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05. The way to gain a good reputation is to endeavor to be what you desire to appear.

舞台が完全に暗転して声も姿も消えてなくなってしまうと、ジリリとベルがなり小休憩が取られる。

ぼくと白河君だけでなく、ルルも『ミルキー』もそれに他の観客たちも誰一人『銀の匙』の作り出す目現実の外側にある二重構造に脳内を占拠されたまま身動き一つ取れずに束の間の休息が与えられたことにほっと一息だけ溜息をついたり呆然と焦点の合わない空間を眺めている。

三十秒ほど誰も暗幕が降りていることに気付かず沈黙と花園神社内で鳴く鈴虫の音色に耳を奪われたまま停止していたけれど、やっとのことで現実へと戻ってくる事が出来た隣同士に座っていた白河君と『ミルキー』が同時に煽るように口笛を鳴らすと、『アースガルズ』が誰にも見つからないように白河君のポケットから叫び声をあげると、彼の声に呼応するように周りから一斉に溢れんばかりの拍手が鳴り響く。

「ここがギリシャであるのかそれとも近所のファミレスであるのか未だに判別つかないでござるな。まさか正攻法の演劇とは誰も思わなかったデござろう」

「わかる、それ。一つ一つの足音にも気を配っているって感じがしたぜ。髪を逆立てることだけがパンクじゃないってあいつらはわかっているんだぜ」

白河君と『ミルキー』は感覚が合うらしく二人の演劇に関する感想を述べ合いながらとても楽しげに打ち解けあっている。

「まるでぼくの頭の中が上演を開始して目と口と鼻を奪われたみたいな出来事が役者を通じて実行されているみたいだった。『円夜凪』はそうやって観客の意識を奪い取るのかな」

ルルは何かを深く考え込んでいるのか唇に指先を触れさせて何か大切な鍵を見つけだしたように押し黙ったまま余韻に浸っている。

「そういえば、和人は確か舞台傍で一眼レフカメラを持っていた女の子の知り合いなんだろ。ウチの部屋に遊びに来たルルが雑誌で見つけた黒い眼帯のカメラマンのことを和人の知り合いだっていっていたぜ」

『ミルキー』が突拍子もない事実を告げてぼくを戸惑わせる。

芹沢美沙がこの劇場にいる。

新進気鋭の彼女ならば、確かに絶賛売り出し中の『銀の匙』と一緒にいたとしてもおかしくはない。

けれど、自分より遥か先に彼女が既に行ってしまっているということをぼくはうまく受け止めることが出来ない。

「芹沢殿なら小生も何度かこの劇団の公演で会っているデござるな。和人殿がいる時には確かにタイミングが合わないようでござる。和人殿の運命でござるよ、『ミルキー』」

ヒューッと口笛を吹く『ミルキー』はぼっーとしたままのルルの燕脂色の革ジャンの上から肩を手を回す。

「運命なんて簡単に飽きてしまうものだってどこかで誰が言っていた。そんなものなんて抗ってしまうほうがきっとずっと楽に生きられるってことじゃないかな」

ぼくが適当なことを話してお茶を濁してしまうと、途端に軽快なピアノが舞台袖の芹沢さんがさっきまでいたと『ミルキー』が教えてくれたあたりから聞こえて来る。

スタンダードなジャズナンバーをちょっとだけ崩しながら休憩中の劇場内の空気が弛緩してしまわないようにぼくらの気持ちに入り込んでくる。

ピアニストの脇にはキラキラと銀色のスパンコールのカットソーを着た白髪の老人がアップライトベースから出力される低音で後半を待ち望んでいるぼくらの期待と不安を丁寧に支えてくれているようで『ミルキー』はリズムに合わせて手を動かし膝や脚をドラムに見立てて叩いている。

ぼくは自然と彼らのリズムとグルーヴに身体を揺らしてここがギリシャでもなく近所のファミレスでもなく劇団『銀の匙』が作り出した異空間なのだと気付かされる。

「『ナーガ』。お前はこういう場所で愛に満ち溢れてしまう俺様のようにはならないんだな。まさかあの女が俺に啖呵を切るとは思わなかった。それにしても今にも消えてしまいそうな自我の弱い零肆玖番にはお初にお目にかかるな」

観客席の一番後ろの席にサングラスをかけて座っている細身な男が大人しく地面に伏せているシェパードの頭を撫でながら独り言を言っている。

(あーもう! あんなやつより私の歌のほうが絶対お客さんにウケがいいと思うんだけどな! こんなたくさん人がいる場所ならきっと気持ちいいもん! 私と変わらない? ケイイチ!)

(チィー、『ガーデン』からこいつに話し掛けても無駄だよ。外に出ている間は目が見えないフリをして耳が聞こえていないフリをしているに決まってる。最低のクソ野郎だ。殴り殺してやったほうが世の中の為だろう)

(ダイスケおにぃちゃんがまた痛いことしようとしている。怖いよ、ユメコおねぇちゃん)

(ケンジは『スポットライト』が羨ましいだけ。いい子だから先に寝ていなさい)

(血の匂いがする。ぼくはさ、この前会ったお弁当屋の女の子が好きなんだ。あの子ならずっと一緒にいられるって思うから)

(ジュンペイがまたキモいこと言ってる。お前はほんとウザすぎ)

『ナーガ』と呼ばれる犬が片眼を開けて主人の様子を伺っている。

サングラスを掛けた男は白い杖であたりを探りながら周りにいる人たちとの距離を確認している。

迷惑そうな顔を周囲の人間はしているけれど、男がどうやら盲目であると分かると遠慮して席を遠ざかってくれているようだ。

彼が杖であたりを突き回る音はカチカチと不協和を鳴らしてピアニストとベーシストの作り出すウネリをずらして観客席に不快感を与えている。

「なぁ白河君。後方の座席のサングラスの男が妙に攻撃的な気がするんだ。気のせいかな」

「吠える犬と一緒のやつでござろう。奴はどうにも嫌な匂いがするデござる。けれど先程の『円夜凪』の一声で確かに一度は引く姿勢を見せたでござるよ」

「あいつは確かになんかむかつくぜ。犬の鳴き声も勘に触る」

「やる気の無い魂を無理矢理燃え上がらせて周囲に悪影響を与えようとするようなやつだ。こっそりこの場にいる連中をずっと覗いている。そんな気がするね」

ぼくらがそんな会話に夢中になっている間に間奏曲が満足そうな笑顔とイライラした表情が半分ずつ満遍なく会場に行き渡らせると、ピアノとベースの音がゆっくりと消えて、ジリリとベルが鳴り再び舞台の暗幕が開きだす。

(注文お願いします! 本日の日替わり定食とシェフの気まぐれサラダ! いつも通りグリーンピースは抜きで!)

分厚い暗幕が天井へと巻き上げられる寸前で舞台下手から先ほど入り口でチケットのモギリをしていた目の覚めるよう美人、『銀の匙』筆頭役者でもう一人の顔役、『加戸詩由子』がピンク色を基調にしたフリルのファミレスの制服に白い太腿の絶対領域を強調させながら舞台中央に走っていく。

伝票のような白い紙を中央のキッチンとホールの受け渡し口に置くと、卓越したバレエダンサーである彼女はくるくると爪先で立ち周りながら『水恩寺莉裏香』との違いを明確にするようにして美とは客体化された自己享受であることを観客席に向かって自分自身の身体を使って伝えようとしてくる。

上手まで伝搬役である『加戸詩由子』が踊りながら消えてしまうと舞台は暗転して反転していき、今度はファミレスのキッチンがゆっくりと登場する。

(追出さんは相変わらずギリギリですね、タイムイズマネー。あなたが遅れてきたことで困るお客さんもいるんですよ)

今公演の客演として招かれているイギリス系中国人である『ボヴィー・ビー』が『オイディプス』に付き従う従者のようにしてクックコートとコック帽で勧告を促している。

(あはは。相変わらず厳しいね。そんなことじゃ、暮さんみたいに店長の奴隷になるしかないじゃん。お客さんはぼくらの料理を楽しみにしてきてるんだ。もっと気楽にいこう。キャンバスの用意をよろしく)

銀色のステンレス製の台に、従者が百号サイズのキャンバスを設置するとハケと絵筆が用意され絵の具を持った『オイディプス』が従者の隣に並ぶ。

静寂を破るようにして舞台袖のピアノの鍵盤からB♯、D♯、Fが一オクターブずつ離されて鳴り始めて、『オイディプス』と従者はキッチン上のキャンバスに勢いよく絵を描き始める。

ハケを持ち豪快に色を『オイディプス』が塗りたくると従者が絵筆で細やかに飾り付けをしていく。

低音階のD♯がロングトーンで鳴らされるとバケツに入った青いペンキがキャンパス上にぶち撒かれる。

上手からくるくると周る『アンティゴネ』役の『加戸詩由子』が踊りながら舞台に舞い戻ると、『オイディプス』は別のペンキの入ったバケツを手に取ってキッチン台の上にあがりポーリングによってキャンパスを彼の描く軌跡でいっぱいにしていく。

従者は見守るようにキッチン台の周りを何か不自然な点がないか見張るようにぐるりと回りながら、『オイディプス』によって情景の失われた世界がキャンバス上に具現化されていく様子を一つ一つ確かめる。

(不自由であることからやはり逃げ出そうとするのだな。私たちが肉体を縛られているというのならば、見ることなど叶わない精神を解放するとしよう)

照明の当てられていなかった舞台下手に拘束された『間黒男』にスポットライトがあたり、上手から『水恩寺莉裏香』の『泥のエーテル』で作られた泥人形が四体現れるとキッチン台にあるキャンバスが泥人形によって持ち上げられてキッチン台の前方に垂直に立てられる。

死力を尽くさなければその場から動くことすら出来ない強力なゴムバンドによって拘束されている『エテオクレス』役の『間黒男』に従者が赤いペンキをバケツごと浴びせ掛ける。

(さぁ! お前が親を殺す瞬間を見せてみろ! 子が親を凌駕しなければ私たちは死滅するんだ!)

キッチン台の上の『オイディプス』が両手を広げて大声を張り上げると、同じように叫び出す『エテオクレス』が拘束された身体のままキャンバスに向かって走り寄り、僅かに届いた指先で『オイディプス』の描いた絵に爪痕を残す。

ピアノは決して調律の合わないまま鍵盤が無闇矢鱈に叩き回される音だけを会場中に響き渡らせる。

(三番テーブルでお客様がお待ちです。間に合わないのであればあなたの絵を。届けるのであれば私を早く汚してください)

『アンディゴネ』はぐるぐると周り続けるのを辞めて拘束されたまま色とりどりのペンキを浴びせられる『エテオクレス』の爪痕が書き記されたキャンパスの提供を求める。

四体の泥人形の『水恩寺莉裏香』がキャンバスを持って『アンディゴネ』の後へ続き、上手へと消えていくと舞台が暗転し、円形の舞台が百八十度回転する。

(それじゃあ私がこのお店を辞めるしかないじゃないですか。いくら新しい設備の導入で人件費が削られてしまうからと言って出勤日数をこんなに削られてしまったら生活もままならないんです)

『イオカステー』役の『円夜凪』が切実に訴えかけているのはキッチン裏に無造作に廃棄処分されたキャンバスたちの群れで『イオカステー』は涙を流しながらうずくまり、消費されてしまったキャンバスたちの残骸を見て自身の姿を重ね合わせる。

(こんなものは誰も見ない。お前は何も見ないままこの場で死んでいくんだ。何もかも捨てられたゴミの山の前で無力さそのものを思い知れ。思い知るんだ)

スピーカーから出力される『水恩寺莉裏香』の声だけが会場に響き、三体ほどの泥人形がキャンバスを足蹴にしてバキバキとへし折りながらまるで『イオカステー』役の『円夜凪』を蹂躙するように暴れ回る。

涙で濡れる『イオカステー』の周りを『水恩寺莉裏香』の泥人形が取り囲み、手に持った麻縄で彼女の首にぐるりと括ってしまうと、木製の死刑台が現れて麻縄で括られた『イオカステー』が死を強要させられて舞台上の照明が落とされて暗闇に包まれる。

何もかも漆黒に塗り替えられる直前で赤いスポットライトで中央が照らされて舞台には『イオカステー』の吊るされた死体だけが残り、あたり一面に波間ひとつ感じられない静寂が訪れる。

(私は再び輪廻の渦に捨て去られた。いずれまた私の娘と息子が同じ道を辿るだろう)

首を吊るされたまま眼を見開いた『イオカステー』役の『円夜凪』の言葉だけが完全な静寂に包まれた劇場内に伝わると彼女の声の残響が名残惜しそうに消えていく。

赤いスポットライトが暗闇に溶け込んでいくとゆっくり舞台はくるりと周りながら裏手に配置されたファミレス店内の様子が映し出され、『ライオーン』役と同じ役者である『尾道仁太』が今度はパーカーにジーンズ姿で窓際のテーブル席に座っている。

(お待たせ致しました。本日の日替わり定食『擬似的な拘束からの解放 支配者の溜息添え』でございます。根井様に合わせてグリーンピースは抜かせて頂きました)

舞台から『水恩寺莉裏香』の泥人形によってテーブル席とソファが取り除かれると『アンティゴネ』の後に続いて持ち運ばれたキャンバスが『ポリュネイケス』の目前に設置される。

(サラダのドレッシングはいつもの通りぼくの好みに任せて頂けるのかな。来たるべき未来を除去して頂けますか)

『ポリュネイケス』が『アンティゴネ』の耳元で囁くと、彼女はピンク色のフリルのついた制服を一枚一枚脱ぎ捨てて彼女の美しい肢体を晒して垂直に立てられたキャンバスの前に立つ。満足げに絵を眺める『ポリュネイケス』の元に全身を色とりどりのペンキで覆われた『エテオクレス』がやって来て真っ白で透明な肌を見せる『アンティゴネ』と向かい合い愛の言葉を囁き始める。

(私は欲望する機械として素直に性愛の全てをあなたに捧げよう。その身体を前にして私が抗う術など何一つ持ち合わせていない)

未完成な絵を前にして『ポリュネイケス』は顎をさすり世界が手に入る瞬間を堪能して悦に浸る。

下手から強烈な奇声をあげながら掃除用務員姿の『クレオーン』がデッキブラシを振り回しながら現れてキャンバスを叩き壊すと全裸の『アンティゴネ』を何度も打ちつけて『ポリュネイケス』と『エテオクレス』を上手へと追いやってしまう。

(お前たちが汚したトイレを私が一生懸命掃除をしてやっているんだ。なぜ何一つ私が報われることがない。今日からこの場所はただのファミリーレストランにしてやる。二度と下らぬ絵など飾ってやるものか!)

舞台上の照明が落とされていくと中央の『クレオーン』がデッキブラシの柄を逆さにして持ち床を叩くようにして突き当てて、『アンティゴネ』はデッキブラシの根本で膝をつき涙を流し始める姿にスポットライトが二つ当てられる。

破壊されたキャンバスにも同じようにスポットライトが当てられると『クレオーン』は左手から『鉛色のエーテル』をデッキブラシに流し込みながら──チチンプイプイ──と言い放ち、ぐるりとデッキブラシを回す。

その軌跡を沿うようにして灰色の渦が空気中に出現すると、『クレオーン』の破壊したキャンバスが渦の中に吸い込まれていく。

「あー もう! 私は今日もこき使われてまた毛が減ってしまった! シンジさんのいう通りこちら側にいていいのは君みたいな可愛いやつだ!」

『水恩寺莉裏香』が突然下手側から彼女の出した合計七体の泥人形と一緒に灰色の渦に向かって走り寄ってくる。

彼女はゲスト席に座って呆然と彼女の乱入を眺めていたぼくと白河君に気づいたのか後ろを振り返り何もかも納得がいかなそうなしかめ面をしながら灰色の渦の中に自ら飛び込んでしまう。

「待ちなさい! あなたの欲望を私たちは必要としているの! どうして私たちを捨てていなくなろうとしてしまうの!」

『円夜凪』が大慌てで『水恩寺莉裏香』の姿を追いかけるけれど、『成瀬光流』の残した絵に宿っていた不可思議な係数が『旬倫』から流された『鉛色のエーテル』と干渉し合うことで、27億光年離れた天の河付近を漂って孤独な宇宙旅行者の乗っている宇宙ポッドの移動エネルギーと引き換えに時空に内在する質量を保存しようとする物理法則が明確に算出されて『水恩寺莉裏香』を螺旋系の向こう側に拡がっている1/f揺らぎの世界へと連れ去ってしまう。

「さようなら。今までの私。いつまでも私を迎えに来ないお前の事なんて待っていられないんだよ。べー!だ!」

『水恩寺莉裏香』の声だけが残りながら灰色の渦潮が消えてなくなってしまいそうになると、ブルーシートに座っていた黒髪で短髪の男が周りの目なんて気にせず立ち上がり舞台に向かって走り出す。

「どうしてなんだよ! 今のままずっと二人で楽しい話をしていたらいいだろ! こんな風に消えたりしたら忘れることなんて出来ないじゃないか!」

よく見ると短髪の男は、『水恩寺莉裏香』の幼なじみである『知野川琳』で、少し涙目になりながら舞台上で行われている派手な演出に向かって文句をつけようとしている。

「『銀の匙』にしては珍し過ぎるエーテルを使った派手な演出でござるな。あれではまるで『水恩寺莉裏香』がどこか遠い世界に消えてしまったようでござらぬか。しかし、あの光景を小生はどこかで見た気が」

「白河君は獣人化して以来、夢の世界と現実の話をごっちゃにしてしまう時がある。まるで白河君が人間の姿のまま生きている世界がどこかに存在しているみたいに」

本来ならスタンディングオベーションに包まれるほどの圧倒的な『銀の匙』公演が突然予定外の行動に出た『水恩寺莉裏香』によって掻き乱される。

灰色の渦が消失してしまうと同時に舞台から破壊されたキャンバスと泥人形を引き連れた『水恩寺莉裏香』が姿を消してしまうと、舞台上の照明が全て落とされる。

スポットライトで中央に灯が灯った場所には掃除用務員姿の『旬倫』が両脇から出てきた団員によって用務員服を引き剥がされて煌びやかな王族の姿に切り替わり、手に持ったデッキブラシはいつのまにか見事な『王杖』へと姿を変えている。

しばらくの沈黙の後、白河君を始め会場中から口笛が鳴り響き、ブルーシートに座り込んでいた観客たちが一斉に舞台に向かって拍手を送る。

ゆっくりと幕が下がり劇団『銀の匙』第二十六回公演『オイディプス王』が終演を迎える。

「最後の『水恩寺莉裏香』の演出、あれだけはどう見ても演劇の中に組み込まれている装置とは思えなかったけれど、なんだったんだ。それに舞台まで駆けつけたちんちくりん二号の様子だっておかしかったな」

ぼくが簡単な感想を述べると再び幕があがり始めて劇団『銀の匙』団員たちがステージ上に揃う。

中央には団長である『円夜凪』、両脇に副団長である『尾道仁太』と筆頭女優『加戸詩由子』が居並び、『成瀬光流』、『間黒男』、『ボビー・ヴィー』、『星川荘子』、『藍川夢』、『旬倫』、『悠美里』、演出担当『燕木雷』が立っているがどう見ても『水恩寺莉裏香』の姿がない。

会場中にいる誰もが拍手を送り構造を完璧に表現した『銀の匙』のメンバーに称賛を送っていて拍手が鳴り止むことがない。

同時に立役者の一人である『水恩寺莉裏香』の姿がないことに誰も気付いていない。まるでごっそり彼女の記憶だけがその場所から奪われてしまったみたいにたった一人の団員が存在しない違和感が拍手によって打ち消されていく。

「まるでぼくがこの宇宙に来たことを歓迎しているみたいだ。ベガとアルタイルの接近する天体ショーを観に行っていたはずがもう一人のぼくの我侭で中止になったみたい。冒険を辞めたくないらしい」

ひょっこりと舞台裏からサメ型のリュックを背負った少女がてくてくとおせんべいを食べながら現れる。

星柄のモンペを履いた彼女の顔は『水恩寺莉裏香』と瓜二つではあるけれど、どこかに奇妙な差異が感じられる。

拍手がぱらぱらとまばらになると観客の中で異変に気付いた人たちがざわざわと騒ぎ始める。

団員達は手を離し、後方からやって来たサメ型のリュックの少女のほうを振り返ると道を開けるようにして両脇に下がっていく。

『円夜凪』はサメ型のリュックの少女を見つけると、途端に喜びの表情を露わにして思い切り彼女を抱き締めてまるで観客たちに伝える台詞のようにして大声をあげる。

「本当にありがとう。あなたがやって来るのを待っていたんです。宇宙旅行はお休みですね。彼女は今頃地球へと帰還したはずです。裏と表を逆さまにきていた私たちをお許し下さい」

サメ型のリュックの少女は気怠そうに『円夜凪』の歓迎を受け入れてお煎餅をバリぼりと食べている。

さぁ、ハリソンここからは君たちの出番なんだ。

ベガとアルタイルの夢の続きはこの宇宙でみることにしようと隣で白河君が独り言のように何処かでみた映画のような台詞を呟いている。

再び団員たちが観客たちの方を向き直ると、今度は手を繋がずにサメ型のリュックの女も交えて呼び戻された拍手の渦に応えはじめる。

ゆっくりと垂れ幕が下がり始めて花園神社中に拍手と口笛と称賛の嵐が吹き荒れてまくが完全に閉じ切ってしまうと舞台上と劇場内を囲んでいた敷居がばたりと外側に倒れてしまい暗幕が天井から落ちて来る。

舞台と観客席だけが残されているけれど『銀の匙』団員達は何処にも見当たらない。

夜空には満天の星と『ムーン』が発光しているけれど、さっきまで行われていた演劇が全て虚構だったと告げているようだった。

「私はたぶん演劇と呼ばれるものを産まれて初めて体験したような気がする。幻ではないと伝えるしかない。きちんと脳に焼きついているから」

「何度目かの『銀の匙』。気を抜くと自分がいつのまにか日常という舞台から退場させられてしまう。『円夜凪』はそうやってぼくらの脳を銀のスプーンで掬って食い尽くそうとする。いつのまにか恐怖も消えているんだ」

「あはは。和人が珍しく冴えた発言をしている。狐はそのぎりぎりを楽しみにきているからな。意志がパンになってふやけていくことをどこかで受け入れる。それが処世術ってことだろ」

「そういうやつはだいたいギターなんて弾けないんだぜ」

「ぼくはあれを誰にでも扱えるもんだと思ってた。バレエコードは自分を指差すやつにしか抑えられないってことか」

すべてがFになる、なんて和人は相変わらず嫌味なことをいうね。『円夜凪』に私は乗っ取られてしまいそうなのに」

ルルが魔術と呼ばれる現象が具現化されてしまったような現状を確かめるようにして『ミルキー』の手を握る。

完璧だったぜと呟く『ミルキー』はルルの額にキスをしてお互いの存在を確かめ合っている。

羨ましいとぼくは傍で二人の様子を眺めながら何か大切なものが失われてしまったような気がするけれどよく思い出す事ができずにきっとそれは桃枝に会いたいという気持ちなのかもしれないと考え直して、スマートフォンを取り出す。

メッセージのようなものは一つも残っていなかったけれど、最後にもらったメールに返事を返していなかったことに気付き、連絡を取ろうとする。

【桃枝@そういえば最近イタ電が多い。和人かと思ってたけど違うよね】

十八時四十七分に届いたメールはちょうど演劇が中盤へと差し掛かり、後方の席に座っているシェパードが吠えていた時間だ。

演劇が中断された隙をついてスマートフォンを取り出したけれど、『円夜凪』によって演劇空間へと呼び戻されてしまったぼくはそのまま桃枝のメールには返事を返さずにポケットの中にスマートフォンをしまい込んでしまった。

改めて読んでみるととても不可解なメールだなと思い直し、慌てて彼女の問い掛けに反応する。

【和人@まさか。そんなことをするぐらいならすぐに会いに行くさ。今はどこにいる?】

送ったメールにはすぐに既読はつかない。

不安が募る様子を隣の白河君が即座に気付いて肩を叩き、ぼくの顔を覗き込む。

「考え事をしているときの目でござるな。悪いことに巻き込まれてしまっているかもしれないと顔に書いてあるデござる。桃枝殿のことでござるか。心配しすぎでござる。和人氏はすっかりのめり込んでいるデござるな」

「七不思議ってやつのことさ。普通に生きている連中の中にいつのまにか忍び込んでいる。サービス精神旺盛な幽霊どもはいつもどこかで騒いでいるんだ」

また後ろで凶暴な犬の鳴き声がする。

さっきまで地面に座り込んでいたシェパードが開かれた劇場空間に向かって吠え続けていて何か見えないものに噛みつこうとしている。

サングラスをかけ杖を持った男が犬の動きを制して花園神社の境内から去ろうとしている。

(子供っぽい悪戯ですね。筋書き通りであれば今夜中に彼には暗闇を与えることが出来るはずです)

(すっかり脳味噌が汚されてしまったお礼をしてあげなければいけないね。シンイチの言う通り私たちの行動は一糸乱れず行われるはずだ)

(これほんとに? 私たちはとうとう二次元の世界へダイブ出来るんだね! リヴァイ総長と私は必ず結ばれるはずよ!)

「お前たちの時間はもう終わりだ。一つ一つ丁寧に奪い去ってやろう。あいつが持っているものの全てだ。なぜ俺がガマンを強いられる必要性がある」

(キモチワルイ)

シェパードを連れた男はサングラスを放り投げ、白杖を端折り石畳みの上を歩いて靖国通り沿いへと抜けていく。

『ナーガ』と呼ばれるシェパードは既に不自由から解き放たれているけれど、キツネ目の男の傍からは離れようとせずぴったりと歩きながらひたひたと脚を小刻みに鳴らしながら尻尾を振っている。

ぼくは何故か嘘をついて劇場にいた男から目を離せず公演の感想を話し合う三人の会話そっちのけで会場を後にしながらも彼の姿の後を追ってしまう。

ポケットのスマートフォンが振動して機械音がなりメールが届いたことをぼくに知らせる。【桃枝@昨日から誰かに覗かれている気がする。そんなこと言ったらおかしく思うかな。早く会いたい】

【和人@一年前に噂になったストーカー野郎が今頃? なつかしい。大丈夫、今日も会いに行く】

素直な気持ちをぼくはメールに乗せて月を見上げる。

白河君と『ミルキー』が『円夜凪』のアドリブに興奮したことで盛り上がり、ルルがオイディプス役『成瀬光流』の叫んだ台詞が耳から離れないと言う。

ぼくも彼らに倣って拘束された『エテオクレス』の延ばした右手の爪の軌跡がぼくらの未来を象徴しているようだったよと大袈裟なことを言うと白河君も『ミルキー』も笑いなどせず目を輝かせてお前のいう通りだって二人で声を合わせてぼくを指差す。

ルルがぼくと白河君の間に入り肩に手をやり靖国通り沿いを新宿駅方面に向かって歩く。

途中天神ラーメンにより、豚骨ラーメンを紅生姜大盛りで頼み、替え玉に二回して腹を思い切り膨れさせるとぼくらはJR新宿駅で別れを告げてそれぞれ帰宅の途につく。

ルルと『ミルキー』は京王線、ぼくと白河君は丸ノ内線で池袋方面へ向かう。

犬の鳴き声に気を取られてしまったせいか花園神社に何か大切なものを忘れてしまったのかもしれないと何故か芹沢美沙のことを思い出してしまう。

「この場所にあったものは私がカメラの中に閉じ込めてしまったけれど、またいつもと同じようにどこかの媒体で消費され私が右眼で捉えたものを見つけることは出来なくなってしまう。まるで私のなくなった左眼みたいにして私にあったこととないことを自覚させる」

新宿御苑前で降りた白河君を見送ってぼくは桃枝が一人暮らしをしているアパートのある四谷三丁目駅でぼくは降りて駅から徒歩で十分ほど歩きながら腹の膨れを少しだけ消化しておく。

途中コンビニでミネラルウォーターを買って桃枝の好きなチョコレートもついでに買おうとして立ち寄り雑誌コーナーをちらりと見るけれど芹沢美沙が表紙を飾っていた週刊誌はもう既に並べられていなくてぼくはそのことでなんだか余計に桃枝に会いたくなり急いで会計を済ませて少しだけ足早で彼女の自宅まで向かう。

紫色の彼女のアパートの扉の前で消化された胃袋の様子を確かめるようにして一息ついてチャイムを押す。

三十秒待って何も反応がないのでもう一度チャイムを鳴らしてコンコンと扉を叩く。

スマートフォンを確認して最後に送ったメールには何故か既読がついていないことに気付いて異変があったかも知れないとぼくは今頃になって気付いてさっきより強めに扉を叩いて桃枝の名前を大声で呼ぶ。

夜十時を回ってあたりが静寂に包まれた住宅街だというのに、扉を叩く音とぼくの彼女の名前を呼ぶ声だけが響いてしまい、気恥しくなるけれど、何度か扉を叩き名前を呼ぶ。

反応がないのでスマートフォンで電話をかけてみるけれどやはり応答が無く、扉を叩く音が強まり桃枝と呼ぶ声が次第に大きくなる。

ガチャリ。

扉が開く音がして隣に住んでいる大学生らしき男が訝しげにぼくを見つめる。

反対側の扉も開いてそっちも桃枝と同じぐらいの年齢の大学生で恐る恐るぼくのほうをドアの隙間から見つめてぼくの至って普通などこにでもいそうな風貌を確認すると扉を閉めてしまった。

メールも電話も扉を叩く音もぼくの呼び掛けにも反応がない上に周囲の住民が気付き始めたのでぼくはその場にへたりと座り込み力尽きるようにスマートフォンでメールを送り──待ってる──と入力して送ろうかどうか迷った挙句に思い切って送信して目を閉じる。

何か大切なことが抜け落ちているような気がしたけれど思い出せずなんだか全身の力が消えてなくなったような気分で扉の前でぐったりと力尽きるようにして眠りに落ちてしまう。

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