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07.I try to lead as normal a life as possible, and not regret the things it prevents me from doing.

「はい。故障してしまったのはレンズではなく本体のほうなんです。予備はあるけれど、出来るだけ早く直したいので、今日にでも修理に出したいのですが大丈夫ですか?」

師元乖次は四ツ谷駅改札を出た際にすれ違った黒い眼帯の女性が電話越しに話す言葉を偶然拾って一瞬目を奪われてしまったけれど、しばらく外出すらほとんどしなかった一か月間に頭の中でまとめることが出来たもう既に会うことが出来ない恋人からの贈り物を親友たちと共有する為に脚を急がせる。

冷たくなっていく体温の中で血流に熱を感じ取り、仕組みを理解しながら弛緩していく筋肉によって動的平衡が実現されうる環境を脳内で作りあげた後にテクストへと変換し可視化する作業をたった一人で続けてきた罪悪感を友人達と会うことで滲ませようとしているのかもしれないと師元乖次は考える。

学生棟にある『現代視覚研究部』の部室に行けば授業のないメンバーの誰かが集まってきているかもしれないが、彼はまず最初に大学で会うべきだと考える教授の元へと脚を向けることにする。

小さな違和感を彼の中で完全に納得させる為にもその行動には意味があるように思えた。

コンコン。

「三年の師元です」

「入りなさい。先客がいるがね」

師元は『八神桐』と表札に書かれた扉を開け中に入る。

中央の机には七三分けに黒縁の眼鏡を開けた五十代の男性が座り、濃い茶色の机の前には前髪が眉の辺りまで伸びて耳の辺りで綺麗に切り揃えられてロングスリーブの肌色のTシャツをまるでどこかの入院病棟の患者のように来てカモフラージュ柄のパンツを履いた師元より少しだけ背の小さい細身の男が立っている。

狐目の鋭い眼光が気に障ったが今は彼に構っている余裕はないと一歩脚を踏み出して『八神桐』に向かって頭を下げる。

「梨園の一件で自分の中で整理したい問題があり一か月ほど休学をしていました。今日から研究に参加させて下さい」

コホンと咳払いをして俯いた顔で何かを思慮深く考えながら『八神桐』は師元の謝罪に応える。

「あんな事件があったんだ、何も問題はない。そもそも哲学の授業は君なら心配する必要がないし、君は私のゼミには参加していないからな。田上君がいなくなった後で大変不躾な質問かもしれないがゼミに参加する気にはなってくれたか」

「その件でご相談があってお伺いしました。梨園の残した論文のいくつかに改めてゆっくり目を通しました。彼女とは主題において決定的なズレがあると思っていましたがそれは誤解なのかもしれないと考えを変える必要性を感じているんです」

「君が感情を計算に入れず一時の気の迷いでそんなことを言い出すとは思っていないが私と田上君、それから彼もおそらく君と同じ意見だ。柵君。師元君と面識は?」

狐目の鋭い眼光がにこやかな表情に変わり、握手を求めてきているが師元はなんとなく受け入れることは出来ず否定の意志を示す。

「彼と会うのは初めてですね。そもそも哲学科で見たことはありません。違う学部からのゼミ生でしょうか」

「はじめまして。『柵九郎』と言います。ぼくははっきり言って落ちこぼれなんですが神学部神学科に通っています。八神教授のゼミには神学的観点から参加させて頂いています。もうついていくのがやっとではっきり言ってお役に立てているのか分からないですが」

とても明るく快活とした口調でまったく裏を感じさせない爽やかな笑顔で『柵九郎』を名乗る男は自己紹介をする。

確かに梨園の残した論文にはキリスト教における三位一体構造に関する詳細な記述があったのは事実だった。

とはいえ、学内トップの生徒ばかりが集まっている『八神桐』のゼミに何故神学科の生徒が参加しているのだろうと師元はいぶかしむ。

「君の表情から感じる疑問は最もだ。ただ彼が私の元に持ってきた論文に比較的珍しい神という抽象的概念の解釈が見られた。なるほどと、神学科ならでは超越性が精神構造へ及ぼす影響に関する理論で私が特別にゼミに招いている。理解の足しになればと思うがナ」

コンコン。

後ろの扉がノックされ『八神桐』が応えると中に入ってきたのは物質生命学科助教授である『萌木蘭』で、縦縞のストライプに黒いヒール、少しだけ胸元が見える黒いブラウスにパーマのかかった黒髪のロングヘアというルックスの彼女がたくさんのファイルを抱えて『八神桐』の研究室を訪れる。

「あれれ。年頃のしかもイケメンの大学生がこんなところに。私を誘惑しに来ているのかな。哲学なんてものが実は女性器の中にしか存在しない事象であるとようやく気付いてくれましたか」

色香を残す彼女の服装は師元を挑発しているけれど、彼は動揺する素振りを見せることがない。

後ろを振り向いた表情を見て『萌木蘭』も状況を察して胸に抱えた大量のファイルを八神の机の上に置く。

「おはようございます。萌木助教授。タンパク質を構成するアミノ酸に関する神学的解釈はもう目を通して頂いたでしょうか。ぜひご意見をお聞かせください」

少しだけ怪訝そうな顔をして『萌木蘭』は柵の快活で溌剌とした質問に意見を述べる。

「そうね。面白い解釈だとは思ったけれど、24調をアミノ酸の結合式と照らし合わせて神性を獲得するという部分は少し疑問を感じてしまうわね。それじゃあまるで自分が性的不能であると宣言しているようなものじゃないかしら」

「いえ、ぼくが申し上げているのは萌木助教授に関してです。不協和を物質生命の中に取り込もうとする試みは超人思想にすら繋がりかねません」

『萌木蘭』は苛ついた表情を浮かべてしまいそうな自分に戯けて対応しながら一学生の挑発的な研究に踊らされないようにと軽く受け流す。

『八神桐』は笑いを浮かべて机の上に置かれた木製パイプで煙を吸い込んで火をつける。

「哲学的にみればどちらも構造主義批判と安易に片付けてしまう問題ではあるが確かに興味深い。私も柵君の論文に目を通すことにしよう」

「ふぅ。まったく八神教授は柵君に甘いですね。いつか足元を掬われてしまいますよ。それはともかくとして、もしかして彼は田上さんの?」

師元は『八神桐』の履いた麝香の煙の香りと空気清浄機に吸い込まれていく微かな違和感を目で追いかける。

「そうだ。亡くなった田上梨園君の恋人で哲学科において彼女と一、二を争っていた師元乖次君だ。素行に問題がある為になかなかウチのゼミには近付いてくれないがナ」

『萌木蘭』が師元の顔を覗き込んで見過ごすことの出来ない身体的特徴を彼の顔に発見したように少しだけ驚いて師元の肩に軽く触れて顔を明るくする。

「じゃあ私達の研究プロジェクトに関してももしかして知っているのかしら。彼女の作り出した論文の成果はもはや院生の間でも伝説的な評価を得ているわ。少し大袈裟に感じてしまうかしら」

そこまで『萌木蘭』が話すと入口から見て左側に立っていた『柵九郎』が頭を下げて今日はこの辺りで失礼しますと告げて八神の研究室を後にする。

扉まで近づき部屋を出ようとした直前でちょっとだけ後ろを振り返り『柵九郎』が残った三人に違和感をばら撒いて立ち去ろうとする。

「ボニーとクライド。貴方達二人はそちらの研究プロジェクトではそう呼ばれているそうですね。田上さんが話しているのを聞いたことがありますよ」

(馬鹿そうな顔だけどぼくが計算したよりずっと早く精神状態を復旧させているよ。気をつけてね。お兄ちゃん)

八神と『萌木蘭』から笑顔が消え、八神は手に持ったパイプを机の上に置く。ガチャリと扉が閉められると八神は話を元に戻して師元に決意を促そうとする。

「とにかく、君が私のゼミに参加してくれるのだとしたらとても心強い上に志半ばで去ってしまった田上君の研究を引き継ぐという意味でもとても価値のある決断だと思う。もし良ければ前向きに検討してくれたまえ」

師元はもちろんそのつもりですと答えそうになるのを一瞬だけ変わった彼らの表情を考慮に入れて呑み込んで些細な質問を二人の教授へと送り込む。

「そうですね、少しだけお時間をください。ところで八神教授と萌木助教授の研究というのは一体どういうプロジェクトなのですか」

八神が革張りのデスクチェアを六十度だけ傾けて『萌木蘭』が表情を引き締めた後で口を開く。

「人工生命に関するプロジェクト。と呼ぶべきなのかしら。この話はいずれ静かな場所でゆっくりしましょう。師元乖次君」

自分が大人だと思っていた師元の心を『萌木蘭』の表情は簡単に揺らがせてしまう。

近いうちにゼミに参加するかどうかを返答しに伺いますと師元は告げてポケットの中にしまい込んでいたUSBデータを右手で確認して部屋を出ようとする。

扉を開けて部屋を出る直前で頭を下げる時に『萌木蘭』が──謝らなければいけないわね。私たちは──と本当に小さな声で呟いていたことを師元は聞き流すことが出来ずに違和感を確信へと変えて学生棟へ向かう。

「なぁぼくの顔はどうなっている。泣き疲れて飯も食えず笑い一つ産み出せない。このまま精神虚脱状態で自殺でも選んだほうがましだって状況。白河君、俺にも痛みを感じる心があったんだよ」

「狐はそう簡単には眠りから目を覚まさないぜ。お前から一瞬でも目を離してしまったらあっという間に俺たちの傍からいなくなるつもりでいるような状態で放っておけるかってさっきまでずっとお前を見張っていたんだ。さすが狐の獣人、精神力まで並外れていやがる」

『アースガルズ』が眠い目を擦りながら白河君の胸ポケットから身体半分飛び出させてぼくをからかっている。

白河君は部室の綻んだソファに座っているぼくの隣で涎を垂らしてぐったりとしながら目を瞑っている。

本当にさっきまでぼくの行動を監視していたらしく、ぼくが泣き疲れて絶望に呑まれて壊れる寸前で自傷ではなく死への渇望を眠りに置き換えて目を瞑り脳味噌の活動を一時停止している間中も『アースガルズ』の言う通りぼくをじっと見つめ続けていたらしい。

「なんだ、君は。ぼくの奥さんにでもなったつもりか。このまま生命を放り投げてしまったほうがよっぽど楽だったじゃないか。けど、そうか。ぼくはとりあえず部室にいる。今すぐにでもナイフで心臓を突き刺してこの世界から退場してしまいたいって気持ちを抱えたまま」

はぁぁと部室の一番奥から溜息が聞こえて、パンッと分厚い本を閉じる音がして聞き覚えのある声で現実と繋ぎ止める為の厳しい優しさがぼくに向かって放たれる。

「私にはどうしていいかわからなかった。稔君に呼び出されて事の顛末を聞かされて君の気持ちを一生懸命想像して考えて正直にいえば後を追わせてあげるほうがずっと楽なんじゃないかとすら思ってしまった。けど、稔君のいう通り信じてあげるしか出来ないんだって考えることにした。だから泣き言だったら好きなだけ言え。甘えるなんてダサいやつのすることだけど、今のお前にはそうなっていい権利が十二分にある。私は今その為に君の傍にいる」

三島沙耶が珍しく公私混同をして、いつか二人で楽しく笑い合ってた時みたいに俺の傍にいる時と同じ顔をして涙を目に浮かべている。

梨園の誘いでこの部室に来るようになり、何故か距離感の分からない関係のままこの場所に集まるようになったぼくと彼女にちょっとだけ時計の針が小細工をしてぼくに甘ったるい救いのような嫌味ったらしい修復装置の存在を提示する。

「元カノに甘えて心の傷を癒して希死念慮から逃れる為に無理矢理快楽に溺れようとしても確かに今は誰もぼくのことを責めないな。けど、お前はわざわざそれをぼくに告げて、逃げだすことを許さないなんてナ。どれだけぼくを信じているんだ。強くある必要性なんてどこにもないって今ぼくはそう思ってるんだぞ」

沙耶はただ黙ってぼくの話を素直に受け入れている。

中央の会議用テーブルにはうつ伏せで佐知川ルルが蹲っていてどうやら彼女も疲れ切って寝てしまっているらしい。

白河君がぼくに配慮して彼らを集めてくれたのだろうか。

物質生命学科の友人達に知らせることも出来ただろうけれど、騒ぎが大きくなる可能性も考えて『現代視覚研究部』のメンバーだけでぼくに訪れた逃れようのない悲劇を伝えたのだろうか。

怒りや悲しみも確かに腹の中で煮えくり返っていてぼくを震えたたせようとしているけれど、そんなことよりも記憶に焼き付けられた部屋の風景が蘇ってきてはぼくの心を壊そうと襲いかかってくる。

やっぱりまた沙耶が心配そうにぼくを見つめてくる。

恐怖で全身が覆われてしまいそうになり頭を抱えて塞ぎ込もうとした瞬間に部室の扉を開く音がする。

「やはりみんな集まっているのか。和人、稔から事の経緯は簡単に聞いている。獣人であるというだけで中身は俺たちと大きくは違わない。俺に送ってきたメールの内容からでも稔の心労は伝わっている。間を開けていたのは俺の方なのに勝手で済まないがこれからは俺を利用しろ。俺たちはなんとかこの最悪な状況を抜け出すんだ、出来る限り簡単で安易な選択肢を避けていくことしか今は出来ないはずだ」

※4とらドラ!の限定Tシャツの上にネルシャツを着込んだぼくにはきつく重く受け入れる事の難しい現実を容赦なく乖次は伝えてくる。

けれど、乖次の言う通り例えば今すぐに桃枝の姿を追い続けるという選択肢を選ばないのだとしたら、ぼくは乖次の言葉を素直に受け入れることしか出来ない。

正常にものを考えられる状態をぼくは完全に見失っているとしか言いようがなくどうしても振り切れない微かな違和感を喉の奥から振り絞るようにして力を込めて乖次に伝える。

「なぜ梨園が自殺した現場で、梨園の身体を吊るしていたロープは届くはずのない天井からぶら下がっていたんだ。警察は彼女の死を自殺だと断定したのは確実なんだな」

決して油断や笑みなど入り込む余地のない表情の乖次が少しだけニヤリと口元を緩めてぼくの傍に近寄ってくる。

「計算し尽くされた環境によって梨園があの選択肢を選ばざるを得なかったと仮定するのであれば、俺たちは真実を知る必要がある。そして、おそらくそれはお前が求めている答えと同じのはずだ、和人」

ぼくは気力を振り絞りどこまでも沈んでしまいそうなソファから立ちあがり、乖次の眼を睨みつける。

「それを聴きたかったんだ、乖次。こいつは警察なんていう機構では処理することは出来ない状況を作り出せる人間だ。俺たちは自分たちの手で問題を解決する必要がある」

乖次は背負ったリュックの中から大学ノートを取り出して机の上に広げる。

どたりと音がして佐知川ルルが眼を覚ます。

沙耶の不安そうな表情が消えて彼女は再び本の世界に戻っていく。

窓から吹き込んでくる風が冷たくて髪をなびかせるので沙耶は窓ガラスを閉めて膝の上に本を置きぼくと乖次に戻り始めた眼の光をみて小さく頷いて本に挟まっていた手紙にもう一度眼を通す。

「こいつは自己顕示欲の塊だ。何もかも理論づくめで理屈まみれで完璧主義者だ。だからこそ俺たちの力で炙り出せる。人が多く集まる場所がいい。文化祭を使おう。こいつをみてくれ」

乖次のノートに一編の詩とそれに基づいて構成された映像作品のコマ割りと思われる図案が丁寧に細部に至るまで細かく書き込まれている。

一つ一つの記号とイメージの連結からぼくは彼の構成した理論を推測し自然と心の底から笑いのようなものがこみ上げてくる。

「ああ。ここ。裸の女性は逆さまにした方がいい。これは沙耶がやるんでしょ?」

ルルがぼくらのみているノートに文句をつけらぼくと乖次は思わず眼を合わせて頷いてしまう。

沙耶が自分を指差してとても苦々しい顔をして笑っている。

ルルは隅々まで乖次の割り出した映像作品の理論に口を出し確認をして修正案と妥協案を提示してくる。

「お前達がいてくれてよかった。聞いているか。気色の悪いクソ野郎。ずっとお前はこの学校を舞台にした演劇を楽しんでやがる、我慢が出来なくなったなら教えてやる。お前の夢は何もかも俺たちが叩き壊すぞ」

(ねぇ、この女の子さ、底辺と付き合ってるやつだ。偽善者? 善行? 奉仕活動? 逆さまの暗号に気付いちゃった)

乖次は何処かでぼくらを覗いている『aemeth』に対して宣戦布告をして記号と配列のパラドックスを解消しようとしている。

ぼくは、桃枝が残したたった四文字のダイイングメッセージにあった違和感を『phoenix』のデータベースと連結させてよく調教された蜚蠊が好みそうな暗がりのあたりをつけると、冷蔵庫裏の電源タップを取り外す。

会議テーブルの上でタップの蓋を開けると一メートルほどの黒い塊がわらわらと逃げ出してすぐに蒸発してしまう。

犯罪組織などが使う違法魔術の痕跡をぼくは見つけたことでぼくらが監視されていたという事実を確信する。

「小型とはいえ集音性能は抜群だな。稔、こいつを魔法少女に連絡を取ってエーテル探知の方法を聞き出すことが出来るか。死んでいる肺とはいえ、知識に関しては『マグノリア魔法学院』優待性レベル。巡音の実力を見せつけてもらおう」

グルルと唸りながら主人の名前を聞いて白河君が眼を覚ます。

「外国にいるご主人殿と連絡を取るには預かっている小型通信機がいるデござるな。小煩いので電源を切っているが必要であればすぐにでもコネクト可能でござるよ。ご主人殿と小生の心はいつでも繋がっているデござる」

ぼくは伝えるべきことを伝え、やるべきことをやり、桃枝の痕跡と白河君が桃枝の部屋で感じたとても微かな擬似的な『魔術回路』の匂いに関する不審点を解決するために、現在『インディペンデンス』に留学中の人類史上最高の頭脳の一人に名を連ねようとしている天才、横尾深愛に連絡を取ろうと自前のノートPCを開きEメールを送る。

【和人@お久しぶりです。横尾先輩。例の人体実験の結果はどうでしょうか。先輩であれば、冷徹非情にあらぬ限りの虐待を繰り広げていることでしょう。ところで、先輩が留学一年目にして提出し『インディペンデンス』中の話題と名声を一夜にして手に入れた『魔術回路』に関する論文ですが、こちらで拝見することは可能でしょうか】

ぼくには難しすぎる難題を丁寧に解きながら適切な配線に切り替えてすべき問題とどうにもならない事態を寄り分けていく。

有り体に言えば、酷く苦しくて身に詰まる状況ではあるけれど、部室に集まった仲間たちと作り上げていく文化祭でのサークル活動の成果を形にしていくことで共有して分散している傷痕をナイフへ作り変えて自分自身に向けられる事態から逃げ出そうとする。

「まずはカメラと三脚を手に入れよう。撮影場所には少しこだわる必要があるはずだ。大きめな下水道のトンネルは高田馬場あたりに心当たりがある」

ぼくらは梨園がまたいた頃の話を乖次が残していた彼女の手記を元に再構成し始めていく。

細く華奢な身体から想像出来ないほど熱い思いを冷静な思考で伝えようとしていた彼女が生きていたという証を決してどこにも逃さないようにぼくは自分の中に押し留める。

「──戦争装置の必要性を訴え続けていた平和主義者──。もしそれが自殺という選択肢を彼女が選び取ることでしか完成しない絵なのだとしたらぼくたちが意志を受け継ごう。腐ったままの林檎を放置しておくのはぼくたちの怠慢なんだ。やり遂げよう、みんな」

勇気を振り絞る。

望みを繋げようとする。

光が失われることを恐れて前に脚を踏み出すことを選択する。

「おーけー。では一応暫定的に学内トップの成績である私が遠慮なく図々しく貴方たちに協力をしてあげよう。梨園がいないのならば、ここに留まる理由はあまりないのだけど、和人、君のいう無力じゃない正義っていうのを形作る手助けぐらいはしてあげる。今はそういう綺麗事が私たちには確かに必要だね」

沙耶はルルの提案通り、裸になりぼくたちの理論をインストールする為のモデルになることを承諾する。

コミュニケーション、つまり人が人に何かを伝えるという意味において彼女の知識と知恵はとても役に立つ。ぼくたちは暴力を制御する為の防波堤を視覚化して明確にする必要がある。

「期限は一週間だな。小難しい理屈はルルと乖次がまとめあげるんだ。和人は沙耶をきちんと裸にして記録映像をいくつか採取して、データを元に狐が編集。カメラは俺の簡易記録装置を使うより専門的なものを映研あたりに借りてこよう。一台ぐらいならなんとかなるだろ」

『アースガルズ』の提案に皆が納得してぼくはとりあえず物質生命科の友人である『塚元敬』先輩にコンタクトを取ることにする。

「わかった、なんとか一日だけでも撮影機材を借りてこよう。確か、敬先輩は沙耶のことを知りたがっていた。ついてきてくれ、沙耶」

沙耶はハンって鼻息を勢いよく鳴らして手に持っていた──空像としての世界──を会議用テーブルにバシンッと音を立てて置いてぼくの後をついてくる。

乖次とルルは白熱してしまう議論に夢中でノートに一生懸命何かを書き込んでいる。

「小生は一度自宅に戻るデござる。この分だと今夜はみんな部室に泊まることになるデござろう。買い出しもついでに行ってくるデござるよ」

映像研の部室は二階の北側なのでぼくらがいる三階南側とは反対側になる。

『塚元敬』先輩は映画熱に没入するあまりに見事に二年間留年し、映像研の部費を使い実験的な自主制作映画ばかりを外部の協力者と共に作っている筋金入りのモラトリアムだ。

彼の初期作品である──怪獣達の楽園──は自力で作り上げたジオラマを巨大な怪獣へと転化させた自分自身が欲望の赴くままただただ破壊し続けるという初期衝動溢れる作品でチープでシンプルな作りではあるけれど彼が映像を通して伝えたいと考えていることの全てがつめこまれていて一昨年の文化祭で初めて──怪獣達の楽園──に触れたぼくと白河君は会場中の誰もがしらけた顔で呆然としている中で思わずスタンディングオベーションを送り、その場で塚元先輩と意気投合をしてしまった。

最新作『琴子』は『塚元敬』先輩と同じ映像研である『神座琴子』という女性を題材に初期作品と同様の初期衝動を彼女にぶつけ続けるという問題作であっという間に学内で問題になり公開を禁止されるというものであったが彼はあっけらかんとした表情で偉そうに語り出す。

「あんなものをCGで適当に仕上げる連中ばかりだから俺はいつまでも此処にいる羽目になっているんだ」

といかにもモラトリアムだというテンプレ台詞を吐き捨ててまたもやぼくを感動させてしまった。

とはいえ、やはり彼の映画愛とも呼ぶべき情動は本物で危ない橋を渡って手に入れたと思われる部室にところ狭しと置かれた撮影機材はプロ顔負けといったところであろうか。

文化祭前でおそらく作品制作に勤しんでいる映像研部室を訪れて運良く撮影機材を拝借出来るかどうかは一か八かの賭けではあるけれど適当な機材で済ませてしまうよりかはぼくもそれから乖次もきっと然るべき形でいまぼくらの中にあるわだかまりをきちんと記録しておきたいというのが本音であり本願であると言える。

例え故障したカメラでも今ぼくが必要とする記録を手伝うことの出来る存在を求めて映像研にコンタクトをとる。

「そうですか。一週間はかかるんですね。仕事で使うものだから出来るだけ早く治したいと思っているけれど」

芹沢美沙は愛用している機材の内部にリコール対象の部品が見つかり取り寄せて修理されるまで時間がかかってしまうことにとても戸惑っている。

代用品の貸し出しはもちろん行われているけれど、例え同じ形をしていたとしても彼女の手に馴染んだ機械が本当の意味で同じ仕事をしてくれるかどうかはわからないと考えている。それは例えば彼女の黒い眼帯をつけた義眼と消えてしまった左眼がそうであるように。

「カメラを借りたい? 全然構わないよ。作品制作と言ってもぼくらはもう撮影のほとんどを終えてしまって後は編集作業を残すのみだ。どれでも好きなものを持っていきたまえ。しかし君らが映像とはね。人造人間を作ることだけが君たちの目的かと思っていたぞ」

『塚元敬』先輩はぼくの要望を快く承諾してくれると部室内の棚にずらりと並べられた高級な機材の数々を自慢げに見せびらかす。

「大袈裟なものは必要がないし、この一眼レフカメラだけで十分です。後は三脚ぐらいですね」

ぼくは灰色の金属製の棚に置かれたCenon 5Dを手に取り触り心地を確かめる。

「そんなのでいいの? もっといいカメラだってあるのに。けど、そうだね、確かにとても良い機械だ。遠慮なくどうぞ」

少し太った身体で女性的な逞しさをしている彼女は、『大谷熊子』で映像研の主に撮影班を取り仕切っているはずだ。

きっとこの一眼レフも彼女の管理品の一つなのだろう。

ぼくらの部室の半分ほどの会議用テーブルの奥には『塚元敬』先輩が座りその右横にある映像モニターで編集作業に勤しんでいるのは今年入部してきたという『盾横継』で入部の際に塚元先輩顔負けの映画知識を披露してきたよと先月たまたま飲みに行った居酒屋で塚元敬先輩が楽しそうに話していた。

その時、隣にいた桃枝がピンク色の頬でぼくの肩に寄りかかりながら、何故か──雨に歌えば──のダンスシーンの秀逸さを話しているぼくら二人の会話に酔いしれていたのをふと思い出す。

過去から押し寄せてくる記憶がぼくの手を思わず止めてしまいそうになる。

「敬君。どうかな、作品の仕上がりは。良かったらシーン37にこの音源を挿入してみて欲しいんだが」

ぼくの後ろから現れたのは『七星学園』魔術科でぼくらの世代の一つ上でありながら留年し、結局ぼくらと同じ年で卒業することになった三つのエーテルの持ち主、『百豪業』、通称『百舌』先輩だった。

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