見出し画像

マイワールドはアートシンキングに出会った

私は世俗的に見れば「変な子」である。

周りからは関わりづらいと敬遠されることもあった。


故に、人と関わるための努力を常にしてきた自覚がある。


けれども、マイワールド、と名指される自分を、捨てるということは、自分というアイデンティティーをドブに捨てるような気がして、心底嫌だった。

けれども、マイワールド、と名指される自分は、社会にとって不適切な思想であり、邪魔でしかない思考であると実感している。


その中で出会ったのが

「アートシンキング」

という概念である。




学校の授業内での言葉をお借りすると

実質的な限界を飛び越える"アーティスト的思考法"
内発的な動機をもって物事を前進させる態度

つまりは、自身の信念に基づいて遂行し続ける力、というとこか。


先生曰く、アートシンキング的態度には以下の三つがあるという。

・判断ではなく、把握する
・評価の物差しを疑う
・この瞬間に注意を向けること

個人的に解釈した上で一纏めするならば

あらゆる物事を俯瞰し、今ある瞬間を見て進む

と捉えられた。


これは即ち認められたかった生き方であり

共に理解した上で議論していきたいテーマであった。


表題にもあるように

マイワールドはアートシンキングに出会った

のである。


つまりは出会ったことにより

自身の思考法に名称があると知れたのだ。






私は自身を肯定するために

様々な自分を作り出しきた。


ここでは「思考の働き蟻」とでも名指しておこう。


"思考の働き蟻"達は私の中に住んでいる。

感情的な思考

倫理的な思考

事実だけを指針にする思考

他人の意見を受容する思考

社会的な思考

他愛的な思考

それらに含まれない元来ある私の思考。

これらの"思考の働き蟻"が一つの状況を次々に討論し、考えを運び、自身の意見をつくっている。


そして、これらを俯瞰する、まさに神のような立ち位置の自分がいる。

「お前は今日失敗したけれどもその理由を考えているか」
「ああ、そういえばそんなことを彼は言っていたね」
「それはあの子の気持ちを卑下する行為なのでは」

思考の働き蟻達の討論があり

対して、俯瞰する神のような立ち位置の自分は

「うんうん。今日、私はこんなことを考えているのね、なるほど」

ただ聞いているのである。



このようにして、自身を客観視することにより

自身の行いを見定め

自己肯定感へと繋いできたのである。


この時間は割と楽しい。

例えば

思考の働き蟻を他人として

俯瞰する神のような立ち位置の自分を、己自身として

YouTubeなどのコメント欄や小説なんかを読むと面白い。

様々な感情が複雑的に編み込まれていると気付く。

それにより今見ているものが生成されているのだと感じられる。





なんだかこの考えが

アートシンキング的思考のように思えたのだが

自身の考えを認めたいあまりからくる

承認欲求であるかもしれないし

正体は定かではない。


けれども学校でこのような

「他との違い、自分への理由なき信頼」

について学べるのだから

こんなにも有意義なことはない。


授業の中で学び得るうちに

欲している解答を知れるのではないかと

淡く期待している。


解答は必ずしも正しくはなく

価値観の変化のなかで塗り替えられていくのだろうが

この時間は私という人間の

生き方の道標になると確信している。




最近はめっきり創作しなくなったため

マイワールドが私の中に溜まりまくって困っている。

これをアウトプットする場としてこちらのnoteを活用したい。


アートシンキングで学んだことをnoteに書くのは

いわゆる課題でもあるのだが

自発的に取り組んだものとして残したいと思う。





本来ならば

もっとロジカルに書いてみたいものだが

現時点における私の書き筋はこれが限界だ。



しかしながら少なくとも

アートシンキングについて書く間は

最も自分が心地好いと思える世界の中にいる。


授業で学んだことを

マイワールドを通過させて

これから書いていきたいと考える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?