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21.It is not in the stars to hold our destiny but in ourselves.

「芹沢美沙? どうして彼女の名前をお前が知っているんだ。何を言っているのかさっぱりわからない。お前は、本当は何者なんだ」

ぼくは目の前に座っている『柵九郎』という男から話される事態の複雑さを出来る限り理解しようとして彼の目を真っ直ぐ見つめて出て来る言葉を待っている。

彼もぼくから目を離すことなく見つめ返してゆっくりと口を開く。

「お前の思っている通りだ。ぼくは『執務室』開発局『キノクニヤ』『改造医療実験体』試験番号零肆玖番、『非常用革命的人間兵器』『柵九郎』だ。だが、ぼくの中に眠る『田神李淵』、『古代種』の思念を事前察知した室長『田辺茂一』が彼女が目醒める前にその役目をお前に託したんだ。ぼくら不完全な人類を彼女が喰い殺す前に」

「それは大方理解している。有翼種と呼ばれる神の血族の遺伝的コピーをぼくは『phoenix』というマイクロナノマシン技術を通して流入させられた時に田辺先生から説明を受けている。けど、何故芹沢美沙の名前がお前から出てくるんだ」

「チルドレ☆ンたちは人であることを辞めたくなかったんだ。『パン』に背いてでも地上の人間と交わり自分たちの遺伝子を遺そうとした。お前の叔父であるサイトウマコトは世界中に散らばっている有翼種たちの伝承を記録した」

「分からない。そのことが叔父のしたことと今、芹沢さんが話の中に出て来る理由は関係ないじゃないか。少なくともぼくの叔父は芹沢さんの未来の一部を奪い取っている事実だけは残るはずだ」

ちっと舌打ちをして『柵九郎』が顔をあげぼくから目を逸らす。

最悪だと小さく呟くと学食はぼくらが最初に訪れた次元断層を行き来できる階段空間へと転移して『柵九郎』の後ろに昇り階段が現れてぼくらを挑発しようとする。

「ご機嫌ヨウ! 弱者諸君! 君たちはこの場で私に喰い殺される!  私に取り込まれ永遠の命を手にしたまえ!そう、彼等のように!」

『田神李淵』の合図で空間に存在していた階段が正常な形を取り戻すように動き回り0と1の信号の中で出逢った『柵九郎』の異次元同位体である人格がぼくと『柵九郎』のいる空間の周りに現れる。

「リエン。君のいう通りだ。ぼくは君に勝つことが出来ない。『ガイア』生命論的にもぼくら人類全体にとってもその方がずっといい。けれど、彼は駄目だ。希望なんだ。分かってくれないか」

『田神李淵』はコツコツと階段を一歩ずつ下がりぼくらの方に近づいてくる。

彼女と『柵九郎』と母型を共有する人格たちはぼくらに冷たい表情を向けたままとても憂鬱そうな表情で見つめている。

「多野上純平、久能孝治、四国遥祐、獣ヶ原琥太郎、時宮一輝、泪洛百々子、安堂由芽子、浮城大地、高橋信一、暗伏蟋蟀、壊村狂四郎、笠倉冨士子、楽業杏悟、羽村沙梨奈、棺大輔、ヤコブ・R・パドゥー、天井謙次、本庄清司、高鷺嶺斗、チィー、鈴代夜衣子。そう、スポットライトが当たり選ばれるのは常に佐々木くん、君だけだ。彼等は君の犠牲なんだ。だから私がやって来た。恐ろしいか。彼等の元に還ることが」

そういうと、分裂した人格たちは自分たちが好きなこと、好きだったことに没頭し始めてぼくらから目を離す。

ぼくと『柵九郎』と『田神李淵』のいる空閑から目を離して自分たちの人生に還ろうとする。

「李淵。あの場所を見ろ。彼はとても小さな悪意からぼくに希望を与えたんだ。俺たちはお前には近づけないんだ」

『柵九郎』が指差した空間には『七星学園』高等部で教室の中を覗き込んでいたぼくの姿が見える。

まるでぼくの行動の全てがこの空間に記録されているかのように彼の指差した空間には全方位からぼくの二〇〇八年六月十七日のぼくの姿が転写されている。 

視線の先には教室で一人きりで佇む芹沢美沙が椅子の上に座って本を読んでいる。

「君が桃枝を殺したのか。何故ぼくらを殺そうとする。お前には関係のない人生じゃないか」

『田神李淵』は笑いながら階段を降りてきてぼくの元まで近づいて来るとぼくの顔を覗き込む。

ニヤついて鼻につく表情でぼくの目を覗き込み反応を伺っている。

「彼女の悲鳴を目の前で聞いていたのは事実だが犯行そのものは私ではない。あそこで神に祈りを捧げている純平という男だ。嶺斗という人格がその手助けをした。私は九郎と視覚を共有して彼女の咽びなく声と絶命する時の絶望的な表情を眺めていただけだよ!」

ぼくは怒りに我を忘れて『田神李淵』の胸倉を掴みその勢いのまま右手をかざして殴りかかろうとするけれど、ぼくらの足元にあった地面は『田神李淵』の後ろで消えてしまい、ぼくと一緒に彼女は無機物と有機物が漂う空間へと落下していく。

(私を助けられなかったことが苦しい? あなたは彼女を救えていないのに? どうやってあなたの無力さで私を此処から救い出すことが出来るのかしら?)

宇宙から桃枝とよく似たモモコの声が聴こえてきてぼくの内部で渦巻いている感情を誘発する。

煮えたぎるような熱が腹部で増幅して全身の血液を沸騰させる。奈落の底へと転落していきながら、ぼくはぼくの中に眠っている『類』を呼び起こして右手に彼が与えてくれた力を呼び戻す。

「だったらお前に思い知らせてやる。『アウラ』だ。よく味わえ」

空中で落下しながらぼくは右手を振り抜いて『田神李淵』の右胸を貫いて右手で彼女の心臓を掴み取ろうとする。

けれど、ぼくが握り潰そうとした場所はまるで漆黒の空閑に呑み込まれるようにして右手を包み込んで『田神李淵』とぼくを暗闇へと引き摺り込んでいく。

「私が憎しみやまして喜びなどという感情にほだされて君たちを喰らおうとしたのかと思っているのか。本能だよ、佐々木和人君。私にとって君もあの聡明そうな彼女も要らない人間なのだ。神に祈りを捧げてもその事実は変わらない」

ぼくは暗闇の中に放り投げられる。いつのまにかぼくの目の前から『田神李淵』は消えていて隣には腹部から少量の血を流して倒れている白河君の姿が目に入る。

「よかった。白河君。ちゃんと息をしているね。身体を起こせるかい」

「大丈夫でござる。あのナイフの男はいつのまにかどこかへ行ってしまった」

「かれは外の世界でみた女の人格の一つなんだ。彼女は自分のことを『田神李淵』だと名乗っていた。多重人格者と言えば良いのかな」

「なんとなくわかるでござる。野生的直感といえばいいでござるか」

「とにかくやつを探そう。桃枝の件もやつらの仕業で間違いなさそうだ」

「そうでござるな。こんなところで寝ている訳にはいかないでござる。この世界には物質的干渉性があるでござるよ。傷は浅いけれどしっかりと肉に食い込んでいるでござる」

白河君は立ち上がり抑えていた腹部の出血が既に止まっていることを確認する。

さすがは死のエーテルを注入された狐の獣人といったところでござろうか。

負傷した白河君を気遣いながら薄暗闇の中を彷徨っていると差し込んだ光のようなものを発見する。

「あそこから出られるんじゃないかな。とにかく急ごう。『田神李淵』はこの空間に何か目的があるはずだ」

「もし目的があるのだとしたら、『田神李淵』とやらは『柵九郎』を殺すつもりでござろう。小生たちの知っている梨園ではないのだとしたら、なんとなくでござるが二人は同じ世界を手に入れようと違う方角をみているように感じるでござる」

ぼくらが小さな光に向かって走っていくと光もまた少しずつ大きくなってきて近付いてくる。

光は人の形になってきてぼくらの目の前に現れるとゆっくりと聞き覚えのある声で話を始める。

「よかった。間に合って。あなたたちがここを訪れると思って先回りをしていたの。ねぇ、乖次は元気でいてくれるかしら」

ぼくと白河君の目の前に現れたのは田上梨園で彼女は生命を絶つ前と寸分違わぬ姿と寸分違わぬ声で思いもしない言葉をぼくらに与えてくる。

「梨園か。そうだよな、君があんな答えを選ぶのだとしたら確かにこういう結末なんだろうな。乖次は、そうだね、うまくやっている。君と同じでぼくをいつも助けてくれるんだ」

梨園は少しだけ辛そうな表情で笑顔を浮かべてぼくの答えに反応する。

欲しかった答えがやってきたことを彼女はうまく受け入れられていないのかもしれない。

「彼のことを心配する必要は確かにないのかもしれないわね。とにかくあなたたちはここから一刻も早く出なくてはいけない。もし、あなたの宿敵が殺されてしまったら永遠にこの場所に閉じ込められてしまう。六分儀先生は本当に最後まで私が救われる道を探し続けてくれたの。行きましょう」

田上梨園はぼくらを導くようにして彼女が来た道を戻り始める。

彼女の進む先に上り階段が現れて暗闇の中を駆け上がり何処までも続く無限の階段をぼくと白河君は田上梨園の後に続いて登り続けていく。

「『爆発する知性プロジェクト』のことだね。君はぼくたちと出会った時からこの答えが来ることを知っていたような気がするよ」

「とても難しい問題ね。少なくとも『柵九郎』は六分儀先生達とは違うやり方の解決方法を望んでいた。けれど、私と同じ場所に来ようと考えていたのは彼だけはなかったの」

「梨園殿も含めて何故そこまでしてプロジェクトを続ける必要があったのか小生にはわからないでござる。小生達は乖次殿が同じ場所に行こうとしているのではないか不安でござるよ」

「ふふ。相変わらず稔は正直ね。けれど、乖次は私とは違う答えを選ぶわ。卑怯や非情さを捨てる気が彼にはないようだから」

「『柵九郎』は自分の中の虐殺器官を肯定することで自らの存在も書き換えようとしている。戦争装置は間違っているんだろうか」

「それは私の考えに過ぎないことはわかっているはずよ。けれど、そうね。あなたは既に銃弾をその身に受けているはず。きっと柵君も同じことね。聖人が破壊と殺戮を蹂躙するのだとしたらきっとあなたたちも私の元に訪れる」

「君はそうさせない為にこの場所に来たのかい。歯車はどんな状況でも狂いが生じる。忘れることだけがぼくらに必要だとしか思えない」

「和人氏はわかっているでござるよ、梨園殿。どちらにせよ、小生たちはこの場所から抜け出す為に『柵九郎』に会うべきでござる。それが最も簡単な答えでござろう」

「ありがとう。稔。君の自制心はきっと和人にも稔にも必要なものでしょう。けれど強くあることから逃げられる弱さを忘れないでね。私が選んだ答えをあなたたちが肯定する必要はないって簡単な答えを今はあなたたちに与えておくわ」

天高く続く何処までも続くかと思われた暗闇の階段が終わりを告げ、ぼくたちは『現代視覚研究部』の部室に到着する。

ぼくらを導いてくれた田上梨園は漆黒の空間から抜け出すのと同時に消えていて部室にはぼくと白河君だけが残されている。

部室の中央は合体した『アースガルズ』と『トール』が叩き壊したひび割れた床があり白骨死体と化した用務員が横たわっている。

「白河君。何故この白骨死体は部室の床下に転送されていたんだろう。リノリウム製の床には恐らく工事された後もなければ白骨死体を持ち運ぶだけの侵入口すらみつけられなかった」

「小生が獣人化した時のことを和人氏は覚えているでござるか。『死のエーテル』が小生の身体の構造を変化させる時に起きたことが絶え間ない煉獄への道筋を示していたでござる」

「横尾先輩の論文の中にエーテル粒子体の量子的実在性の技術が存在していた。だが量子転送を実現する為には受信機と送信機が必要になるはずなんだ」

「その問題を解決する為に私が在るの。電子空間に私は魂と呼ぶべき実在係数を複写し保存しておいたの。あなた達がこの空間へ訪れたことを契機として発動する関数と一緒にね。ねぇ、エーテルってどうして肺胞から産まれてくるのか知っている?」

ぼくら二人だけしかいない『現代視覚研究部』に田上梨園の声が響き、思想の極点までに辿り着いた彼女が生と死の等価値性を実現へと変えるためにまるでエッシャーの作品を模したような捩れた空間を利用して意識を現実へと反転させることで生命を絶つことになったという事実を伝えようとする。

思念や思考と呼ばれる事象が物理的に存在できる場所を梨園は定義しようとしている。

もし、ぼくを正確になぞりとった機械人形が存在するのだとすれば、ぼくと同じ考えを持った人間へと進化することは出来るのだろうか。

「『魔術回路』が肺胞に寄生しているバクテリアの類だという説や呼吸器に不規則性を与えて脈動を制御しているという説、けどそのどちらも少なくとも解剖学レベルでの異常は存在していないとされているでござる」

「ご名答。なら今、するべきことは簡単に理解できるわね。落ち着いて息を吸って毛細血管の隅々まで血液が行き渡ったら、冷静さは失わず自我境界線を保持したままでもこの空間で実態を保持し続けていられるわ」

「弛緩した精神状態も覚醒した心的負荷も位相転換した感覚の問題でしかないよ。梨園は自分が導き出したい答えに誘導しているような気がしてしまう」

「歯車の動きは一分たりとも乱してはいけない。ごく自然な人間的状態は人工的な精密機械よりもずっと正確。『魔術回路』は肺胞の欠陥ではなく完成形だとしたら和人はどう捉えるかしら」

「創造主と呼ばれる架空の存在を定義しなければいけないほど未だ人類は自分自身の正確な模造品を作り出せていない。きっとそれはチルドレ☆ンたちですらも」

「そうでござるか。小生ならばそれはとてもよくわかるでござる。『死のエーテル』から供給されているリズムはより複雑なプログラミングを可能にさせてくれるでござる」

電子空間から抜け出すことのできない不安をぼくはゆっくり整えるように息を吸う。

冷静さを取り戻すようにして形を整える。

鼓動を同期させてデータと身体を持った自分の意識を結合させるように一つの状態へと回帰していこうとする。

「ようやく伝わったね。後は君の感じるままに。けれど、和人はとても不思議なものを心と身体の両方に抱えているわね。あなただけにしか出来ない役目を果たしなさい」

梨園の声だけが響いて目的を明確に自覚させると、覚醒した意識によってぼくの目の前の空間がモザイク状に変化していき両手両足を拘束された恰幅のいい魔導師が現れ始める。

「──どうやらうまく俺を具現化することが出来たようだな。右手に意識を集中してみるんだ。必要な力が与えられる。そういう風に出来ているんだ──」

右手をあげて拳に少しだけ力をこめて握りしめるとあたりに黒い粒子が集まり始めてくる。

床下に潜んでいた歪で奇妙な蟲の形をしたものではなく純粋な漆黒の粒子が溢れ始めるとぼくは掌を拡げる。

思考を漂う暗闇が戻りたいと感じる場所へと流れ始めて床下の用務員の白骨死体をすっかり包みこんでしまうと収束した色の失われた粒子が空間をくらうようにして床下で誰にも知られることないまま生命を奪われた事実と一緒にぼくらの部室から姿を消してしまう。

「必要なのは願うことなんだね。だから『類』は例え誰も人が訪れない場所でも正気を維持したままでいられる。けれど外の世界へ出ようとは思わないの?」

「──それはお前次第だ、和人。だが少なくとも電子の海にいる間はお前の手助けをしてやれる。広大なマトリクスの世界では物体へ干渉する護法は意味を為さないからな。つまりはこういうことだ──」

『類』は全身に力をこめると身体中に巻かれた拘束具を解き放ち、焼け爛れた素肌を露呈させて『七星学園』神人の塔地下に幽閉されていた思念をぼくらが現在いる電子空間へ完全な形で転送する。

「それが本当の君の姿なのか。ぼくが想像していたよりずっと自由だってことを理解させてくれる」

「求め願ったものにしか人間は近付けない。そしてここはデストルドーにもポゾンエネルギーにも干渉を受けない。『パン』は第七次外宇宙探査船団に『古代種』たちとの共存を目指す人間たちが生まれ得ることを予測出来なかったんだ。急くぞ、どんなに足掻いたのだとしても零肆玖十九番はお前のもう一つの可能性だ」

『現代視覚研究部』の部室を出るとそこはグランドピアノの置かれたどこかの家のリビングルームで白髪の老婆が窓際の席で頭部から血を流してロッキングチェアで項垂れていて、足元には黄金のキリスト像が横たわっている。

「彼女が『柵九郎』の母親ね。神という呪縛を肯定することで息子である『柵九郎』に完全な自由を与えようとした。彼の知性は生来的なものに加えて環境による歪な拡張を達成していた。八神教授の派閥はだからより強烈な過負荷を与えることで私を凌駕出来る人間を作ろうとしたの」

「そうだ。それが『改造医療実験体』試験番号零肆玖番『非常用革命的人間兵器』なんだ。けどぼくの弱さが『田神李淵』を産み出して父のDNAの中に保存されていた情報を隔世遺伝によって呼び覚ましてしまった」

『柵九郎』がグランドピアノの暗闇の空間から現れる。

彼の全身が傷だらけになり傷跡を庇うように脚を引きずっていてどうやら追手から逃れるようになんとかこの場所に辿り着いたようだ。

「いつから『古代種』たちが私たちの中に紛れ込んでいたのかは正確にはわかっていないわ。御伽噺に出てくるアトレーユはもしかしたら自分たちが間違っているのかもしれないと迷うようになっていたのかもしれないわね」

梨園はぼくらに寄り添うように声だけを響かせて爆発する知性が示そうとした未来の形を伝えようとする。

「俺たちは彼らと一つになる手段を模索していただけだ。合計十二の惑星船団には我々と同じ結末を辿り続けるしかないと『パン』も俺たちもそう思い込んでいたからな」

『柵九郎』が笑い声を漏らす。

憎しみや悲しみが消化された情念の渦を吐き出して『類』が抱え続けてきて焼けつくような思いを否定しようとする。

「俺は正義でありたいと願い続けている。なぜ俺たちのような人間が地獄の業火で焼け尽されなければいけない。コオロギが乗り移り素直な気持ちを抑制することなく吐き出した女の震えるほどの怒りをお前たちはまざまざと見せつけられたはずだ」

『柵九郎』が咽び泣くように叫ぶとあたりは暗闇に包まれ空中にビデオ映像のようなものが流れ出す。

恋に浮かれ手に入れられると思わなかったものを手にしてより深くより長い時間を夢見た少女がふとした瞬間に手にした微かな希望の中に含まれていた小さな悪意が暴走する過程が永遠と映し出される。

好きだという気持ちを存在ごと掻き消すようなとても簡単な笑い声がいつの間にか誰も手をつけられないほどに増幅していくようにして、細胞膜に包まれていたアミノ基が微小な黒い粒子に侵されると暴走した細胞内の各部位が人間のそれとは違う怨念にみちた構造へと変化していく。

過剰な悪意が供給されて抑制されていたT細胞が活性状態へと切り替わるとまるで極上の生物が虐殺を志向する人間存在そのものへと昇華することを望むようにして負のエネルギーを剥き出しにして細胞膜を突き破り隣人を捕食するようにして暴れ回る。

過剰なアポトーシスの発現によって女は空から差し込まれた僅かな光が閉ざされたことを完全に自覚すると肺胞に芽生えた業火で全身が焼け尽くされる前に暴力によって自我を制御して目前に立ち塞がる幸福の象徴を自らの手で完全に粉砕する。

「お前の伝えたい正義は伝わっているさ。誰も報われないままたった一人だけが無念を晴らすだけのつまらない世界だ。なぜお前はこんなものを正義だと選ぼうとする。桃枝を何故お前が選ぶ必要があったんだ」

「そうだ。安吾や嶺斗は俺の代わりに肉を切り裂き骨を断ち絶望の声をリエンに届けようとしただけだ。忘れたのか、佐々木和人。お前は俺の代わりに選ばれた『改造医療実験体』製造番号零肆玖番だ。理解しろ、お前にあんな女は相応しくない」

ぼくは思いもよらぬ『柵九郎』の発言に逡巡して力をなくしそうになる。

二人の正義と悪がぼくを完全に否定しようと襲いかかってくる。

逃げ場のない空間で無力さだけを与えるようにして永遠と『梅里桃枝』が『柵九郎』によって虐殺される映像が流され続ける。

「私が案内出来るのはここまで。和人と稔ならきっと出来るはずよ。答えはきっとあなたの小さな守護天使が知っているはずよ」

ぼくは隠されていた真実を知る為に自律思考形相互通信インターフェースである『アースガルズ』を仮想現実の世界へ転送させる為に眠りと死の境界線にある思考へと意識を調整する。

不可能であるという認識を知覚できる状態へ到達させようとデータを収束させる。

「ようやく見つけたか。我侭な俺の盟友! 兄貴と弟はこの場に来ることは出来ないけれど俺がお前の血液の中に保存されていた記憶を呼び覚ましてやる。あの時起きていたことを奴の口から聞き、無知から逃げずに立ち向かえ。お前が知らない世界をその目に焼き付けろ、和人」

『アースガルズ』は暗闇の空間に浮かんでいたビデオ映像を彼がぼくの『phoenix』に保存していた記録映像へと切り替える。

白河君の目の前で桃枝の部屋のリビングの扉を開けて茫然と立ち尽くすぼくの後ろ姿を映し出す。

「ふっ。お前が絶望すら感じる余裕すらないほどに狂気の狭間で呼吸をする瞬間をリエンは喜びに満ちた表情で無上の快楽に悶えながら堪能していた。ぼくの身代わりに選ばれたお前の人生が破綻する音を彼女は心の底から喜んでいた。絶え間ない劣情の反復でもリエンは満足に到ることがなかったが、あの時だけは本当に嬉しそうに笑っていた」

「そうか。お前は刑事たちが発見した通りあの時ベッドの下に潜り込んでいたという訳か。携帯電話が通じなかったのはどうしてだ」

「多年性植物に電流を流し込み頭部から取り出した眼球に妨害電波を発生する機器を仕込んでおいた。君たちから希望が奪われていく過程を美しいと李淵は喜び、ぼくを褒めてくれた」

この場で彼を殺したいという欲望がぼくの中で目覚めるのを感じて『類』と白河くんがぼくの肩に手を添える。

「小生の嗅覚がお前の臭いに気付かなかったのはテーブルに盛られた骨と肉のせいでござるか。新谷刑事があれは桃枝殿のものではないと言っていたのでござろう、和人殿」

「死体処理を生業とする連中からの贈り物だ。彼らは李淵を信奉している。普通の人々と同じように数字に捉われて数字を愛する理解不能な連中だ。そいつは素数に取り憑かれたまま閉鎖空間だけで生き続けている。すぐに産まれてすぐに死んでしまう代わりがいくらでも効くオリジナルというやつだ」

「抉り取った腿の肉や骨はお前が持ち帰ったってことか。なぜそんなことをしたんだ」

「俺の、正確には人格の一人である清司の愛犬の『ナーガ』の餌にしたんだ。あいつは肉に飢えている。出来る限り上質なものを与えてやりたかった」

「だからお前はやはり俺がソファに座り込むことまで計算にいれていたな。切り取られて左手に触れなければビデオは再生されなかっただろう」

「お前が指先に触れたことが俺の敗因だ。そんなものがあるはずがないと作った俺の我欲そのものだ。ビデオをお前に見せる気がなかったし、リエンは映像が再生されている間一言たりとも話さなかったよ」

「じゃあ単なる博打だったってことか。ほんの少しぼくや白河君が冷静な状態で桃枝の部屋をじっくりと見ることができたらお前の存在に俺たちは気付いていたってことだろ」

「そうだ。もしお前がその狐の獣人と携帯電話を掛けるために部屋の外に二人で出なかったら俺はあの部屋で警官の到着を待って今頃は檻の中だ。李淵は俺に安易な選択を許さない。お前も俺も彼女の悦楽の奴隷に成り下がるために生かされている」

「どうやってあの部屋を出たんだ。ぼくたちはお前の存在に一切気づかなかった。電話から十分前後で警察は到着している」

「ベッドから這い出てお前たちの後を追い、扉の裏側でお前たちが再び部屋に戻るのを待ち構えていただけだ。リエンや他の人格が頭の中でもし発見された場合お前たちをどうやって殺すのかどうかをぼくに問い続けていた」

「ぼくはいくらでもお前を発見して殺害を止める手段も恨みを晴らす機会も警察に突き出す方法も存在していたってことなんだな」

諦めが襲い掛かり無限の選択肢が一つへと収束して光が失われて暗闇の空間で流されていた映像が途絶えてしまうと、ぼくらのいた場所が再び有機物と無機物の浮かぶ空間へと切り替わる。

「ぼくの父は厳格なカトリック教徒であった母に疎まれほとんど家に寄りつくことを許されず近くの安アパートで一人暮らしをさせられていた。物心ついた時から不自然な家庭環境を受け入れるしかなかったが、リエンの存在を知っていたのは父だけだった。彼女だけは父を慕い恐らくぼくの眠っている間にアパートを訪れて食事を共にしていた」

「お前の父は『古代種』の遺伝的情報を持っていたというのは本当か」

ザンギリ頭の『類』が『柵九郎』の元に近づき顎をさすりながら開放と苦悩が同時に宿る表情を覗き込み疑念を抱いているという事実を告げようとする。

「チルドレ☆ンたちですらぼくの存在を否定していると言っているだろう」

「お前は有翼種ではない。恐らくお前の父もそうだろう。それにお前の中には『魔術回路』とおぼしき肺胞を操れる人格が存在している。魔術抗体体質か」

「あぁ。大輔という人格だけがエーテル粒子体アレルギーが発症しない為に『魔獣のエーテル』を発動できる。それに正確には俺の産みの父は俺の産まれた直後に死別している」

「ではなぜお前の父は『田神李淵』を愛すのだ。そのあたりが私には解せんな」

「ひどく馬鹿らしい話だ。だが、お前たちがこの場所にいることを考えるとあながちぼくの選択に間違いはなかったということか。俺は母と同じでやはりあの父を受け入れる気にはなれなかったがナ」

「なるほどなぁ。そこで横たわっている家鴨の供給源か。『パン』は何故そうまでして神を否定したがるのか。まったくあいつは昔からさっぱり変わらん」

ぼくの殺意が空間によって吸い尽くされているのを感じる。

悪意の源が奪い取られたまま行き場をなくし漂う怨念が『柵九郎』を責め立ててぼくらの周囲を高熱によって炙り続けている。

無数の階段と扉が作られて二十一体の異次元同位体がぼくと白河君と『類』と『柵九郎』の元に走り寄ってくる。

『田神李淵』が最上段に作られた祭壇のような場所に現れて勝利を確信したように笑い声をあげる。

「まるで私の父が間違っていたような台詞を宣うだな。味元不炎、いや、『類』よ! だが当然ながら天から落ちて来たのは君だけではない。私がお手本を見せよう。どちらにせよ弱いものは喰い殺されて血肉へと昇華されるべきだ」

ぼくらのいた空間が破壊されて暗闇によって包まれると『柵九郎』のいた場所が競り上がり異形の化け物へと変化した異次元同位体が『柵九郎』を抑え付けて祭壇へと運んでいき十字架へと貼り付けにする。

ぼくたちは悲鳴と絶叫が支配する次元断層に突然現れた笑い声をあげ続ける『田神李淵』の姿に目を奪われる。

「さぁ。諸君! 処刑の時間だ! みたまえ! 彼の無様な姿を! 醜悪の権化! 無益の塊! 蛆虫達の王の退場の時間だ!」

怨念が青い炎に切り替わり、十字架に拘束された『柵九郎』が彼の異次元同位体の殺意によって燃え尽くされようとしている。

(殺せ! お前は俺たちに束縛を与える!)

(こんなやつ許しちゃダメ! 殺して!)

(なあどういう気分だ、真ん中を奪われるのさ。死ねよ)

「さぁ、神の裁きを! 彼に永遠の救済を与え賜え! 私が今日から『田神李淵』だ!」

祭壇の前で騒ぎ立てる『柵九郎』の別人格たちの声が響き渡り約束された儀式を実行しようとする。

終わりに向かって収束することを願うことをもし誰かが止めようとしていれば悲劇は未然に防ぐことが出来たのかも知れない。

解消されることのない憎悪が目の前で青い炎熱によって燃え尽くされようとしている。

「和人。俺たちが裁けるのはここまでなんだ。この空間からログアウトするぞ。やり方はもうわかっているな。魔導師のオッサンの力を借りれば簡単なはずだ。いくぞ、ユグドシラルパワーフルドライブだ!」

『類』に導かれるままぼくらは祭壇のある階段とは違う方向へ向かって走り続けて『柵九郎』の叫び声が空間全体に拡がることを背中で感じながらぼくと白河君は『類』と『アースガルズ』に導かれて空を飛ぶ。

「いくぞ、『陰陽魔導』三の型。波導崩壊天元突破! ニンニン!」

『類』が胸元で構えた印によって電子の海が無限の領域から離脱しようとビッククランチを引き起こしていくとぼくたちは限界を突破した乱数によって包み込まれて0と1のデータから実存情報へと切り替わる。

「お疲れ様。まぁたぶんこの場所に転送されるんじゃないかって私たちは踏んでいたの。梨園からの私だけへのラブレター。もし、救いを求めるならまた私に甘えなさい。逃げたっていい。なにせ、君は佐々木和人君なんだから」

『現代視覚研究部』の窓際の席で風に揺られるカーテンの傍で三島沙耶が──空像としての世界──という本を手に持ってぼくらを笑顔で出迎える。ルルが会議用テーブルに腰掛けて笑い、乖次は疲れきったままソファで眠りこけていてひび割れた床下はベニヤ板で簡単に補修されている。

「ごめんね。今まで苛めてばかりで。これからはもっともっと大切にする。あのね、こんなことを言うのはおかしいかもしれないけどずっとずっと一緒にいよう。君はもう私の一部なんだ」

芹沢美沙は三脚に乗せた一眼レフカメラのファインダーを覗いて彼女の生まれ持った右眼でデジタルデータへ変換される直前の風景を右の眼球で光学的に模倣したレンズから覗きみる。

パシャリ。

ぼく、佐々木和人と白河稔と師元乖次と三島沙耶と佐知川ルルは『現代視覚研究部』のぼろぼろになったソファの前に集まって急拵えで整えた映像作品の公開を記念して集合写真を撮影する。

機械生命である『アースガルズ』が彼に内臓された便利な機能を使って一人だけ欠けてしまった大学生活の思い出を大切に記録する。

小さな出来事と大きな変化を決して忘れないようにとぼくら五人は『現代視覚研究部』の部室で誓い合う。

「ありがとう。私はあなたたちの傍にずっといるつもりです。決して薄れることのない思いを抱えたまま」

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