$ の構造について(一般の書籍で扱えそうな範囲で)論理的に導けることは何かないのでしょうか?そのことについて簡単に触れておきます。

まず,本書(=今秋出版予定の書籍)で詳しく述べますが,量子論の確率的なふるまいから和と実数倍を自然な形で導入できて,このとき $${ \mathbf{St}_N }$$ は凸集合になります。(これは $${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Den}_2 }$$ という前提を用いずに導出できます。先ほど純粋状態を定義したときにこの事実を用いました。)さらに $${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ という前提を用いると,$${ \mathbf{St}_N }$$ も $${ \mathsf{Ball}_3 }$$ に似た対称性をもっていそうだということまでは推測できると思います($${ 3 }$$ 次元球 $${ \mathsf{Ball}_3 }$$ は高い対称性をもっています)。しかし,いくつかの別の非自明な前提を用いない限り,より多くのことはいえないような気がします。(←私の勘違いでしたらすいません。興味がある方は考えてみるとおもしろいかもしれません。)

実は,量子論の数学的構造を導出するためには $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ を示すだけでは不十分で,$${ 2 }$$ 個の状態 $${ \rho \in \mathbf{St}_N }$$ と $${ \rho' \in \mathbf{St}_{N'} }$$ の「合成」が $${ \mathbf{St}_{NN'} }$$ の要素であることを論理的に示す必要もあります。これを $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ のみから示すことは恐らく不可能ですので,さらなる前提をおく必要があるはずです。

さらなる情報

ここまでで,$${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ および他の自然に思えるいくつかの前提から出発して量子論の数学的構造(特に $${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$)を論理的に導くことは,一般の書籍で扱えそうな範囲内では難しいという話をしました。しかし,「一般の書籍で扱えそうな範囲内」という限定を外せば,論理的に導く方法はいくつかあると思います。ここでは,量子論の数学的構造を導くための研究の一部を挙げておきます。

[1] L. Hardy, "Reformulating and reconstructing quantum theory", arXiv:1104.2066.
[2] G. Chiribella, G. M. D'Ariano, P. Perinotti, "Informational derivation of quantum theory", Phys. Rev. A, 84, 012311 (2011). [arXiv:1011.6451]

ただし,これらの研究では $${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ を前提とする代わりに $${ N }$$ 準位系について一般的に成り立つ性質に基づいて($${ \mathbf{St}_2 \cong \mathsf{Ball}_3 }$$ を経由して)量子論の数学的構造を導いています。私の知る限りではこれらの成果に穴は見つかっておらず,$${ \mathbf{St}_N \cong \mathsf{Den}_N }$$ を論理的に導けているように思います。ただし,これを導くために用いた前提が「直観的に理解しやすいか?」と問われると,判断に迷います(個人的には例えば相対性理論と比べると素直な前提ではないように感じます)。これらの論文で用いられているような考え方が浸透するか,またはより素直な導出法が見つかれば,将来的にこれらのアプローチを一般の書籍で扱える可能性は十分にあると思います。

最近では,より発展的な研究として「古典系を含むような量子論」の数学的構造の導出が行われています。

[3] J. H. Selby, C. M. Scandolo, and B. Coecke, "Reconstructing quantum theory from diagrammatic postulates", Quantum, 5, 445 (2021). [arXiv:1802.00367]
[4] A. Wilce, "A royal road to quantum theory (or thereabouts)", Entropy, 20, 227 (2018). [arXiv:1606.09306]

また,私自身もこのような研究の一つとして以下の論文を出しています。

[5] K. Nakahira, "Derivation of quantum theory with superselection rules", Phys. Rev. A, 101, 022104 (2020). [arXiv:1910.02649]

本書の補足資料では,古典系を含むような量子論やその数学的構造の導出方法の一例をできるだけ丁寧に紹介する予定です。このような話題に興味のある方は,ご参照くだされば幸いです。

追記

この記事に対して,堀田昌寛先生から反論をいただきました。具体的には,先生の書籍「入門現代の量子力学」では2準位系から多準位系への拡張を演繹的に導出できている(ただし,書籍では十分な説明が足りていなかったためブログ「『入門現代の量子力学』補足」にて補足している)という反論でした。しかし,この反論は間違っていて,演繹的な導出はできていません。詳細は,以下の続編をご参照ください。


この連載は,書籍「図式と操作的確率論による量子論」の内容の一部を紹介したものです(この記事のほうが詳しく述べている箇所もあります)。

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