「議論の心得」相手の意見は変えることが出来るのか?

大学に入ってから思い知らされたことの一つの真実があります。それは他人の意見や偏見を変えるのは凡そ不可能だということです。

セミナーやワークショップをこなしていく中で、生徒間の意見は常に食い違い、教授や進行役の制止がなければ無意味な論駁の応酬が永遠と続けられると気付きました。論駁自体は悪いことじゃない…。それは議論対象の輪郭をあらわにするし、結論を導き出すためのへの第一歩になると思います。

しかし人間は自分が間違っているかもしれないと感じた時、その大半は自身を省みる前に相手の局所的な過ちを攻撃することで、自身の過ちという自己否定の萌芽を頭から消し去ろうとします。

相手に対する感情を差し置き、論理的に自戒し、新たな見解を建設できる者は少数です。私自身も常に後者の様な人間でいれた試しはないし、自分が前者であったと自覚するのはいつも全てが終わってから。

私は全ての人間が聖人君主になり理性的論者になるべきだと言っている訳ではありません。大概そんなことは不可能だし、出来たらこの世から戦争はなくなっています。

自分の意見を変えるというのは余程の変節漢か恥を知らない人間でない限り難しく、とても辛いことです。誰も自分の過ちを認めたくないし、認めたら他人に笑われると思うのは自然です。そんな人間らしさがある人の方が余程健全だとも言えるかもしれません。

しかし集団や個人間の様々な意見というのは一つの結論・決断へと聚斂されるべきです。さもなくば議論は霧散し何の実も残らないでしょう。

そこでお互いの意見を変えることが不可能ならば、皆の妥協点か誰のものでもない論駁の結果による集団的結論に辿り着く他ありません。しかしその目的を達成するには議論の心得・原則を確立し、全ての構成員に徹底する必要があります。

以下の事柄を皆が心に留めていれば、お互いの主義主張の違いによる感情的対立からは多少は開放されるであろうと考えます(実際は私自身に対する戒めである…)。

議論の心得

一. 相手の意見は変えるのは相当の困難であると心得よ。
二. 自らの権利と共に、相手の権利をも是が非でも擁護せよ。
三. 批判と非難を混同するべからず。
四. 発言者の人格に言及するべからず。
五. 発言の内容と発言者を結び付けるべからず。

「お前の意見は認めない。だがお前の権利は身命を賭して守る。」

そんなことを皆が言える社会が来たら、どんなに心地良いことでしょう。

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