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13.The Backstroke

土曜日の渋谷駅スクランブル交差点は数え切ることが容易ではないほど人が集まり、黒装束に身を包んだ巡音潤とまるで世界を救うヒロインみたいな姿の中沢乃亜が中央で向かい合っている。

誰も傍に近寄ることなんて出来ないけれど、きっとこれから何かが始まるんだって期待を壊さないようにみんなが息を呑み、二人の姿を見守っている。

脳味噌を機械仕掛けに改造された蛞蝓がヘドロを撒き散らしてそんな世界を台無しにしようとする。

小綺麗な世界ではぼくは生きていくことが出来ないんだってことをベトベトの液体を吐き出している人形紛いが中沢乃亜に啖呵を切ろうとしている。

渋谷駅の夕方の空はまるで蛞蝓に汚されていく渋谷の人々の心を書き写したような不安な赤い色で染められ始めようとしているけれど、巡音の持っている日本刀の美しさに魅入られて誰もそんなことには興味がなさそうだ。交差点には彼らの邪魔をしたくなくて結界が張られてしまったように強い力を持った人間以外は侵入してこようとしてこない。

二人を煽るようにスクランブル交差点に集まった人々がダンダンダンダンと足踏みをする。

あまりに大勢の人が足を鳴らすせいか地響きが起きてもしかしたら地面そのものが揺れているような気すらしてくる。

確かに朝早く起きれば満員電車に乗る為に毎日たくさんの人間が足を揃えて綺麗に列に並び同じことをしているのを見ることが出来るけれど、決して地面は揺れたりしていない。

けれど、今はまるで地面の底から何かが這い上がって来るのを待つようにして足踏みの音が揃いながら渋谷の街をぐらぐらと揺らしている。

振動を伝える地面の上で平衡感覚を失うことなく近づいてくる老人がたった一人で緊張感の漲る交差点へやって来る。

「なぁ、これはみんな本当の話だろ。だったら自分が残しておいてやる。飛び出す絵本みたいな絵を書いてやったら分かりやすく見られるだろ」

突然の闖入者に、すっと地面を足の裏で叩く音が消えて今度は静寂が、たぶん、おそらく渋谷の街では誰も目撃したことがないそういう類の静寂がやってくる。

髪を無造作に伸ばした真っ白な髪の毛の老人がスクランブル交差点にはられた人払いの結界を破ってしまう。

何が起きたのか誰も分からず、時が止まったように、若者たちが彼の姿に固唾を呑んで老人の挙動に注目しているけれど、いつの日かそうであったように誰も何も見つけることは出来ていないような気がする。

老人はまずは水色のスプレーから噴霧されるペンキでスクランブル交差点のアスファルトを塗り潰していく。

空が出来て今度は緑色のスプレーが森を描き、青いスプレーが湖を書き足していく。

茶色いペンキの入っていた一斗缶がいつの間にかどこからか現れて真っ白な毛の生えた筆を時空の隙間から取り出してくると、ポタポタと森の上に垂らして樹が植えられていく。

きっと『大和』に住んでいるものなら一度は目にしたことがある美しい風景が出来上がると真っ白な髪の毛の老人がこの日の為にアズライトを削って作り出した蒼い塗料がハケを使って湖と森の上の空の間に豪快に塗られていく。

誰もが知っていて、とても大切にしている巨大な霊峰の姿がスクランブル交差点に出現し、若者たちは息を呑む。

また新しいハケが何処からかやってきて白いペンキで頂上に降り積ったまま残っている雪の形を空との繋ぎ目に描きあげると、そこには富士と呼ばれ、『大和』に生きる人々が忘れかけてしまった最高到達点の様子が現れる。

『蜂』が声を漏らす。

『光』が悪意を露わにする。

『怒』が裏を刻む。

『重』が天を呪う。

『狂気』が禅性を黙らせる。

カメラが刹那を捉えて言葉を揺らす。

また眼球に導かれて此処にいる。

精霊に惑わされないように溜息が囁いて、

「私の名前は『芹沢美沙』です。よろしくお願いします」

と返答する。

チルドレ☆ンによって失われた歴史を再生するために『つくられた人』『葛飾北斎』が渋谷の路上に描いた完璧な夢の形を芹沢美沙はEOS-1D X Mark Ⅲの中に閉じ込める。

「自分が世界の切り取り方を教えたる。永遠を生きることが出来るのであればお前たちもここに辿り着ける。お前も必死で方法を考えろ」

「分かりました。買ったばかりのカメラなんです。大切にしますね」

と、芹沢美沙は神様に挨拶をして今度は何処にもいかないでねって小さなお願い事をする。

頂上で吸う呼吸はとても気持ちがいいだろうなってドキドキしながら彼女はその誰もが見たことがあってまだ誰も見たことない景色がEOS-1D X Mark Ⅲの中でこのままいつまでも生きていられるように『聞こえない眼』の声を聞いている。

──たぶん、私はまだ最初にあなたをみつけた日のことを忘れたりしていない──

「ほら。オメエらはこれが見たかったんだ。忘れんなよ、自分たちはこれを大切にして生きていたかっただけなんだぞ」

そうやって言い残すと、白髪の老人は灰色のジップアップパーカーを被って人混みに紛れて姿を消してしまった。

渋谷の街に集まった人々は隣の恋人や友人に声をかける余裕もなくただ黙って起きたことを見守って信じることが出来ない怪異が現れたことをただありのままに受け止めることしか出来ずに渋谷スクランブル交差点で起きる事件を目撃する。

「北斎はんだー、たぶん二百年ぶりぐらいにみたし。ねぇ、じゅんじゅん。あの絵浮くよ」

『竹右衛門』はぶるぶると頭の上のヘリコプターを回しながら上空から降りてくる。

たぶんこっそり電車を抜けて周辺をパトロールしていたんだろう。

周囲で観戦している抜け目のない悪戯っ子がつい勢い余ってステージに上がってこないように監視していたのかもしれない。

「あのさ、そういうびっくり出来ちゃうのは勝手に教えないで黙ってないと駄目なんだよ、どうして先に喋っちゃうかなー。あーほんとだー」

スクランブル交差点の中央に書かれた富嶽三十六景の一つが浮かびあがり、富士山麓の風景画が巨大で立体的な絵画に変わってしまうとそんな不自然で非日常的な形を拒絶するようにしてパッとペンキが霧散してあたりに無数の光がばら撒かれる。

「なんだか派手な演出。私に全然相応しくない。頂上は既に此処にある。あいつは私の完全な眼を潰そうとするつもりか」

中沢乃亜は指の骨を鳴らし、足首をぐるぐると回して身体をほぐしながらも鋭い感覚を失わないように姿勢を保ち続ける。

もし、最高峰の幻覚に我を見失ってほんの少しでもバランスを崩して足元がぐらついてしまえば、『ラジカルミラージュ』を身につけて戦っている意味すら失くしてしまうだろう。

今──カタオモイ──には渋谷に集まった若い男女たちの気持ちをギュッと押し込めるようにしてとても強い力が宿り始めている。

──Brave Shine──で中沢は思いきりアスファルトを蹴り抜くと大きな音を立てて地面にヒビが入り、渋谷TSU+AYA前に陣取る巡音陣営を威嚇する。

『蛞蝓』がベトベトの粘液で作った自分の道を這いずり廻りながら近づいてくる。

竹右衛門はふわふわと浮きながら『蛞蝓』に七色のゲロを浴びせかける。

「まぁ、呑め。お前はこのままじゃあの二人の二の舞になって犬死にだわ。一UPキノコだ。一回ぐらいは死ねるぞ」

『蛞蝓』は虹色に光り輝きながらもべたべたと気色の悪い動きで中沢に近づき様子を伺っているが明らかに実力の違う相手だということは理解できるらしく距離をどうしても縮められずにいる。

「へぇ。そのぐらいのことは分かるんだ。相手の力量が理解出来る。それは生物が命を守る為にとても大切なことだ。長生きしているだけはあるな」

パサっといつの間にか『蛞蝓』の覆面が取れ、中からとても醜悪な老人の姿が現れる。

惨めそうに渋谷駅に集まった若者たちからの視線を逃れるようにして動き回り中沢の周りを気色の悪い動きで動き回っている。

けれど、たった一ミリほどの誤差を感じ取ることが出来ずほんの一瞬だけ隙を見せて射程に入った『蛞蝓』は途端に左腕が丸ごと吹き飛ばされて中からヘドロのような赤い液体が吹き出してくる。

「きぃぃー! お前なんぞに俺様の人生が否定されてたまるか。かくなる上は玉砕覚悟。しにさらせぇぇ!」

『蛞蝓』は汚辱と屈辱と恥辱の全てを投げ捨てるようにして中沢に飛び掛かる。

中沢は避けようともせず、軽く身構えて『蛞蝓』を──カタオモイ──で粉微塵に粉砕しようとする。

「まぁー結局こんな程度しか思いつかないよねー」

そうやって巡音の声が『蛞蝓』の後ろから聞こえたかと思うと、『蛞蝓』の身体は真二つに割れ、『鬼丸国綱』の刃が中沢に襲いかかる。

──ガキィーン──という金属音が響き渡ると。中沢は特別な強化繊維で編み込まれた青いグローブで研ぎ澄まされた日本刀を弾き返して捌き切る。

真二つに割れた『蛞蝓』は『竹右衛門』の七色のゲロの効力で生命を絶つことも出来ず踠き苦しんでいる。

「極楽浄土。死に至ることがない永遠の焦熱地獄。お前も酷いことを考えるね、潤。終わることのない時間とはかくも醜きことかな」

右手で『鬼丸国綱』を弾き飛ばした中沢はそのまま左フックで巡音を襲う。

二人の間に突然『竹右衛門』が入り込んできて、六角形のビームシールドが浮かびあがり、コンクリートすら簡単に粉砕してしまいかねない左フックを弾き飛ばす。

「コンビニじゃこんなもの売ってないだろー。心の壁ばっかり張ってるとな、守備力なんて気にもしなくなる。女子の嗜み。忘れてるー」

弾き飛ばされた『鬼丸国綱』が返す刃で大気を切り裂くと真空の刃が産まれて中沢の鼻先をかすめる。

直感的に危険を察知して半身だけ中沢は身体を左に反転させ巡音の殺意を甘くみていた自分を恥じる。

端正な顔立ちの中沢の鼻先に切り傷が産まれる。

優しさを捨てなければいけないのかもしれないと一瞬だけ中沢に迷いが産まれて言葉が産まれる。


「ふん。お前も捨て切れていないじゃないか。落としてすらいない。返す刃っていうのはそういう意味なんだよ、燕は必ず本能に忠実に生きる」

中沢が初めて見せる攻撃的な意志を受け取って、緊張によって支配される戦いを弛緩させて一息つくことを巡音は選びとる。

黒いマスクが外れて巡音の素顔を露わにする。

少しだけ甘さの残っていたエンターテイメントを与えることで発生する歓喜が罪悪感を増幅させている当たり前の現実に嘆くのを辞め冷徹で機械的な運動に立ち返ろうとする。

「『竹右衛門』。人間を機械生命の拡張的存在だと思って甘くみていた訳ではなく、排除対象の構成物質に混ざる霊的ポリシェビキとにでもなり変わってしまうだけの問題を理解していなかっただけの私を馬鹿にする? それともまだそうやって嘲笑うようにして守り続ける?」

巡音はアスファルトの地面にキィンと日本刀を鳴らして左手に構えると、右手に黒いエーテルを集中させる。

たぶん、機械たちの声が遠くなり始めたのは『四月事件』が終わって一ヶ月が過ぎた頃だ。

お兄様はもう二度と地上には戻ってこない。

お姉様は『死のエーテル』なんて認めてくださらないだろう。

だから、いつの間にかスマートフォンの──ヤジロベエ──は言葉を話さなくなり、機械たちとのコミュニケーションに齟齬が発生し始めていた。

私にだけ許されている『魔術回路』は結局のところ思春期特有のESPに似た症状なのかとも疑い始めたが『Lunaheim.co』製の『スナップショット』に巧妙な細工が仕掛けられていたことに気付いた時には、まるで道端に存在するはずのない黒いすみれでも偶然に発見してしまったような絶望感に襲われた。

──あのね、ぼくたちは君を裏切るよ。和人はピュグマリオンでもメンヘラでもないんだ。多分、ぼくたちを本当に必要としている──

魔法少女として生きていく方法を選ぶ必要性があるのなら託された超変曲点発生力場形パワードフレーム『スナップショット』は『死のエーテル』が十二分に満たされることで意志を持ち、まだ未知のエーテルと呼べるエネルギーを詳細に解析しきってしまった後に仕えるべき主人を選んでしまった。

精密な機械には心のような機構が存在していることを図らずとも知ってしまった巡音は同じ『『Lunaheim.co』』の取引先の一つであった『S.A.I.』と接触し、『ルールブック』の改変によって第三勢力の介入が許し始めた『TV=SF』との事実上の業務提携を結び始めた彼らとの関係を深めることになる。

それは巡音や中沢の所属していた科学技術特援隊『コンビニエンスストア』を率いるのではなく発展的解体へと推し進めようとしていた『赤を制圧するもの』西田死織の存在が大きかったようだ。

「シオリ姉様は私たちとは違う。正直な気持ちを言えば、人間であるかどうかも疑わしい。だから傍にいる私と、だから離れたお前の正しさを証明するのは結局のところ、『フリープレイ』に参加する『バトルノイド』としての戦果でしかない。だから、私も負ける気はない。簡単に答えを出したりせずに暴力の意味を考え続けるよ」

巡音は左手に収束し始めた黒いエーテルを使って周辺でクラクションを鳴らしていた車やバイクからエンジン部分を分解しながら機械の一部分を奪い取っていくと、バラバラな機械たちが巡音のエーテルに従属するようにして収束し、彼女の身体を覆って鋼鉄の鎧を作り出すと忍び装束で無防備な巡音潤を圧倒的な戦力を有す人型兵器へと強化していく。

「和人とはやっぱり合わない。彼の正しさは私たちを殺す為のものだ。機械の声が聞こえてたった一人だけ違う苦しさなんて気にもせずに彼は喜びに変えてしまうつもりだろうしさ」

巡音を覆う重金属によって生成されたパワードフレームは身体機能を極限まで引き上げるように彼女を機能的に最大限まで高めていく。

時速百キロメートルを超える超高速運動の中で繰り出される『鬼丸国綱』の斬撃は、進化した巡音の前にあまりにも無防備な中沢乃亜に向かって次々に空気を切り裂いて繰り出されていく。

大気を断裂させるほどの強力な攻撃に正面からは受け止めることが出来ないだろうと中沢乃亜は瞬時に判断すると、──Brave Shine──のギアをあげて彼女と同じ人間限界の外側の時間の侵入を決意する。

「やはりそうなってしまうな。インフレーションがもたらす魔人化を私たちは許容し過ぎてしまったんだ。ノア、人である事を辞めて大衆を救うのかい。私たちは此処から飛び出すべきではないんだよ」

横尾深愛は渋谷スクランブル交差点の様子を手持ちカメラで撮影しているマオ、タオ、リオの三人組が届ける映像を見て集積された情報からD地区にのみ湧き上がっている異常な『アセチルコリン濃度』の上昇の記録を確認している。

彼女にはやるべきことがあり熱狂に呑み込まれていく渋谷地区においてとても冷静に水面下で巻き起こる勢力地図を適切なバランスで補正しようとしている。

渋谷区のほぼ全域と新宿区、目黒区、世田谷区、の一部にまたがっている加熱したムーブメントによって不自然な完全性への変化が断続的に記録されていることを冷静に分析しながら横尾深愛は日本へ一時帰国している責任を果たそうとする。

そう、たぶんまた新しい人がやってくる。

大きな口に騙されてたくさんの人が犠牲になる、横尾は彼を殺すべきかそれとも救うべきかを思い悩んでいるようだ、本当にとても珍しいことに。

彼女にとって人の命はダンゴムシと変わりがないのかもしれない。

きっとそれは彼にとっても同じことだろう。

「なぜぼくのことを思い出すんだ。忘れるのがお前たちの礼儀だろう。ぼくはいまだに暗闇から空を呪い続けている。今はそれがぼくにしか出来ない最大限の悪意の具現化なんだ」

地と天がひっくり返って懺悔を捧げる声が降ってくる。

人混みに掻き消されて見えなくなる。

期待された希望が白熱した殺意の暴走によって滲んでいつの間にか空気の中に溶け込んでいく。

巡音は重武装した身体で刀身を振り回し、風を切るように高速で回転しながら演舞によって中沢乃亜を圧倒する。

けれど心のどこかで少しだけ誰かが傷つくことにまだ遠慮しているのか空気を切り裂いた刃が二人の高速戦闘を観戦している人たちへ襲いかかっていかないように切っ先の力をほんの少しだけ微細なコントロールで抑え続けている。

それはもしかしたら優しさと呼べるようなもので、無機質なパワードフレームを装着していても尚、蹂躙する力を手に入れたからこそ産まれてしまった逡巡に巡音は気付けていないのかもしれない。

中沢の肉体は人間限界を越えようとしている巡音のスピードを把握しきった状態で彼女が持つ迷いの中で一体何を伝えようとしているのか探ろうとしている。

「あのさ、私を舐めている訳じゃないのはわかる。けど、もし彼らを殺したくないなら『鬼丸国綱』は持つべきじゃないよ」

──カタオモイ──は急速に光を充電し、『鬼丸国綱』の刃に垂直に激突する。

「あは。舐めているのはお前だったりして。鋼鉄だけじゃないんだ、私を守っているのは。私の刀は高高度の高熱の中で産まれて私の傍にずっといる」

コンクリートに囲まれたアジトでくんくんと白河稔は人間の嗅覚では感じ取れないホルモンバランスの変化から発生する死の匂いを感じ取り鼻を鳴らして唸っている。

「佐々木氏。女性というのはピンチの時に駆けつける男のことをどう思うでござるか」

白河稔の質問に『アースガルズ』はにやりと反応して即答する。

「さすがだな、童貞。やりたいだけの男だと思われるぞ、確実に。黒髪パッツンには近づくなよ、お前の溜め込んだエーテルが失われる」

シュンと落ち込んでキーボード操作を辞めてすぐにでもアジトを抜け出そうとした気持ちを静止して白河稔は膨らんだズボンを隠すようにして作業を再開する。

「この作業が終わった後にでも『スナップショット』はぼくがしっかりしつけ直す。あの魔法少女は少しばかり素直になるまで助けてはやらんつもりでいる。まぁ、彼女が選び取った道の続きを描く準備はしておこうと思うけどな」

佐々木和人はコーディングしている彼の作ったたくさんのバイオマシンの山に埋もれているハート形ステッキを見てニヤリと笑う。

もし彼女が最大出力で『死のエーテル』を使う気になるのであれば、きっとこいつは彼女に相応しい形に姿を変えてくれるはずだと信じて、とにかく今は新しい強化外骨格『毘沙門天』の最終調整段階に取り掛かる。

「確かに小生は決して折れたりしないでござる。しかし、強さとはそれだけではないでござるよ、ご主人殿。きっと暴力の形を忘れているデござるな、先は長いでござる。今小生が取り組んでいる『ペルソナ』はきっと、ぼくらに古代文明に存在していた技術を復元し、時間など本当は存在していないのだということをしっかり理解させてくれるはずでござる」

煙の出ない金属パイプは一旦机の上に置き後は死に寄り添うような純粋な眠気との戦いであることを自覚しタイピング速度をあげる。

欲に溺れることは潔く受け入れることが出来る。

けれど、白河稔を獣人化させた血の盟約は少しずつ近付いてきている嵐の予感を感じさせてしまう。

金色の毛並みを淡く光らせて遠く離れた彼の化身と意識が完全に結合して巡音潤の持つ『鬼丸国綱』に力が宿り始める。

「そう。こいつは折れたりすることはない」

黒い光を纏った日本刀は、中沢乃亜の肌すれすれを渡りながらほんの少しでも触れてしまえば簡単に肉が裂け骨の絶たれるイメージを植えつけ続ける。

けれど、そんな巡音の甘ったるい暴力に別れを告げるように中沢の右ボディが巡音の右脇腹に突き刺さる。

──ぐはぁ──と巡音はそのまま膝をつき、激しく胃の内容物を吐き蹲る。

彼女の体内のエーテルで生成されていた鋼鉄の鎧の結束力がとたんに失われてバラバラと地面に機械たちの一部が剥がされていく。

「カノン。わかってくれたかな。私はこの場所から一歩も動いていないんだ。ここで引いてくれるのならばあなたの刀が折れることはない。私も、それに『Lunaheim.co』も、果たすべき役割を、歯車の動きを、一分たりとも乱したくないだけなんだ」

巡音は日本刀を杖がわりにし、吹き飛んでしまいそうな意識をギリギリ保ちながら顔を見上げ中沢乃亜を睨みつける。

ハラワタが煮え滾ってやり場のない怒りの矛先が決して中沢乃亜に向けられるものではなかったと知りながらも巡音に渦巻く『死のエーテル』が彼女自身の在り処を探そうとしている。

彼女が持つ三百年ぶりの黒いエーテルは彼女自身にその使用方法と使用目的を尋ねようと彼女の内臓全てを侵食して肺胞から出口をずっと伺い刃を剥き出しにしたまま彼女が力尽きるのを待ち構えている。

力が受け取るべき主人の力量を見計らっている。

「あぁ。その通り。私だって役割を演じている。けれど、敗者の役目に勝利を願う気持ちが消えてしまったとしたら、それはただのピエロなんだ。私に負けることは許されない。ノア、箱舟に乗れないものの気持ちを理解したことはあるかな」

悪意には悪意の存在意義があるのだとして、それをもし正義だと呼んでしまうのであれば、巡音のもつ『鬼丸国綱』が折れることは確かにないだろう。

けれど、『勝利』の二文字が輝く場所が常に定められていることをもしかしたら巡音は迷い続けているだけなのかもしれない。

「完璧な肉体。私は嘘をついている。程遠いことに気が付いている。けれど、お前のいう通り私が折れてしまってはエンターテイメントが成立しないんだ」

「あはは。そうか。そうだよね。私は魔法少女だからたぶん黒一色の忍び装束に身を包んだ忍者じゃないよ。けどね、もしシオリお姉様が私たちの味方ではなかった時のことを考えたことがある? 私はチルドレ☆ンでもないし、肺の欠陥はあなたの手足とどこが違うのかわからない。パーフェクトヴァルキリーと呼ばれるあなたはきっと私とは違うものを手に入れられているはずでしょ。だから私はあなたを殺す気で立ち向かっているよ」

『竹右衛門』がスクランブル交差点上空を浮かびながらデータを送信し続けている。

迷いを数値化して、正しい基準値を理解させようと必死に平均値を導き出している。

少しだけ上昇させ過ぎた『アセチルコリン濃度』を『テトラヒドラ』によって安定化させ、巡音の体内に埋め込まれた呪印『キャンパスノート』の封印が解けることを阻止しようとしている。

それでも間に合うことのない──カタオモイ──のエピジェネティックス活性効果が巡音からエーテルと細胞組織の結合を分裂させて彼女の呪いを解き解いていく。

きっと思いが通じると中沢乃亜は確信を強めていく。

「ねぇ。カノン。もしかしてお前は身体中の刻印を和人のせいだと思っているの? それは明らかに魔術。彼の扱う領分ではないよ」

『死のエーテル』の供給量が限界値まで高まり始めていくと巡音の身体中に古代文字や象形文字が無数に浮かびあがる。身体が重くなり、刻印から逃げださないように促すようにして巡音の身体が縛り付けられていく。

「これは機械たちの声だよ。あのね、『予言の書』を残したのは和人の叔父さんなんだ、多分和人たちが追っている『預言の書』とは違う形をしている。彼は世間で思われているような人物なんかじゃないって『鴇ノ下綺礼』は言っている。本当か嘘かはどうでもいいことだけれど、『S.A.I.』は確かに彼が示した道筋の中で私たちを守ろうとしてくれている。たった一人の犠牲を差し出すことで。それが老人たちの願いそのものなんだよ」

巡音はなんとか後ろにのけぞって中沢と距離を取る。

『竹右衛門』が彼女の周りを飛びまわり『メタミフェタミノイド』を使用して感覚の覚醒を呼び起こすと、彼女はスクランブル交差点の若者達の声に注意深く耳を傾けるようにして理性を刺激されたまま摩耗した神経で死を薄め始める。

「壊疽を招く行為。私は純粋化した本能で君に止めをさそう。さようなら、五人目の私たち」

中沢は不完全を主張する巡音を量子の海へと還そうと『ラジカルミラージュ』と呼ばれる彼女の青いグローブと白いロングブーツとハート形のトップスによって身体機能が大幅に強化されているD型武装に真っ白な光が宿り始める。

きっと子供の頃、憧れた変身ヒロインみたいにうまく悪と正義を切り分けて考えることを私は出来ていない。

けれど、巡音は自分とは違う道を選んだんだ。

せめて、『執務室』情報局によってマスの意識の画一的保存を効率的に運営制御する為に作り出された新しい許諾周波数に彼女が登場する為の機会を奪い去ろう。

中沢はたぶん少しずつ高まっていく正義の味方としての自覚を『ラジカルミラージュ』に宿らせる。

巡音潤は最終決戦を受け入れるようにして立ち上がって『鬼丸国綱』を握り締める。

「そうか、分かった。それなら、私の手に入れた力を見せてやる。ノア、最後の闘いだ。来い! 『藤丸』!」

巡音が左手を掲げて『鬼丸国綱』を差し出すと、『竹右衛門』の頭のプロペラが高速回転して、渋谷駅スクランブル交差点に乱流を引き起こす大気の渦が産まれ空間が捻れ曲がって断裂していく。

それは此処ではない何処かと繋がっていて次元の向こう側から巨大な鉄人兵器が這い出るように出現し始める。

二十メートルほどの起動原理不明の人型兵器が現れるとアスファルトに超重負荷をかけ地面がひび割れてスクランブル交差点に地響きが伝わり始める。

歓声と悲鳴で狂乱の渦に巻き込まれる渋谷駅前はまるでアニメの向こう側から出てきた巨体の稼働を知らせるようにして現れた巨大ロボットの目が起動を知らせるようにして光り始める。

巡音は『鬼丸国綱』を胸に抱き抱えると、ロボットの胸部からピンク色の光線が発生し、彼女をそのままコクピット部分に迎え入れるようにして吸い込んでいき招きいれていく。

「『Lunaheim.co』ではなく、『ガイガニック』社製。汎用人型巨神兵器『藤丸』。お前たちは戦争のバランスを完全に崩壊させるつもりか。けれど、私を本当に甘くみている」

『藤丸』の巨大な鋼鉄の右手が中沢に襲いかかりそのまま強烈な負荷で押し潰そうとする。

中沢は青いグローブ──カタオモイ──を頭上で交差させると、『藤丸』の強烈な一撃を受け止めきるけれど、彼女の身体は地面に三十センチほどめり込んでしまう。

『藤丸』のコクピット内部には、三百六十度モニターで囲まれた巡音が『国丸鬼綱』の刀身と融合したコントロールインターフェースに両手をかざすことで意識の結合を行なっている。

結局のところ、必要なのは最高純度まで洗練された技術の結晶なのだと巡音はコクピットのモニターから見る1/4ほどの大きさの中沢を見下ろす。

『藤丸』の一撃は次元境界線を超え、『非許諾周波数』の中で繰り広げられる『バトルノイド』の戦闘にしか干渉を及ぼさない。優しさを捨て切れなかった巡音にも最大戦力を与えるようにして、未知の構成物ダークマターで組み上げられた『藤丸』の右手に『真 鬼丸国綱』が現出する。

「全力でいくよ! 『藤丸』! 『ガイガニックソード』!」

弛緩と緊張の狭間で揺れ動く空間を光の刃を一閃すると、無数の斬撃が産まれて中沢を襲いかかる。

中沢は斬撃の隙間を縫うように一つ一つの閃光をかわし、光の刃の刃渡りを足場にして『藤丸』の頭部まで駆け上がると、中沢は──Brave Shine──に収束したエネルギーを右中段蹴りに変えて破壊しようとする。

けれど、攻撃予測地点を正確に把握した巡音の意識がすでに先回りしていて、物理的限界速度を超えて稼働する巨大な左手が中沢の一撃を防ぎきる。

スクランブル交差点周辺のビル群と大差がない巨軀にも関わらず高速戦闘さえ可能な『藤丸』と中沢のもはや生半可な『バトルノイド』では太刀打ちすることの出来ない近接格闘に渋谷に集まった観衆、『スペクタリアン』たちは魅了されていく。

広告モニターが派手な演出の映像を流してさらに熱狂を最高状態まで加熱させていく。

「ぶーん。ありえませーん。渋谷駅に巨大ロボットしゅつげんちゅー。なんですかーこれー」

マオが改良を進め安定度を増した装着型ドローンでの空撮と実況でスクランブル交差点の様子を配信している。

「はい! なぜかエンジンぶっこぬかれたせいで移動出来ません! タオニャンの愛車は行動不能! ましてや何があっても理解不能! ここはどこだか解析不可能!」

タオが熱狂の高まる井ノ頭通り沿いでバイクに跨り立ち往生している。

「お! そこのあなた! こんな非現実的な状況が突然訪れて怖くないですか! あれ、巨大ロボットです!」

リポーターとしてマイクと手持ちカメラを持ったリオが集まった若者の一人に突撃取材を仕掛けている。

「えーでもーかっこいいからいいかなってー」

「うん! わたしたちはこういうのがみたかった! ぜんぶ壊しちゃって欲しいな!」

横尾は渋谷周辺をハックしたカメラで空想世界から飛び出してきた未曾有のショウの様子を捉えて無数のモニターで囲まれた自室で、若者たちが完成されたエンターテイメントの不自然さに慣れていくことを監視している。

まったく理解不能な巨大構造物の登場でさえ、当たり前のテレビプログラムの一部であるかのように受け止めて慣れ切ってしまう『スペクタリアン』たちの様子を横尾もまた冷静なまま観察して、机の上のコーヒーに口をつけて思った通りの方向に『フリープレイ』が動き始めていることを確信する。

西田死織というリーダー不在の中『コンビニエンスストア』を取り纏めていたことによる精神虚脱状態が長く続いていたために、ピルケースの錠剤は空っぽになってしまったけれど、彼女が作り出したいと考えている狂気の設計図を頭の中でもう一度描きながら、横尾は徐々に平静を取り戻し始めた自分を客観的に診断する。このままでは逸脱することに慣れ切ってしまった思考によって現状を正確に模写して知らせるための人工物が必要になって来るかもしれないとおそらく『記号と配列の魔術師』である横尾深愛の範疇の外側から余分な一手がどこからか湧き出て介入してくる可能性があることに溜息をついてしまう。

「まったくあの子は昔から予測不能な領域から魔法を生み出してくれる。確かに科学はまだ進化の途中にある。千年以上昔に産まれたエーテルのことを私たちはまだきっと知り得たばかりなんだな。けれど、穢された魂を私がこの都市を使って復元することになるのだとすれば、彼女もまたこのままでいてもらっては困る。大人にならなければいけない。ノア、決着をつけてやるんだ」

『ガイガニック』社が提携している『赤い星』の魔導師連盟は『大和』には伝わっていない術式の一部を『S.A.I.』との契約条項に乗せて大きく渋谷で起きている動乱に関与しているらしいことをTVニュースは伝えている。

渋谷の街に予定通りにまったく予期不能な現象が起きたということをヘリコプターの空撮で伝えながら、この世界がもしかしたら物語の世界から飛び出してきた現実の向こう側であるのかもしれないとニュースキャスターが笑顔をまじえて伝えている。

きっとまたどこかの船団で戦争が始まり罪のない少年兵が命を落とし義勇に生きる戦闘民族が復讐を誓いAK47を手に取るだろう。

洗練された技術で"藤丸』の一閃は『スペクタリアン』たちには一切干渉することなく激化する二人の戦闘行為を大きな爆発音とともに演出している。

答えを見つけるのはとても難しいけれど、きっとAK47の弾丸がこめられないことを祈るのは間違いなのかもしれないと傍で二人の思想と信仰のぶつかり合いを見つめているサメ型のリュックの女の子はモチモチポテトを食べながら世界のあるべき姿を疑り深く観察している。

「子供なぼくたちを喜ばせてどうするんだろうか。きっと『TV=SF』は流行りの肺病に侵されているのかな。帰ってゲームでもやりたくなってきてしまった。演出と構成ならば、いっそのことスネーク大佐でもコントローラーで操っている方がいい」

モチモチという咀嚼音が爆発音の隙間を縫って微かに誰かの耳元に届く。

伝えたいという意志だけが一人歩きして言葉を紡ぐ。

あの忌々しい歌はみんなに届き渡っただろうか、サメ形のリュックの女の子が大嫌いなあの歌が出来る限り多くの人に届いて希望を与えてくれればいいなとそんなことをいまだに眠り続けたままのハリソンの夢の中へこっそり連絡網を送ろうとする。

「未知の構成物ならば、量子変換させて矛盾する法則性の中へ回帰させるだけだ。『ラジカルミラージュ』D型武装に最終形態へ移行。『過激な弱虫たち』を呼び出して対象を完全に排除、覚悟を決めるよ、中沢乃亜!」

自らの名前を呼称し、全身を七色の光で包み込むと中沢の姿はきっと誰もが子供の頃憧れた変身ヒーローの姿へと切り替わり、最強の姿を具現化する。

何もかも無に還そうとする『藤丸』の高純度の洗練された技術を『ラジカルミラージュ』によって構成された正義の心を宿した必殺武器──※3蝶々結び──が発動して巨大な構造物を量子変換するために襲い掛かる。

「あーあ。やっぱり負けちゃうんだ。私はさ、最強の機体を手に入れたんだよ。だけど、やっぱり勝利を収めるのはお前なんだ。まったく本当に口惜しい。魔法少女のままでずっとずっといればよかったなー」

『ラジカルミラージュ』の一撃が巨大な光になって『藤丸』を包み込む。量子変換される未知の構造物から球体だけが飛び出してどこか遠い空へと消えていく。

渋谷駅スクランブル交差点に突如出現した悪意の結晶は周囲の『アセチルコリン濃度』を限界まで引き上げた後に、物理法則の存在する現実世界の分子へと戻っていった。

もしかしたら、何も起きていなかったかもしれないけれど、渋谷駅スクランブル交差点にはみんなが憧れ続けている『ラジカルミラージュ』が少しだけ息を荒げて自分の役割を果たしていて、『スペクタリアン』たちに彼女の姿を焼き付けている。

本当に少しだけ子供の心を取り戻した大人たちが──やれやれ──と溜息を漏らして明日からまた始まる当たり前の日常のことを思い出して嫌気がさしている。

けれど、まぁ、こんな日も悪くはないかもしれないと名も無きサラリーマンはいつもだったら我慢をする路上喫煙をするために煙草に火をつける。

小さな悪意が今はとても必要だろう、世の中はこんな綺麗事だけで生きていく訳にはいかないんだと煙を吐き出した男が瞳を濡らしている。

まぁ、だから、とりあえずぼくが歯車の動きを一分だけずらす悪戯はこの程度にしておこうと名も無きサラリーマンは日常へと舞い戻る。

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