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「総悟!行っちゃダメ!戻ってきて!」

七星亜衣は真っ暗な空間で目を覚ます。身体の感覚が曖昧で現実感がまるでない。自分という存在が本当に存在しているのかどうかも分からない。少しずつ呼び戻されていく意識でなんとか右手に力を入れると脳からの命令が指先まで伝わって意志によって掌を握り締められることがわかる。ということはまだ死んでしまったわけではなさそうだけれど、けれど暗闇が視界を埋め尽くしているせいか何処にいるのかまでは判別できない。目の前に、形の定まらない点と線が結ばれた幾何学系がまるで生き物のように蠢きながら出現する。やがて、赤や青や黄色や緑の線が言葉を話し出す。どうやら存在のあやふやな何かが彼女に話しかけてきているようだけれど、発せられた音声が意味をなさず鼓膜を刺激して彼女は言葉が生まれる前の音そのものが届けられていることに困惑しながら意識を聴覚に集中しようとする。

「ポプリ。わかるか。俺だ。六蟲憂鬱だ。お前の頭の中で俺の形をイメージしろ。記憶の中にいる俺自身を想像してもう一度作り直してみるんだ」

七星亜衣は呼び掛けられた通りに目の前で蠢いている不可思議な現象と六蟲憂鬱を結び付けて聞こえてくる言葉と声を彼自身のイメージと重ねあわせる。目の前に、耳の上あたりまで伸ばした黒髪を真ん中で分けて右の首元あたりに梟の刺青の入った男が七星亜衣に向かって何かを一生懸命呼び掛けている。彼女がそれを六蟲憂鬱だと理解するのに数秒間ほど必要だったけれど、真っ暗な空間に浮かび上がってきたのが彼だと判断出来ると途端に彼女は六蟲憂鬱の隣にいる手塚崇人のことも知覚することが出来る。

「魔界と俺はこの場所を呼ぶことにしている。この場所を知っているものの案内がなければ辿り着くことが出来ないし、来れたとしても大抵のやつは暗闇と自分の境界線が理解出来ずにそのまま同化してしまう。意識を集中してみろ。形を忘れてしまった思念だけがうろついて体を探しているのに気づくはずだ」

手塚崇人に言われた通り七星亜衣が目と耳と鼻を使って周囲に気を配ってみると、確かに人の気配のようなものを感じることが出来る。けれど、彼らはまるで会話そのものを忘れてしまったみたいにうろつくばかりで六蟲憂鬱や手塚崇人のように話しかけてきたりはしてこない。ただ存在するということだけを暗闇の中に残したままあたりを漂いながら、時折光のようなものに収束したり、音の原型のようなものとして介入してきたり、微かな血の匂いのようなものを発して、それが生物に似たものであることを七星亜衣に理解させようとしなが漂っている。

「魔界。っていうんだ。この場所。けど、私はなんとなく知っている気がする。なんていうか、歌を歌う時にこの場所の近くに私はいる気がしている。私はその場所では私じゃなくて、他の誰かだけれど、私がいなくなってしまったら歌は目の前に現れてくれない」

六蟲憂鬱と手塚崇人は当たりだなと二人で顔を見合わせて笑いながら、仰向けに寝転がっている七星亜衣に手を貸して起き上がらせるとふらつく彼女を支えて少しでも油断してしまったら、暗闇と同化して自分が分からなくなってしまうという類のことを伝えて脚を前に踏み出させる。

「俺が前に来たときは案内人がいて、俺が会いたいと思うものに巡り合わせてくれた。ここでは形がまるで意味をなさないけれど、必要であれば俺たちに合わせてくれるはずだ」

手塚崇人が七星亜衣の耳元で出来るだけ正確に言葉を伝えると、目の前に年の頃は12、3歳の銀髪の男の子と女の子が中世ヨーロッパ貴族のような服装で現れて、丁寧にお辞儀をして七星亜衣に手を差し伸べる。

「ぼくはリル。君がこの場所で迷うことなく求めているものに出会うことが出来るように君の元にやってきたんだ」

「私はリラ。どうやらあなたは強い意志を持ってここまでやってきたみたいね。そんな人はここに住む人にとっては格好の餌食よ。私たちが守ってあげる」

リルとリラの双子の兄妹が挨拶をすると、まるで七星亜衣の歩く道を示すようにして両側に獣の気配が現れて彼女を怯えさせる。けれど、決して彼女のいく道を遮ろうとする意志はないようで狡猾さも猜疑心のようなものも感じられない。少しだけ警戒しながらも彼女はリルとリラに案内されるがまま六蟲憂鬱と手塚崇人を従えて、前に進む。

「総悟に会えるわけじゃないのはなんとなく分かった。けれど、だからこそ私はこの子たちに連れられてあなたのいう場所まで向かう必要があるのね?」

七星亜衣は左側を歩く手塚崇人に同意を求めるようにして話しかける。彼は彼の左側に潜んでいる息の荒い獣たちを抑えつけるようにして気を張りながら、とても強い存在感を示す七星亜衣に引きずられないようにして彼女の質問に応える。

「俺のいうことを聞く必要はないけれど、経験者の話に耳を傾けておいて損はない。けれど、お前にとってもよく見知った道のはずだし、もし迷ったとしてもリルとリラがいる。それに正確には」

「十草総悟にきちんと会うことが出来るはずだ。それがお前が望んでいた形になるのかそれとも違う形になるのかまでは俺たちにもわからんさ。教えて欲しい、どうしてそんなに奴にこだわる?」

六蟲憂鬱が気圧されてしまいそうなほど自分の意志を示そうとする七星亜衣を中和するようにして話しかけて獲物を狩ろうと飛びかかってくる寸前の獣たちの勢いを宥めようとする。敵意がないことを彼らに示さなければ、七星亜衣は無数の暗闇に食い殺されてしまうかも知れない。六蟲憂鬱が話しかけると、今度は七星亜衣の全身に寒気のようなものが走り回り、羽虫や甲虫のようなより小さなものの気配が暗闇に充満する。獣たちは身を引いて今度は不快感が七星亜衣の行く道のすぐ隣りを蠢いているけれど、リルとリラの案内通りにまっすぐに進んでさえいれば、違和感や異質さは彼女の傍には寄ってこないことがわかる。その場に蹲ってしまいたくなるような酷く気怠い雰囲気が漂ってくるけれど、彼女は脚を止める必要がないことが分かっているのかリルとリラのつまらなさそうな顔をちょっとだけ嘲笑いながら暗闇の中を迷わず進み続けていく。彼女の力強い足取りに気を取り直したリルとリラが前方を指差すと、揺らめく炎のような光が灯り始めてやがて大きな扉のようなものが現れて七星亜衣と六蟲憂鬱と手塚崇人の行く手を遮ろうとする。

「私はこんなものを開く意味がないと思っている。どうして私たちの前に現れる意地悪なんてしてきたと思う?この子たちの悪巧み?」

リルとリラが顔を見合わせて大袈裟に驚いたフリをしながら、それじゃあ仕方ないねと呟いて彼女から手を離す。突然、七星亜衣の身体は重力に縛られて重みを取り戻し暗闇の底へと落下していく。まるで暗闇そのものから解放されたみたいに七星亜衣は光に包まれて意識を取り戻して自分自身のいる場所へと呼び戻される。気がつくと、そこは教会のような場所でたくさんの信徒が目の前で彼女のちょうど上方に向かって祈りを捧げている。上を見上げると、太陽のような形をしたオブジェが色とりどりのステンドグラスに挟まれて鎮座していて窓から差し込む光によって中央の金色の金属できた円形を取り囲むように線形によって装飾されたオブジェが照らされていて神々しい雰囲気を教会のような空間に与えている。彼女があまりのばかばかしさに呆れて前を向くと前方の扉から右目のあたりに傷を負ったガタイのいい男が日本刀を持って現れて七星亜衣がいる場所を睨みつけている。ゼロと呼ばれる男が祈りを捧げる信徒の間をすり抜けて七星亜衣の元へと駆け寄ろうとすると、数人の信徒が取り押さえて彼の行く手を阻もうとする。

「どうだい?この場所では何も信じられるものなんてないだろう?君は神という存在がいつ生み出されたか知っているかい?」

七星亜衣の左側の足元には胡座を組んだまま両手両足を縛られて座らされたぼさぼさの白い髪の毛の若い男がいて、彼はとても久しぶりに意志の疎通出来る感覚を味わおうと彼女の頭の中に向かって直接話しかけるようにして言葉を発する。

「私は神様なんていてもいなくてもいいと思うけど、ここの人たちは信じているみたいだね」

「光が存在しなかった時代、暗闇を恐れた人間たちは自分たちの理解出来ない場所を神と名付けて崇めることにしたんだ。それは最初に彼らの共有する意識の中に現れた。自分たちを取り巻く環境に絶対の法則性が存在するという事実を人間たちは理解するのを放棄して神という現象に置き換えたんだ」

「じゃあ何もかも理解出来た現代にはそんなものはいらなくなってしまったってことでしょ。私たちは何不自由のない生活を送っている。必要なものは大体手に入れられる」

「けれど、それには対価が必要だね。支払うべき対価のことを崇めているのだとしたら結局は同じことじゃないか」

「信じられるものがないことを何かのせいにするのも暗闇を恐れた人たちと変わりがないじゃない」

「あはは。だから神を悪魔と言い換えた人たちが今度は力を手にする。病や異常性が好まれる世界では信仰は崩壊して暴力だけが正義になりかわる」

「お前は何を言っているの。解決できない問題を堂々巡りの中に閉じ込めて嫌がらせがしたいだけ?」

白い髪の毛の両手両足を縛られた男が顎でゼロという男を指し示して信徒によって抑えつけられる様子に目を向けさせる。左脇に抱えた日本刀に手をかけたゼロが鞘から刀身を抜こうとして、信徒の一人が暴れるゼロの祢々切丸の刃先で右腕に怪我を負う。白髪の男性が奇声をあげて痛みを訴えると、教会に集まっていた聖愛党の信徒たちが一斉に立ち上がり、祈りを送るのを辞めてゼロのほうを振り返る。血が流れるのを見た白髪頭の女性が呪詛のようなものを唱えながら発狂して教会に設置されたベンチを飛び越えてゼロに襲い掛かろうとする。

「くそ。たったこれだけの血を見ただけで馬鹿どもが正気を失いやがった。だからこいつらは馬鹿だって言っているんだよ。全部ぶった切ってやる」

ゼロは取り押さえようとする信徒たちを振り解いてしまうと祢々切丸を鞘から抜くと、祈りを捧げ続けたにも関わらず傷ついてしまった信仰を守るようにして教会にいる信徒たちが一斉にゼロへと襲いかかり始める。血のついた日本刀が男性信者の右腕を切り落とし、女性信者の首を一閃して胴体と切り離して、血走った目で両手を振り上げて飛びかかってくる筋肉質な男の心臓のあたりを貫く。教会中の信徒たちは一斉に信仰が砕かれてしまったショックから狂気に取り憑かれて暴力衝動に取り憑かれたまま隣人を愛すのを辞めて殺意へと感情を昇華させる。

「これ。お前がやったの?たとえ存在しないものだったとしても、空虚さを埋める行為のどこに間違いがあるのかは私には分からないよ。傷つくと壊れる、を置き換えたんだね?」

「その通り。神を作るという意味では全面的にぼくが間違っているさ。信仰なんてまるで無意味なものに変えてやったからな」

「神っていうのがなんなのか分からなくなった。いくら信じても裏切らないもののこと?」

「そういうものが欲しいなら求めればいい。そこに自然と虚無は発生するさ」

「私は心に空洞を作るのが仕事なのかな」

「だとしたら、ぼくはまたそれを壊して何も見えない暗闇の中に引き戻す」

「なんのために?」

「君と同じさ。ぼくたち人間を人間たらしめる知的好奇心の賜物だろう」

「はは。神様はどこかにいるって最初に嘘をついたやつのことを私は恨むことにするよ」

太陽のオブジェの前で怒り狂った三十代の男性がいびつに顔を歪めた女性の両目に指を突き刺して雄叫びをあげる。二十代の女性信者が血で濡れた床に脚を取られて転んだ70代の老人の顔面をハイヒールで踏みつぶす。さっきまで祈りを捧げるために手を合わせていた男性信者が拳を握り固めて彼の隣に仲良く座っていた女性の顔を横から殴り付けて首を掴むとそのまま遠くへ投げ飛ばす。ゼロが貫いた心臓から刀身を引き抜いて動きが止まった隙に一斉に信徒が襲いかかり彼を押しつぶそうとしてゼロが身を守る為に胸の前で構えた日本刀の刃先に女性信徒の左腕がめり込んで血が吹き出るとゼロの顔面を鮮血で染める。両目が血液が侵入して怯んだゼロが無我夢中で日本刀を振り回すとめり込んだ女性信徒の左腕を切り落とし、男性信徒が素手で刀身を掴み取ろうとするけれど、勢いがとまらぬままに指先を切り落としてちょうど男性の鼻のあたりに日本刀が入り込んで動きが止まる。ゼロは日本刀を捨てて、覆いかぶさってくる信徒たちを思い切り蹴り飛ばして退けてしまうと、人差し指と中指の間に親指を挟み込んで握り拳を作って狂ったまま行動をやめようとしない男性信徒と女性信徒を渾身の力で殴り退けていく。壊れたガスライターで顔を炙られて絶叫するものや関節を決められたまま骨をへし折られるものや男女の見境ないまま信徒たちの思考は単純な解決だけを求めて暴力に支配されてしまうと目の前の対象が行動不能になるまで殺意を発症させて自由とは無縁な状態へと引き摺り込まれていく。

「2026年2月14日。これは実際に起きる予定の白い羽根大聖堂虐殺事件と後に歴史に刻まれるはずの出来事さ。君はこれを止めるために十草総悟に会おうとしているんだ。どう思う?君は何の得にもならない善意による行動を継続するつもりかな」

「今、目の前でそれを体験している私はこれを美しいと思っているかもしれない。とても素直で人間らしくて。けど、私が実際にこの場にいたとしたら吐き気を催してその場から急いで逃げ去るかな」

「起きていること自体には何の興味もなさそうだ。なのに、君は行為の結果として予定されている出来事を変更しようとしているね」

「もし私の行いで結果が変わるなんて知っていたら、確かに私は優越感や陶酔感を手にすることができるかもしれないね。けど、残念ながら私はポプリよ。たぶん必要なのは関係性を補うという行為だけかな」

大量の出血によって聖愛党本部、白い羽根大聖堂の教会が赤く染められて死体や傷ついた人々の山が出来始めてゼロは男性の頭部に突き刺さった日本刀、祢々切丸を引き抜くと力の弱った老人や女性が襲いかかってくるのを弾き飛ばしながら、教会の一番奥に座らされている頭髪が完全に色を失ってしまうまで白く変化した長期殺害対象被執行者情報抹消案件"M"の元に返り血で濡れた日本刀を携えて斬りかかろうとする。

「待って!この人だけは殺さないで!少なくとも私たちにとって彼は必要な存在なの!」

彼女が現れた途端にまるで凍りついたように教会の時間が止まり、狂気や殺意に取り憑かれていた信徒たちは冷静さを取り戻してゼロは呆気にとられて絶望と希望を同時に感じ取り血で汚れた祢々切丸を投げ捨ててその場に座り込んでしまう。生き残った少数の信徒たちが項垂れて自分のしてきたことを後悔して辺りの惨状に目をやりどうしてこんなことになってしまったのか悩みだし、彼れはたった少しの時間だったとしても終わらない時の流れから救われていたことを思い出す。

「こいつはまいった。あんたの顔と身体は壊したくねえ。この通りだ。許してくれ」

ゼロは何もかも諦めたように身振り手振りで自分の気持ちを伝えようとして突然”M”の前に現れた三ツ谷凍子という女性に背を向けて虐殺の温床となった白い羽根大聖堂の太陽のオブジェの前で頬杖をつき、死体の山になった教会に差し込む陽の光をみてとてもつまらなさそうに神妙な顔つきでふてくされている。

「そう。やっぱりあなたは優しい人ね。手が血で汚れているのを自分だけのせいにしようとしている。この子とは大違い」

両手両足を縛られて真っ白な髪の毛の”M”は三ツ谷凍子の言葉に悔しそうにしているけれど、何かに気付いたように後光が射している彼女の顔を見上げて涙を浮かべると項垂れて口を紡ぐ。

「なんでこれがぼくのせいなんだ。ぼくは君たちが信じているものに価値がないって教えてあげただけじゃないか」

「それでもその言葉を必要としている人はいるの。あなたの自由を奪ったのはいつも世界で起きている当たり前のことを見せてあげたかったから。もし目の前で見ることが出来なかったらあなたはそのことを知らずに過ごしていたんでしょう」

「わかっているよ、ぼくだってそんなの!じゃあどうすればいいんだ。祈り続けて何もしなければこんなことにはならなかったじゃないか」

三ツ谷凍子は優しく笑って”M”の頭を撫でて、ゼロの近くに寄り祢々切丸を拾い上げると、自分の右手首に刃先を当てて傷口を作り、流れ出た血液をゼロの口元に運んでやるとゼロは端なく意地汚く惨めに三ツ谷凍子の垂れ流す体液を口に含もうと三ツ谷凍子の右手首にしゃぶりつく。”M”は涙を流すの辞めて、わかりましたと素直に言葉を発すると、今度は冷静な顔になって目の前で起きている出来事に言葉を完全に失ってしまったポプリのほうを見て笑いかける。

「何を言いたいの。我侭な私に説教でもするつもり?」

「君が君の願いを叶えれば、君のいる世界からぼくは消えていなくなってしまう。二度と会うことはなくなるし、この美しい人間的営みだって目に焼き付けることはできないんだ。それでもいいのかな?」

ポプリは”M”の言葉に何も言い返さずに、目の前で起きている出来事から逃げるようにして目蓋を閉じて暗闇の中に恐れず沈み込んでいく。光が奪われて望みが絶たれて行く道を塞がれてポプリの前に再び小さな灯りで囲まれた大きな扉が現れる。

「ねえ。リラ。このお姉さんは何もかも嫌だ、気に入らないってまるで子供みたいなことをいうよ」

「そうよ。リル。女の子はいつまでたってもお姫様なの。少しは勉強できたかしら」

ポプリは息を整えようと膝を抱えて冷静さを取り戻して彼女の隣に六蟲憂鬱と手塚崇人がひどく退屈そうな顔をしてポプリにそっぽを向いて待ちくたびれていることに気を配り、立ち上がってどうしたらこの場所から抜け出せるのかを考えてから楽しそうにおしゃべりをしているリルとリラの二人の間に入って前に進んで大きな扉をせいいっぱいの力を込めて押し開けて光の向こう側へと堕ちていく。

「私はこのままで大丈夫。お前の意地悪もさほど気にならない。眠ったままでも目が醒めてしまったとしてもたぶん私は私でいられる」

パンっと手を合わせる音がして黒猫が両手をあわせてぐるりと七星亜衣の周りを回っている。ニャアとあくびをしながら黒猫は暗い路地裏の向こう側へと消えてしまい、さっき七星亜衣が目を閉じる前にあったはずの黄色い三日月の看板はどこにも見当たらない。けれど、彼女の傍には彼女を守るようにして六蟲憂鬱と手塚崇人が立っている。手塚崇人はスマートフォンで何かを計測していて、彼の思い通りの数値が訪れたことを七星亜衣に伝えてくる。

「午前0時は過ぎてしまった。これでガラスの靴はお前のものだ。過去でも未来でも好きな場所に飛ぶといい」

「そういうことだ。黒生さんとの賭けはお前の勝ちだな。今夜あったことは俺たち三人だけの秘密にしておけ。誰にも漏らさないほうがお前の為だ、ポプリ」

路地裏で名残惜しそうに黒猫がこちらを向いているのをきっと誰も気づかなかっただろうけれど、六蟲憂鬱と手塚崇人は先を急ぐようにして振り返り、元来た道を二人揃って戻ろうとする。ポプリも暗闇の中においていかれないように小走りで後をついていく。ガラスの靴が必要なのは分かったけれど、けど私は高校生の頃出会ったような偶然出来上がって私の前に現れた時間の歪みはどこにあるんだろうかとポプリは暗闇へと連れてきてくれた二人の後ろで一人きりで考える。

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