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宿輪かな秋の日差しと瓜二つ

さて、とうまさんが貧乏であるかどうかについて議論が絶えない。

きっと静かな部分と騒がしい部分が同時に私自身を形成している。

それでも物理学的には自己存在の肯定を現象と結びつけるには非常に難解な手順が必要になる。

現実認識に必要なのは実態が存在しない意識の領域においても実態は非実在である。

ところで、昨日の晩御飯はカレーライスだった。

必然としてカレーライスはカレーとライスだけの存在である。

であるのならば、ゆえに、昼ごはんのことも少しは考えていきたい。

難しい問題ではあるが、家がなくなってしまっては昼ごはん食べられないからだ。

明日は朝ごはんを食べるとは思う。

少し複雑な話だが、昼ごはんの時間にさえなれば、朝ごはんのことは忘れている。

カレーライスは夕ご飯だから。

まあ、なんにせよ、昼だ。

タバコの量ばかり増えている。

私はあの人のことを考えていると、お腹が空いている。

明日はきっと同じだろう。

故にカレーライスには人生が詰まっている。

自分と同じ形ではないが、消化によって自己存在を肯定している。

否定的な側面がカレーライスにないことは明白だ。

つまり現実的には物理的実態をカレーライスと呼ぶべきだ。

私は本当に存在しているのだろうか。

非常に多義的な問題ではあるが、実際私は私としてどこにでも存在している。

タバコの煙は私であるのだろうか。

神が存在するのであれば、それは私ではなく、カレーライスによく似ている。

明日のカレーライスも同様だが、ハンバーグの場合はどうだろう。

明日と今日はさすがにちょっと違う。

昨日はどうだっただろうか。

カレーライスぐらいならば、明日も同じだ。

だが、お日様は温度が常に一定であるとも言える。

明日も私を照らしているからだ。

それゆえに、私がモチベーションによってカレーライスの存在を認める場合。

明日の今日は明日だからだ。

つまり、何が言いたかったんだろうか。

それこそが人生であると私はカレーライスを食べ損ねた夜にそう考えている。

明日はいつだっけ?

ご飯食べたっけ?

そんなふうにして私は生きていた。

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