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BFF ベタ・フラッシュ・フォワード[9]土井 樹 研究者・音楽家・エンジニア【つまみ出されるいま】

*『建築ジャーナル』2019年9月号の転載です。 
 誌面デザイン 鈴木一誌デザイン/下田麻亜也 

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舞台上の私が、オーケストラの一員として楽器を構える。指板を抑える左手の先に見えるのは数名の奏者の後ろ姿と、舞台上でもさらに一段高い位置に立つ指揮者の横顔だった。指揮棒があがり、客席も舞台も息を呑む数秒を経て、振り下ろされた棒に導かれるように弓を引く。弦が震え、楽器が鳴る。
 「導かれるように」と書いたが実際どうだったろうか。アマチュア奏者の私は、どれほど導かれることができていたろうか。演奏しながらちらと指揮者を見れば、その棒は拍子を、また強弱を表している。舞台上では視ることと奏でることが入力と出力に分解されている。視たことにより、演奏はなされる。しかし視ることと奏でることの時差はあまりに短く、ほとんど同時のようで、そこに意識を挟むことは難しい。一方で体が自動的に動いていくような、だんだんと自分のものではなくなるような感覚は快感でもあり、長
時間の演奏が心地よかった。
 指揮者は、私たちにその意識を芽生えさせるため、ほんのわずかに早く棒を振り下ろす。鍵盤を押す、弦をはじく、息を吹き込む。何かを行うとき、その手前には何かをしようとする意志がある。指揮により、私たちは脳内の信号の疾走を自覚する。しかし指揮もまた、演奏からのフィードバックを受けながら行われるものだ。一度指揮をしたことも思い出してみる。指揮棒により動いていたはずの音に自分が振り動かされているようにも思う感覚は、演奏する際と同じものであった。どちらかがどちらかを動かしているのではない。
 「いまは、過去に思いをはせること、未来に期待すること、その間に生成される。ではこのいまにいる、という感覚をいかにつくれるのかをたとえば考えたい」
 研究者にしてエンジニア、そして音楽家である土井樹のインタビューを聞き返しながら、あのいまとしか言いようのない、音に溢れた舞台上での経験を私はさらに思い出す。

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