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05.Mothertongue:I.Archive

「ふん。ようやく本気になりおったか。俺を海の底から脅えさせるだけのエーテルをそのまま放置して宇宙には旅立てんよ。思い知れ、自分自身に眠っている力を」

屋上で鉄柵に寄りかかりながら獅子の立て髪のような金色の毛並みの大柄な男が煙草を吸っている。第一グラウンドを歩くあまり目立ちそうな四人を見て巡音悠宇魔は宇宙を見上げると、夕暮れ時の空を貫く白い閃光が疾っていく様子を追っている。

「とにかく阿久津は普通科棟から連絡通路を通って魔術科棟二階に集合しよう。ぼくらは先に行って待っている」

阿久津は手を振って手に持った奇妙な模様が浮かび上がった藁半紙をぴらぴらと振って第一グラウンドを南側へと一人で歩いていく。喪失を経験して大人への階段を登っていることを背中で語っているような気がしてその姿が少し滑稽でぼくと伊澤と天宮は吹き出してしまう。

「校内で誰かと一緒に歩くのは初めてかもしれない。お弁当も下校も登校もいつも一人だから」

伊澤の正直な一言をさりげなく流しながら、孤独を享受していることを誰かに責められているような気がしていてもたってもいられなくなり攻撃的な気持ちが抑えられなくなる時があってそういう時は大概ノートに思いついた合成魔術を書き込んで気持ちを落ち着けるようにしていることを思い出す。それはとても神聖な時間でたった一つの記号が結果を大きく変化させてしまう時に予測した事態と違う状況に追い込まれて目を疑うようなことが何度もあってそれは大切にしていることを出来る限り正確に記録したいときに起きるバグのようなものとしてぼくの目の前に現れる。

「初めてこちら側へ来たよ。入り組んでいるかと思ったけど案外シンプルでほとんど同じだな。けど、結界が消える時は興奮したよ。魔術か。今まで馬鹿にしていたからな。ただの厨二かと思ったぞ」

七星学園の普通科棟と魔術科棟は学園七不思議の一つ『連絡通路』を通じて結ばれている。およそ50メートルに渡って続く回廊は学園のほぼ中央に位置する『神人の塔』と呼ばれる学園最大の七不思議を大きく迂回する形で繋げられている。端的に言えばぼくは神様の存在を信じていない。宇宙空間を航行し続けているこの惑星型宇宙船『ガイア』はかつて自分たちの母なる惑星から飛び出したチルドレ☆ンと呼ばれる御伽噺の中に出てくるぼくたちの創造主たちが創り出したと言われている。そうしてこの七星学園は神様たちの手によってぼくら人類では到底作ることが不可能な空まで伸びる『神人の塔』とその袂にそびえる機械仕掛けの建物が中央に鎮座している。ぼくらは普通の生徒はその中に入ることは出来ないし、中にチルドレ☆ンと呼ばれる神様たちがいたとしても実際に見たことはない。けれど、一年に一度たった一人だけ全国から選ばれた最も優秀な人間だけが魔術回路を持つ、持たない、に関わらず『神人の塔』を利用して天まで駆け上がることが出来るとぼくらは教えられている。もちろん最高位の魔術師は普通の人間では足元にも及ばない能力を持っているので大抵の場合は優秀な魔術回路を持った人間が天まで届けられる。毎年のように熾烈な競争の果て悲惨な思いをしたり望みが絶たれることで悲観して最悪な結果を選択する生徒も後を絶たない。そのことは深刻な社会問題というよりも本当にたった一人だけが空に駆け上がる資格があるのだという現実をぼくらに教えてくれるとても簡単なシステムだとぼくは考えている。だからぼくは神様を信じていない。身を焦がすほどの願いも最大限の努力も彼らは自分たちの奔放な選択によって無碍にしてしまう。きっとあの塔を登る人は最初から自分の役割を理解しているんだと思う。歯車の動きを一分足りとも乱さないことの重要性を最もよく理解している人間だけが宇宙でチルドレ☆ンと出会えるのだろう。

「それは良かった。結界なんて見ないで卒業する人たちも多いだろうからね」

ムーンは自律的発光をする衛星型基地としてガイア周辺を周遊しながらチルドレ☆ンたちのほとんどはその場所で生活をしている。ぼくたちはまるでその月に願い事を届けるようにしてガイアを抜け出す為の宇宙開発も同時に続けてきた。眩いばかりの星に宇宙ロケットを飛ばしてもムーンにいるチルドレ☆ン達とは出会うことが出来ない。彼らはぼくたちが辿り着くことの出来ない月の裏側でガイアに襲い掛かってくる宇宙怪獣たちと闘っているとぼくらは小さな頃に読んでもらった御伽噺から知っている。相対性理論の発掘によって定義することの出来た人工衛星プロジェクトが宇宙空間を観測していてもチルドレ☆ンたちはぼくらの感覚に入り込むことを拒絶しているようだ。神は不在と実在を同時に証明して無機物と有機物の狭間を漂っているのだ。会えるのは一年に一度最も優秀な能力を持った人間だけで彼らは子供みたいにはしゃぎ回りながら自分の持って産まれた能力を試そうと機を伺い続けているのだろう。

「普通科へ行く為の連絡通路と魔術科に来る為の連絡通路は別の種類の結界が張られているんだろ。理事長はぼくたちが根本から違うということをわざとらしく教育の中に取り入れている。この学園が全国でも有数の進学校であり続けている理由。ぼくはその競争社会の進歩的模写ってやつに一年でへこたれてしまったけどさ」

伊澤が珍しく口数を多くして魔術科に訪れた普通科の阿久津を不器用に歓迎しようとしている。

「私は初めて分解のエーテルを使用した時の周りの反応を覚えているんだ。同じ人間ではないと断定されてその日から昨日まで仲良かった幼馴染は二度と話してくれなくなった。怖いのかと思ったら違った。私には自覚が必要だと教えようとしていたんだ。本当に余計なお世話をするやつだと思ってしまった」

天宮はちょっとだけ悔しさが抜けて力を入れず女の子らしさを取り戻そうとしている。スラリと背の高いモデル体型の天宮には不釣り合いなエーテルだなとぼくは一瞬だけ思ってしまう。もし彼女の極端な暴力を受け止められる人がいたら彼女はもう少し女の子らしい見た目をしようと考えるのかもしれない。

「まぁ、とにかく阿久津が暗がりに求めていたことを見に行こう。案外ぼくらと同じものを探しているだけなのかもしれない」

連絡通路から右へ真っ直ぐ進むと突き当たりに美術室がある。廊下を進んで左手の美術準備室は電気がついておらず鍵も閉まっていて入ることが出来ない。美術室もきっと同じだろうと扉を開けようとすると電気はついていないけれど引き戸扉は開くようなので中に入り左手にあるスイッチを入れて蛍光灯で美術室を照らす。何の変哲もなくたぶん先週の授業を受けた時とほとんど同じだけれど、中央の作業台の上に50号サイズのキャンバスが置かれて赤い絵具でペンキバケツからぶち撒けられるように染められているのが分かる。大方美術部員か誰かが書きかけの絵を置きっぱなしにしているのだろうと思うけれど、それらしき人影も見当たらない。周囲をぐるりと見渡すと中央の黒板には何も書かれておらず頭部だけの彫像やムンクの叫び声をあげる絵画の模写、生徒の作品などが飾られている中で左手中央の壁に一際大きな絵が飾られているのを発見する。以前からその場所にあったのかそれともずっと飾られていたのか判別はつかないけれど、ぼくはなんだかどうにもならない魅力のようなものに惹きつけられるようにして近づいていく。

男性の等身大とおぼしき作品は目隠しをされ後ろで両手を縛られ全身を無数の切り傷で刻まれていて、最も目を引くのは局部と思われる箇所が切断されて血液が流れ出ている点だった。たぶんこんな絵だったら先週の授業の時点で気付いていてもおかしくないはずだし、そもそも美術教師の蜷河はとても頭が固くこんな絵を飾ろうとは思わないだろう。

「なぁ。これが俺の毒蜘蛛の対価かよ。どう考えても数学の柿元だろ。なんだよ、これは」

阿久津が少しだけ苛つきながらも舐め回すようにじっくりと傍によって絵を観賞している。言われてみれば柿元とよく似ていているけれど、身体中の傷や股間の出血が妙に生々しい。

「毒蜘蛛とは言えそうにないね。ただこの絵はとても鬼気迫るものがある。柿元先生だとして、本物だってことはあるのかな」

伊澤が慌てふためきながらぼくの言葉の真意を探ろうとしている。そうだ、これではまるでこの絵を描いた人物が柿元を殺そうとしているみたいだ。

「ば、馬鹿なことをいうね。まるで誰かに見せびらかす為にこの先生を殺したかもしれないってことでしょ。そんな奴が学園に忍び込んでるって意味じゃないか」

阿久津が渋い顔で絵画鑑賞をするのを辞めてニヤついた笑顔を取り戻し、まるで求めていた答えが目の前に現れたことに興奮するようにぼくのことを睨みつける。

「どういうことだよ。聞かせろ。こととしだいによっちゃ毒蜘蛛の件は不問にするよ」

「そういう感情を否定せずに露骨に出せるのは羨ましいことかな。けどさ、柿元先生だとしたらいくらなんでも想像だけでこんなにリアルな絵を描けるかなって思ったんだよ。傷跡の一つ一つがとてもリアルなんだ」

「本当だな。別に大してうまくはないけれど実際に目の前でみて描いたって感じがする」

天宮がぼくの推測に感心するように柿元先生が全裸でズタズタにされるという奇妙な絵を批評する。

「おい。それじゃあ、この背景の絵は学園のどこかってことにならないか。見覚えがあるものが書かれていそうだよな」

ほとんど黒い背景だけれど、暗闇でぼんやりと浮かび上がるようにマンドラゴラと思しき形の植物が書き込まれている。だとすると、魔術資料室あたりで描かれた絵だということだろうか。もしくはマンドラゴラが持ち出された薄闇の中で柿元先生は誰かの悪意に巻き込まれている。突拍子もなく論拠もない推測ばかりが妄想的に膨れあがっていき危うい答えを熱に絆されて選び取ろうとしている自分を戒める。

「順当に行けば魔術資料室だろうけど、不用意な推論はよくないね。画力のある生徒ならばこのぐらいは描き込めるかもしれないし」

なんだよっと阿久津がつまらなそうに呟いて中央の作業台のキャンバスをじっくり観察して臭いを嗅いでいる。どうやら普通の絵具らしく素直に引き下がろうと納得しかけている。

「わかったよ。魔術科っていうぐらいだからつい新しい冒険の扉が開いてくれることばかり想像してしまうな」

渋々納得した阿久津の未練を断ち切るようにしてぼくらは美術室から出ようとする。伊澤は自分の疑念がこんな事態を招いたことを阿久津にぺこぺこと謝っているけれど、見たことのない魔術が見れたから大丈夫だ、六年の付き合いがあった毒蜘蛛だから少し寂しいけれど新しいやつを探すことにするよとお互いのわだかまりを打ち消そうと話し合っている。

「ねぇ、時田。暇なら私のうちに遊びに来ない?一緒にみたい映画があるんだー。お前さ、たまに猟奇系の漫画読んでるじゃん。趣味合いそー」

黒髪ロングの女子生徒が爽やかな見た目で中分けのミディアムヘアの男子生徒の腕を組み、自分の魅力をアピールしようとしている。胸を押しつけ男子生徒の顔を覗き込み顔色を伺っている。

「忘れ物を取りに来ただけなんだ。米澤には悪いけど、急いでるから」

素っ気なく組んできた腕を振り解き、時田学は机の引き出しから数学IIの教科書を取り出して鞄の中に入れて足早に教室を出る。とても冷めた目つきで時田学の後ろ姿を見つめながら米澤恵理奈はとても口惜しそうに右手の人差し指の爪を噛んでいる。

「それじゃあ今日はこの辺で。毒蜘蛛の件はぼくからも謝るよ。なんて言っていいか分からないけど、やっぱりあーいう魔術の類は簡単に人に見せびらかすものではないね。本当にごめん」

「大丈夫だ、気にしてないと俺が言わなきゃいけない雰囲気だな。けど、お前も見せたくないことを見せてくれたんだ。おあいこってことでかまわないよ」

連絡通路の前でぼくは阿久津に謝罪の言葉を述べて彼はぼくに感謝の言葉を述べる。普通科に戻るには来た通路と反対側の通路を戻れば帰ることが出来るので第一正門がある普通科棟側へ阿久津は戻り、ぼくと伊澤と天宮の三人も下校の準備をする。ふと時計をみると17:38であたりは沈み始めた夕陽で赤く染まり始めている。階段から下駄箱へ向かおうとすると、三階から黒い眼帯の女子生徒が降りてきている。芹沢美沙はこんな時間まで音楽にいたということだろうか。-245番を実行した時に浮かんだ奏と痛という文字が気になった瞬間に階段で芹沢美沙が脚を踏み外して転落しそうになり、ぼくは咄嗟に彼女を支える為に身体を伸ばして彼女を受け止めてその拍子に脚を挫いてそのまま階段前の廊下に転倒する。伊澤と天宮が駆け寄るけれど身体を受け止めた時に脚を挫いてしまい身体を重ね合わせたままぼくは起き上がることが出来ない。仄かなシャンプーの香りがぼくの鼻先をかすめて少しだけ気分が高揚する。天宮が芹沢美沙を、伊澤がぼくに手を貸してゆっくり立ち上がりぼくらは至近距離で顔を見合わせる。

「本当にごめんなさい! どこか痛めたりしていないですか?私の不注意でこんなことに」

芹沢美沙は透き通るように綺麗な声でぼくの身体に触れて怪我の様子を気にしてくるけれどぼくは少しだけ強がってなんでもないフリをする。

「大丈夫。ぼくのほうはなんでもないよ。君の方こそ怪我はない?」

芹沢美沙は自分の身体のほうを注意深くみて膝のあたりに出来た小さな赤い痣を見つけた後に手を振って笑顔を浮かべる。

「私も大丈夫です。本当にありがとうございます! 良かったら名前とクラスを教えてもらってもよいですか?」

軽くお辞儀をした後の彼女の質問にぼくは少しだけ躊躇ってから彼女の顔色を伺うように返答する。

「えっと、2-β、黒灯真司です。あなたは?」

「β。そう。魔術科棟ですもんね。ここは。私は普通科2-B、芹沢美沙です。黒灯さんですね。覚えておきます。それじゃあまた。本当にありがとうございます」

深々とお辞儀をして芹沢美沙は連絡通路のほうへ足早で向かっていく。少しだけ左足を庇っているようだ。ふと足元をみると、※5『物質と記憶』と書かれた本が落ちていてどうやら彼女のもののようだ。アンリ・ベルクソン。実証主義的形而上学なんてものに傾倒する女子高生がいるとは考えにくいけれど、表紙の汚れ具合からそれなりに読み込んでいるように感じる。ぼくは本を拾い上げ、埃を払い鞄の中にしまう。

「大丈夫かな。だいぶ派手に激突してしまったようだけれど。脚を挫いたの?」

「少しだけ。けれど問題はないよ。それよりそろそろ帰ろう。第二正門は18:00には閉まってしまう」

伊澤君に肩を借りながらぼくは一階まで降りて下駄箱へと向かう。痛みが歩く度に骨に伝わってくるけれど大事には至らなそうだ。伊澤くんはバス停まで送ってくれるというので天宮と三人で七星学園第二正門前のバス停まで歩くことにする。下校がかなり遅くなった為か人もまばらでぼくは脚を引きずりながらもゆっくりとバス停までの最短距離を歩いていく。駄菓子屋の前にはこんな時間なのか小学生も集まっていない。公園を抜けバス通り沿いへでたところにある「中央書店」という小さな古本屋には相変わらず山積みのワゴンセールが置かれているけれどお客が入っている様子がない。伊澤くんがしきりに心配そうにぼくの右脚の怪我を気にしていて、天宮がそのたびに大丈夫だということを優しく諭している。もしかしたら、今日美術室に行ったきっかけを作ったのが自分だということを彼は気にしているのかもしれない。

到着したバスに乗ると、席はもう既にいっぱいでぼくら三人は吊革に捕まってお互いのことを少しだけ話す。天宮は2-αでとても強力な分解のエーテルの持ち主。最大出力で使えばほとんどの物質は跡形もなく分子レベルに解体され影も形も残さない。子供の時、エーテル粒子体が体内で安定化を始めて自分の意志で使えるようになった頃さりげなく放った拳の一撃で母親から貰ったフランス人形は一瞬で目の前から完全に消滅してしまい驚いた天宮は泣き喚きそれ以来決して人前では怒らないようにと努めてきたらしい。自分の力はあってはならない禁断のものだと小さな頃にそう自覚したということだ。とても女の子らしくどちらかというと美人な天宮がどこか男勝りなのはきっとそういう理由からなんだろう。伊澤は2-Δ。クラスには学内ランキング2位の九条院大河がいて何もかも自分とは違うのだということを隅から隅まで細部から表面に至るまで決定的に見せつけられる。中学の頃までは自分の固有エーテルのことを神の力だと思っていた。この力があれば伊澤は何もかも思い通りになるし、誰にも負けることがないとずっとそう思っていた。大気中の水素分子を収束させ氷へと変化させることの出来る伊澤は氷柱のエーテルを使いこなそうと自分自身の力を研究してきたらしい。使う当てのない攻撃用や喧嘩にもし巻き込まれた時の防御のために氷の壁を瞬間で生成

出来るまで磨き上げた彼の力に対する希求心は高校二年に進学するにあたり脆くも崩れ去った。もちろん努力という言葉が陳腐に見えてしまう自分よりも優秀なクラスメイトたちの固有エーテルを見て希望がすり減らされることはあったけれど、彼はその度に自分自身を苛め抜くことで乗り越えようとしてきた。けれど、九条院大河という銀牙の血族の正統継承者はそんな彼の願いを完全に完膚なきまでに打ち砕いてしまう。高校一年時の全国統一試験時、九条院が自身の固有エーテルのほとんどを事故で使用出来なくなってしまっても尚、伊澤と九条院の違いは歴然と現れてしまった。ものが違うのだと事ある場面で見せつけられ続けた。彼はいつのまにか暗がりのあの場所でじっと体育座りをするようになっていたと言う。

「別にいじけて捻くれて後ろだけを見て過ごしたい訳じゃない。可能性だって彼の元に辿り着かなくてもたくさんある。けれど、いつのまにか力が入らなくなっていた。ただね、何故だろう。君の力も彼によく似ているのに、どうしてかぼくに希望を与えるんだよ。奇妙だけれど現実を素直に受け入れさせるようなそんな気がするんだ」

ぼくは自分の魔術術式のことを得になると思ったことは一度なかった。ただ目の前にある乱雑に散らばっている記号と配列に存在しているパラドックスを紐解くようにして正しい場所に配置して適切な力が最大効力で出力されるように導いていることはごく当たり前のことなんだと思っていた。だから、金獅子の怒りも九条院の嫉妬も恐らく先生達からの奇異の視線もぼくが何か過ちを犯しているからなのだろうと思うことにした。けれど、弥美が彼女の気持ちを素直に伝えてくれた時感じたようにぼくの力はただ特別なだけでぼくにしか与えられていない唯一無二のものだと伊澤や天宮もまたぼくの力をそう評した。何故そんなに簡単にまるで形而上に浮かんでいる線と点を見つけて繋ぎ合わせることが出来るんだろうねと伊澤は溜息をつきながらぼくの自覚なき暴力のことを話しながら7個目のバス停で先に降り、告白された男子に浮気でもされてもし殴り殺したくなってしまった時のことを考えると素直に受け入れられないんだと女子らしい悩み事を打ち明けてきた天宮は9つ目のバス停で降りたあと、ぼくはたった一人の時間を3分間だけ味わって七星学園第二正門前のバス停から10個目のバス停で降りて自宅までの道のりを毎日そうしているようにただなぞるようにして歩きながらたくさんの物事を順番に整理して鏡の中の自分の形を正確になぞりとっていく。

「穴水。私の術式の一つ。暗闇から遠ざかっていたから私は自由なんだって勘違いをしていた」

弥美は左腕に乱雑に刻まれた傷跡が自分のものではないのだと鏡を覗き込みながら自覚する。はっきりと目に映るほど影が濃くなり始めている。裸電球の灯りは弥美に小さな希望なんていうまやかしを見せていたのかもしれない。七星学園にいる生徒たちはみな自分の力の使い道を本当に心の底から求めている。王の左腕である暗闇のエーテルは弥美が光を手に入れることを決して許してはくれない。だから彼女は痛みを手にすることで少しでもその裏側に張り付いている夢の痕跡を裂傷として身体に残すことにしている。穴水という術式を使って一番与えたいものを手に入れることで鏡に映った光をほんの少しの間だけ記憶に焼き付けることにしている。だからちょっとだけ迷いが産まれてしまっている。傷を与えることに躊躇いがない人間がいるということを弥美は希望なのかもしれないと思い違いをしそうになっている。けれど、彼女の背中にはべっとりと暗闇が張り付いていて耳元で逃げられないのだということを囁き続けている。王の左腕はそういう人で名を黒生夜果里という。吸い込まれるような黒い瞳ともし目を合わせてしまったら自由という意味の全てを彼女に捧げる必要がある。暗がりとはそういう場所で微かな裸電球の光はいつでも壊れてしまうのに暗闇であることを拒否させようと誘惑を続けてくる。だから訪れる人が後をたたなくて毎年のように吹き溜まる人間が現れていつもこの場所には誰かが集まっているせいなのか不思議と寂しい気持ちは薄れてしまう。一人きりになった時に嫌になるぐらい孤独と呼ばれる当たり前の感情が湧き出てくるけれど、それはあらかじめ埋め込まれた機能みたいなものだってここに訪れる人はみなが口を揃えてそう話す。だから、いつでもこの場所を訪れて構わない。要らなくなったものならば、私がこうして火に焚べて燃やしてしまうのだから気にすることはない。あの場所は使われなくなった空間でどこにでもあるものなんだ。長く止まることはおそらく出来ないだろうし嫌な言葉や不快なものや煩わしい物事を見たり聞いたり感じたりするだろうけれど、それは予行演習みたいなものだから何も気にすることはないんだと用務員さんは用務員棟の裏手に備え付けられた焼却炉に向かって話しかけている。肉の焼ける音がして鼻腔を刺激している。初めてのことではないけれど、良くないものが産まれてしまうことは初めてのことではない。だからこれからしばらくの間は用心する必要があるだろう。何か特別で新しいものが産まれてしまう時に必要な犠牲のことならばわたしが引き受けるつもりだ。何せ四十年もこの場所にいる。気にすることはない。

「私に刻まれたのは54個の呪いです。助かる手段がないことも知っています。黒い衝動が抑えきれなくなるまで生き続けろとあなたは言うのですね」

時田学は恋人の言葉を思い返しながら数学IIの教科書の血で汚れたページと書き殴られたメッセージで見えなくなった素因数分解に関する定理を何度も復唱している。暗記するまで覚えることができたのならば良い答えを導き出せるかもしれない。彼はごく普通の生徒で何一つ難しいことを解決することは出来ないけれど、助けてと書かれた数えきれないほどの救いを求める言葉を引き受けることぐらいは出来るのかもしれないと少しだけヒロイズムに酔いながら時田学は恋人にメールを送る。

(瀧川@ねぇ、例の魔術科の友達紹介してくれる話はどうなった? 黒魔術的なやつ?とか知ってる人なんでしょ?)

(西野@大丈夫。もし必要なら明日にでも引き合わせるよ。とても素直で良い子だから。けど、わたしの友達だから迷惑はかけないでね)

暗がりで起きることは大概において誰かの微かな悪戯が巡り巡って引き起こる悪夢の続きみたいなことが多いけれど、ぼくは持ち帰ったエロスという本にまた新しく浮かび上がった首元まで延びる黒髪の女子生徒が跪いて命乞いをする男性に包丁を突き立てようとしている絵を見つけてしまい、少しだけ躊躇ってしまう。

──どうせあなたは私をまた捨ててしまうでしょう。要らないものではないはずなのにまた拾えばいいと簡単に考えて焼却炉の中に放り込んでしまうでしょう。だから、今日はわたしが先にシャワーを浴びてきます。きっと最後までいくことはないだろうけれどあなたが果ててしまうまでのことを考えて私は出来る限り多くの数を数えていられるように不感症に出来る限りならないようにしてあなたが果ててしまうのを待っていようと思っています。どうぞごゆっくりあなたの愛をわたしに最後まで囁き続けてください。わたしはあなたのことを見守っているつもりでいますから──

二つ目の絵柄の次のページには浮かび上がった文章はこれから始まる物語の幕開けをぼくに知らせていて観念の中に閉じ篭っている自責の年をどうやって外の世界へ連れ出そうとすればいいのかを必死になって考えている。もし差し伸べられた手が切り落とされてしまったらぼくは微かな希望にすがりつくようにしてこのページの続きを書き入れようとするのかもしれない。綴られた日記の続きを少しでも長くそのままで残しておけるようにして。

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