90年代柔道部レポート4 最強の後の不作の世代
西中史上最強チームの後の不作の世代
俺の一つ上の学年は西中始まって以来最強のチームと言われていた。部員数も1学年で20人近くおり、皆それなりに体格が良くて才能のある人間が多かった。序列上では団体戦のメンバーに入れなくとも他の学校に行けばレギュラーになれるような人たちばかりだったと思う。なので当然錦山先生はこの代に特別な労力を捧げた。対してその一つしたの俺たちの代は軽量級が3人、あとは幽霊部員が数人。そしてこの一つしたはこれまた期待の豊作年で、結果から言うと二つの学年は3年生の時に全国出場を果たした。一つ上の代は団体で全国ベスト16、俺たちの代は県大会でベスト8で敗退だったと思う。
一つ上の先輩の中にに名込(なごみ)さんと言う人がいた。錦山先生がいなければ恐らく手の付けられない不良になっていたと思われる人間で(それでもたまに手はついていなかった)、彼の存在もあり我々の世代はかなり影が薄くなっていた。部活では全国ベスト16のチームを鍛え、意味不明なバイタリティを持つやんちゃを教育してとやってたら俺たちの代の育成までは手が回らなかったのは普通だろう。それにしても先輩達が引退をして我々の代になった時、錦山先生は俺以外の同学年の部員の名前すら覚える事が出来ていなかった……。俺だけは兄の縁も多少あって入学当初から練習も遊びも先輩達に連れまわされていたし、合宿や大会のパシリ要員としていつも同行させられていたのでそう言う事はなかったが、流石にこれは「マジか」と思うぐらいに二人の名前を覚えるのに苦労していた。名前も覚えてなければ当然育てた覚えもないはず。
二人は春人(はると)と敬(たかし)と言って背格好も似ているため時々区別すらついていない時もあった。特に敬の事はいつまで経っても「Kei!!」と呼んでいて、彼がたかしとして認識されたのは3年になってからの話であった。そしてそれも、なんとなくそっちの方がしっくり来るとの理由で最終的にはやはり「Kei!!」に戻してしまった。たかしは「もう面倒くせえからどっちでもいいわ!!」と更衣室でキレていた。
ともかく、俺の代は軽量級の自分が主将を務め、当時一つ上の65kg級の春人(副部長)と敬の3人の小柄なメンバーだけだった(幽霊部員は別に数名いた)。先輩が引退して我々の代に変わってしばらくの間、そのギャップに錦山先生は落胆とイラつきを隠さずにぶつける事もあった(あるいはパチンコのせいか)。
体罰よりも口撃が強い…
部活の先生は大抵キラーワードを持っていた。錦山先生もこれが非常に豊富で、練習試合の野次からいくつか紹介すると
・お話になりません……。
・箸にも棒にもかかりません。
・やめちまえもう。
と言った冷ためのフレーズが中心であった。これを練習試合で負けたりした時なんかに嫌らしい具合に組み合わせてくるのだが、一度我慢出来ずにこれに対して思いっきり睨み返した事があった。
「前年と同じ成果を求められても無理なのはあんたが一番分かっているだろう、第一あんたは敬の名前すら覚えていないじゃないか。」
そんな思いが噴出して、説教を続ける錦山先生を返事もせずに睨み続けた。すると
「なんだお前その態度?え?お前サァ……なんか勘違いしてんじゃねーか?」
と、ペシペシとオチョくるように俺の頭を定規で叩き出した。俺はムカついて殴られながら距離を詰めて睨みを強めた。すると今度は定規を机においたかと思うとバチーン!と思いっきり頭を叩かれた。これが10発ほど続き、気づくと道場の端に俺は追い詰められていて目の前にテレビの砂嵐のようなものがチラつき始めた。困った。絶対に暴力を食らっているのに反抗し返したら何かが終わると思った。その場にいた全員が「くわばらくわばら」という感じでそれを見守っていた。皆、次は自分の番になって欲しくないので以前よりも気合を入れたフリをして練習を始める。これで皆<イエスマン>になるので見せしめとしての効果は充分だ。
恐らく俺が個人的に錦山先生から受けた暴力で最上級のものはこれだった(大抵武道の指導者に反抗的な態度をとるとこうなる)。しかし、こう言った暴力の類よりもさらに我々を困らせるさらにとっておきのフレーズがあった。
「もう解散ダナ。お前らもう明日から来なくていいよ。」
これは練習試合などで結果が良くなかった時に特定の生徒個人ではなく、チーム全体に向けられる言わばとっておきの低評価フレーズ(星5点中0点)であった。毎年節目ごとに発せられる有名なフレーズだったので知ってはいたが、ある時これをいつにも増して執拗に繰り返された合宿があった。
関東との合同練習試合での惨劇
上級生が卒業し、3年に上がる頃の春休みに関東とA県の大きな合同練習試合があった。居丈高中の剛田先生と田上中のたにせんの二人は、錦山先生を格上の指導者として慕い、毎週のように西中に訪れていたのでこの日は3校ともに遠征に参加した。関東はレベルが高い。初めてみる選手ばかりの空気に飲まれてA県の学生の成績は軒並み振るわず、たにせんサイドは一足早く先に会場で「バチーン!ハイ!!」の儀式を始めた。居丈高中も関東との実録差を見せつけられているようだった。が……その割に剛田先生はいつもより静かだった。「流石の実力差に剛田先生も根性論ではどうにもならないと悟る事もあるのだな。」と思いながら俺は居丈高中の練習試合を見守った。
試合が終わり、居丈高中の生徒が静かに待つ剛田先生のもとに集まる。剛田先生は生徒達を邪魔にならない通路に呼んだ。俺は剛田先生が何を話すのか非常に興味が湧いた。もしかしたら今、この人の根性論を越えた指導を初めて見る事が出来るかもしれないと思ったので、アサシンのようにギリギリ聴こえるぐらいまで群衆に紛れて近寄った……。
すると剛田先生は部長と副部長の二人を
「おい」
と静かな声で前に出し、おもむろに拳を作ってそれを前に突き出した。
「カチン!カチン!」
と2回、部長の丸川と副部長の水戸(通称ワタル君)の顔面のあたりで鈍く乾いた音が弾けた。「え?」と俺はそれを呆気にとられて眺めていた。二人は同じ55kg級でチームのポイントゲッターなのだが、当時の地区大会はこの二人のどちらかが1、2位、大抵の場合俺がこの二人のどちらかに負けて3位になる事が多かった。練習もよく一緒にしていたので多少交流もあり、こう言った県外遠征の時などはお互いを励まし合うような関係でもあった。カチンというのは、推定身長182cm、105kgの剛田先生の拳による顔面殴打としては全力ではない事を意味していてるが(いや、流石にねぇ……)、この音は<道場では聴き慣れない、なんとなく不吉な音>として俺の耳には響いた。丸川とワタルの二人はこれまでに見た事がない深刻な顔で剛田先生を見つめて
「ハイ……。」
と小さな返事をした。丸川は青い真顔で先生を見つめ、ワタルの口の端には血が滲んでいた。
剛田先生は続いて、「カッ!カッ!カッ!」と乾いた音のするゲンコツを残りのレギュラーに3発、さらにやはり負けて到着した女子チームに「バン!バン!バン!」とみずみずしい平手を顔面にお見舞いした。こう見ると不可解ではあるが、本人にはそれなりのライン分けがある事が見て取れる。この人は時々、内容が不甲斐ないと応援している選手も全てひっくるめて並べて平等なビンタをお見舞いしていたが、それがこの時だったかどうかまでは覚えていない(全体責任?ってやつらしいが……(何の?))。
そして西中の番が来る。メンバーは先鋒が俺ケニオ、次鋒と中堅は順不同で春人と敬、副将と大将は2年の拓人と木下という重量級が順不同。そこにこれまた1学年下のカズという重量級が補欠として木下と時々交代という具合だ。この時点での主なポイントゲッターは俺と敬だった。だが敬はプレッシャーに本当に弱い。こういった修羅場的状況でのみ時々偶発的に発動する、俺と副部長の春人の間でのテレパシー会話が始まった。
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